18世紀のフランス文学は主に啓蒙思想が主流である。

下記に述べたように、モンテスキューやヴォルテール、ディドロ、そしてルソーらの思想家達が反キリスト教的な思想を繰り広げた。

後のフランス革命に関連するこれらの思想は、いずれも刺激的であると言って良いだろう。

モンテスキュー「法の精神」

ヴォルテール「哲学書簡」「寛容論」

ディドロ「百科全書」「ダランベールの夢」

ルソー「学門芸術論」「不平等起源論」「ヌーヴェルエロイーズ」「エミール」「社会契約論」「告白」

    「孤独な散歩者の夢想」


ルソーは、この中でも飛びぬけて飛躍した斬新な、革命的な試論を展開しているが、彼の出身は小市民階級である。

母親は産後すぐに亡くなり、父はスイスの時計職人

彼も幼くして丁稚奉公に出されたため、正規の教育を受けていない

奉公先から逃げ出しても、放浪生活や愛人生活を続け、世に名をなすどころか貧乏なままであった。

彼を有名にさせたのは、ある雑誌の公募論文に応募して当選した「学門芸術論」

その後勢いづいて様々な著作を刊行し、パリの社交界にも出入りするようになるが、彼の革命的な思想は教会や政府から弾圧を受けないはずはなかった。

人々から迫害され、彼は孤独な晩年を過ごすことになる。


彼の送る人生は興味深い。

我の強く、常軌を逸した性格は、確かに思想云々に関係無しに人々からは疎まれるものであったかもしれない。

彼はまだ無名だった頃、名も分からない洗濯女の子供を何人も作っては捨てさせているし、自分が割った壷の責任を、思い人の責任にしようとしたり、フランス大使館では、持ち前の我の強さですぐに首になる。

ドストエフスキーやその他偉大な歴史的文人にたまに見られるのと同じように、ルソーもまた、実際に生きて現実的に接するには難しい人物だったのかもしれない。

しかし死んで後、彼の思想は世界中に広まるし、フランスでは革命にそのままつながる。

今でも思想史に彼の存在は大きい。

そして彼は自分がそうなっていることを知らない。

「孤独な散歩者の夢想」を書きながら、本当に孤独で、おまけに晩年だった彼が、どのような思いを抱えていたのか。

私は書物を愛し、自分の思想を確立しえた幸せに浸っていると彼は「告白」に記すが、幸せであったのなら、精神的に危うくなったりはしない。

その幸せは、どうして、不幸の中に見つけ出した、ほんの少しの高貴なもの。

そういうものにしがみつき、全てにせずにはいられないということ。


唯物論的な立場を取るのであれば、死後の自分よりも、現在の自分、生きている自分が大切である。

しかし日本でも見られるように、つい最近まではそんな思想はなかった。

名誉、残された家族への処遇、即ち称えられるべき死

こういうものが非常に重要だった。

そういう世界では、時流に乗って名声を得るよりも、ルソーのように死後偉大な影響力を発する方が良しとされるのではないだろうか。

もちろん今でもよしとされるかもしれないが、昔の比ではない。

一元論二元論多元論の混在する複雑な社会に、このような思想もまた複雑化している。

そしてこれは生き方や人生そのものにつながることではないだろうか。


フランスの思想家達

パスカル、モンテーニュ、ヴォルテール、ディドロ、ルソー

カント、コクトー、バルト、フーコー、ベンヤミン、デリダ


名だたる哲学者達がそろう編み出す、知性の輪

フランス的精神とは、人間と社会の関わりにおける知だろうか


ポストモダンの思想家として有名なボードリヤールもまた、その一人である。

「消費社会の神話と構造」

今や社会学の入門書ともなる。

しかし内容は極めて難解


誤った認識の氾濫も免れない。

彼の文章と日本語との相性があまり良くないのか、翻訳に問題があるのか

いずれにせよ、和訳で見る限りの彼の文章力には疑問点が多い

何故、そのように同じ地点を何度も巡回しなければならないのか

主張を明確にせんとしている意図が、見受けられない


だが、そういった文章上の問題点はとりあえず置いておくとして

彼の意義申し立ては確かに重要である

我々が現在生きている社会への激しい懐疑

資本主義社会の矛盾点を鋭く見抜く


私達が向かって行く先の絶望についてを指摘

「死ぬ他ないのだ」


問題の無い社会など、どの時代(siecle)をとってみても存在しない

利益を得る階層、排除される階層、その中間地点

ヴァリエーションを持って、様相が変化するのみ


反乱はいつも、その排除階層に起因して革命となる

現代社会においてはその歴史を適応することさえ不可能なのだ

極めて複雑化した巧妙なシステム

消費社会


しかし彼は見捨てているわけではない

とにかくこの複雑化されたシステムを、こちらはより高度な手段でもって分析解明することが先決である

と主張するのだから


現存システムに対立するためにはそれは魅力的な手段だ

ポストモダンに見られるディコンストラクトの概念が有効である

しかし結局その手法すら、対抗律の逆転移に犯されてしまうのだとしたら


どうだろうか


S.フロイトの創設した医学。

従来の精神医学から、精神分析を打ち出す。

精神病を患った患者への治療として、催眠療法や自由連想法を提唱。

著作は今日でも有名な「夢判断」や「精神分析入門」など。

20世紀ゲーテ文学賞を受賞している。


彼が20世紀に与えた影響は、もはや医学のレベルを超えている。

フランスではシュルレアリスムへアンドレブルトンへ。

アメリカではジョイスの「ユリシーズ」へ。

絵画へ芸術へ。

批評界にももちろんその方法として影響を与えた。

後のフェミニズム運動を引き起こす一因ともなっているだろう。


精神分析


深層心理なるものは目に見えない

しかし生活の全てに根ざしたものであることは、変わらないだろう

無意識を掘り下げることの意味する重要性は、人間の知的好奇心を最も刺激する

新しければ尚更だ。

例えば彼の理論には今ではとても通用しない幻想じみたものもあるが、それでも彼の業績に恩恵を受ける人々の数は多い。


昨日見た夢のことや、繰り返し見る夢のこと

何気ない仕草

隣人の行動

自己と社会


これらを全て科学的に分析して説明してくれたとしたら気持ちがよいだろう


彼は言う

芸術は無害有益、哲学は科学の真似事、宗教は科学の敵(当時)

なるほど、その通りだ

なかなか的を得ている


しかし、科学が必要であることと同じように、哲学はただ真似事として科学に文明に追随するのではなく、それらは相互補完的なものであるのではないだろうか。

哲学の死んだ世界に、人間が個々に存続することは不可能なのではないだろうか。


言語と文化

伝統的なこの設問を前提に今日の文学者のとる態度はいかなるものだろうか


権力主義的な、或いは政治的な

スパイラルな、或いは普遍的な


興味深い設問です

異化効果

ロシアフォルマリズム・アヴァンギャルドで顕著に見られるもの

簡単に言えば、「ずらす」こと

ずらすことによって文字通り、文学的効果を狙うもの


例えば町田康などもそうだと思う


「How to do things with words」J.L.オースティン

邦題:言語と行為


今日では英国日常言語学派に分類されるオースティンの哲学

文学批評史上では、ソシュールの言語構造主義、ヤコブソン、レヴィストロースのナラトロジー(物語学)の流れを受けて反=構造主義としてミハイルバフチンと並んで取り上げられる。

ウィトゲンシュタインと同世代の言語学者だ。

本文は厳格なまでの言語分析と理論展開に徹底しており、やや味気無いが、読み返すごとに奥深さが増す。


私達は何事かを言うことによって同時に何事かを行っている。

言語は全て行為遂行的である。

言語理解に抜けのあった哲学理論に新たな補強を施しただけでなく、まだここに今からの可能性が見えるのは、気のせいでは無いだろう。

他の多くの高名な(或いはそうでない)学術書と同様に。

身体的な美しさに執着して離れないのは世の常

若い女性のダイエット、美容、ファッション、整形手術

現代もその例に漏れない

そういった外見的な美に重きを置こうとする肉眼を閉じて、心の目を開け、即ち、行為の美、営みの美へと上昇せよというのがプラトンの教え


でも、その言葉をそのまま現代に投げかけても、説得力に欠けるのが現実だ。

人の好みは千差万別だし、心の綺麗な人間はいつでも周囲に愛される。


外見的な美しさに強固なまでに執着する人間は、周囲の環境に「そうさせられている」或いは、価値観に染められている結果だろう。

だとしたら、やはり、価値観を作り上げている社会に問題があるのでは。

拒食症で死ぬ人、全身整形をするために売春をする人、ブランド品を買い漁り破産する人

殺人は、静かに、厳かに行われ、責任は個人に還元される。

普段生活していて、本当に何気なく日々を送っていて、気にも止めないこと。

「自分自身が身につけている刷り込み」の問題。

刷り込みというと、大戦時代の天皇制の問題などが想起され、今日ではあまり良い印象を持たれないが、それはいついかなる時代においても生きていく上で誰もが持ち合わせているものである。

そうでないと、社会は成立しえない。


しかし、その社会自体を客観視する際に、この刷り込みの内在が邪魔をして、社会システムに導入されてしまう。

それだけ巧妙で複雑な社会システムに成長しているということだ。


例えば私達がほぼ共通して持ち合わせている価値観。

共通では無いにしても、悪い印象は与えない価値観。

自己責任論、個人化の傾向、右翼や左翼等との隔たり、平和主義


これらは全て、現代の資本主義社会が私達に与えている刷り込みである。

決して普遍的なものでも、本質的に正しいものでも無く、社会の創出した概念と考えてよいであろう。


そして刷り込みを受けている当の大衆は普通、それに気がつかずに、大抵は流れに任せてシステムに導入されてゆく。

一人一人が逐一社会に懐疑を抱き、時には革命を企てる、自分の帰属しているはずの社会に興味関心を抱く、そういう時代では無い。

従ってシステムは硬直する。


生活な中の些細な決まりごと、法律だとか規則だとか、或いは教育だとか

ちょっと窮屈だったり、根性で乗り切ったり、きちんと守ったりしながら、日々の営みとしてみなに組み込まれているもの

どのような形であれ、規律が必要なのは、そうでなくては生きていけないから

究極的に言えば、人間は、明日の予定が本当に白では生きていけないことと同じ


社会に枠を作るのも、権力が必要であることもそれと類似する

反社会、反権力という反骨精神が例えばあるとして、それは結局相互補完的なものであることはいうまでもない





文学は、言語芸術であると、誰かが言っていた。

学問でありながら、芸事でもある。

それが今日最も近い意味で認識されている定義かもしれない。