なぜ、焦るのか?今ここにいられないのは、なぜ?
はやく終わらせなくてははやくしなくてははやくはやくはやく!と自分で自分を急かしていることが多くあります。歯磨きをしていても。ご飯を準備していても。ブログを書いていても。何かやっているときに、次は次は…と先の先まで意識が飛んでしまい、目の前のことはおろそかになっている。どうして、私は今に集中できないのか?確かに仕事に追われていたときならば、理解できる。でも、現在は焦る必要がないのだ。それなのに、私の頭の中は効率や能率をよくすることばかりで占められていた。どうしたら、焦らないでものごとに取り組めるか?どうしたら、今にいられるか?そんな意図を持ち始めた11月の初旬。母と京都の鞍馬山に行く機会を得た。京都駅から電車を使う。何回か乗り換えがある。歳を重ねた母にとって、駅での乗り換えは階段が多く、なかなかの難関だ。人の流れも速い。いつもならば、人を追い抜き追い抜き、先を急ぐ。一つでもはやい電車に乗りたい。でも、今回は母のペースに合わせてみた。この後、鞍馬寺の山道を歩くのだ。脚は大事にしたい。だんだん、人に追い越されるのが、苦にならなくなってきた。電車を逃しても、まぁいいかと次を待った。鞍馬寺から奥の院を経由して、貴船神社まで歩く。かなり険しい道をゆっくりゆっくり歩いていく。途中休憩もたくさん取った。たくさんの方に追い抜いていってもらった。ただ、驚いたことに思ったより、時間がかかっていないことに気がついた。慌てて先を急いで生きている毎日より時の流れがゆっくりだった。ああ、私は「はやい方が得をする」って思い込んでいたみたいだ。夢から覚めたような感覚だった。時短やコストパフォーマンスばかりに気を取られていた自分が滑稽にも愛おしくも感じた。ひとりでクスッと笑ってしまった。そのとき、山の上から気持ちのよい風が吹いてきて、木の葉が雪のように舞った。あまりの美しさに母とふたりでしばらく佇んでいた。すべてが「ちょうどよく」運んでいった。この感じを普段から常駐する練習が始まりました。あ、💩だけはゆっくり待ってあげられてるかも。ただ、トイレタイム自体は5分以内が理想なので、肛門に負担をかけないように、出なかったときは再度もよおすまで、トイレからは離れます。やっぱり私は💩が核になってくれていますね。