資本主義社会

日本においては戦争もなく、そこまで理不尽な貧困もない


資本主義とはもともと、個人主義に根を置き、例えば個人の事業の失敗は、個人で責任を負う

成功は、個人の賜物である、という概念から成り立つ

これを合理的で当たり前のことだと教育されて育った


ではテロリズムは何故起きるのだろう

世界レベルに発展した先進国と発展途上国の格差は?

個人へと責任を還元しすぎるあまりに、資本主義というシステム自体が責任を負わなくなる危険性の問題

複雑化した今日の社会において、革命は起きがたいのだという。




一番最初に堅苦しいことを書いてみましたが、学術書ではないので、ちょっと一息つきます。


典型的な学術書には普段の会話で使わないような専門用語がよく出てくるし、理論武装でがちがちに固めてあるものが少なくない。

しかし文学は知のみで語られるものでは無い。

そのバランスをうまく取るのは、簡単なようで、難しい。


美学、哲学、倫理学、社会学、文化人類学、宗教学

様々な学問分野があり、相互補完し合って成立する

言語学の構造主義を、文学に適応するだとか、実存主義の発展により文学作品の傾向が変化するだとか

社会が社会として機能する限り、文学はそれ一つでは存在しえない


普遍性という言葉自体、最近では疑問視されている。

時代を経ても変化しない概念が存続するというのは、幻想では無いのか、と。

何故なら、時代に応じて求められる思考パターンは確実に変化するものだから。




はじめまして、こんばんわ。

学問として、文化として、文学テクストについての考察や批評論理の現在についてを、記録していけたらと考えています。


何故、文学なのか。

文学とは何か。


言語情報の伝達が、紙という媒体から電子機器という媒体へ移行するにおいて、「伝統的純文学」の有り様はどのように変遷するのか、消滅するのか、旧文明の残り火のようにかすかに存続するのみか。

そもそも純文学という枠組み自体、何なのか。

文学について語るところや疑問とするところは多くありますが、日々なんとなく思っていたことや感じていたことの言語化は、思考の明確化にとって、非常に重要であると考えます。

そのテクストの主要スタイルが時代によってどのような形式を形作ろうとも。


懐疑の念を持つこと、思考を停止しないこと、既存概念のコピーに終わらないこと、自分の力で考えること

そして、常に対話すること


これらを踏まえながら、新しい文学的見解の確立を目指していきたいと思います。