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芸能の世界とマネジメント

芸能界、芸能人のために論じます。

前稿において、元型に響くものは好印象であり売れるゆえ、需要はここから作り出してゆきましょうなる仮説を論じております。これは非常に物事を単純化しているため客観性はあるのですが、しかし、個別具体論となると対応できなくなるのが理論でありますから、その点をご承知おきのうえで読み進めてください。

 

まず、なぜコンビニのサラダチキンがあれほどまでにヒットするのかですが、原因の一つに元型が作用しているのではなかろうかというものです。元型は人類共通のものですから、ここを突けば地球規模で売れることは間違いなしとなる理屈です。実際にはコンプレックスの問題もありますからそうはいかないのですが、しかし、ある程度の量産体制を整えていくにはやはり元型を作用させることは有効であるように思います。前稿においてはスマートフォンを例に元型との関連を述べてみました。ではサラダチキンは何でしょうか?という課題を残して本稿に至っております。皆様方はどのようにお考えになったでしょうか。

 

これは確かに難しいのですが、考えていくと面白いのです。ではどのように普遍化が実現化するのかですが、サラダチキンの食べ方について吟味する必要があるかと思います。美味いサラダチキンをそのまま食する人もいれば、手を加えて食べる人もいます。サラダチキンは購入後に何らかの調理が行われ、その後に食する人と、そうしない人に類型化できるのですが、対極の心理状態を持つ人間が混在する非常に興味深い現象であります。このように考えるとさらに面白くなってきます。

 

調理方法からサラダチキンを考察しますと、大きく分けて3つに類型化できるかと思います。

 

1:サラダチキンをそのまま食べる。

2:調味料をかけるだけで食べる。

3:他のものと付け合わせて食べる。

 

まずは1から見てゆきましょう。

 

1はサラダチキンを開封してそのまま食べることです。つまり、ドレッシングやそのほかの調味料などを一切使用せず食べることです。開封してサラダチキンをとりだし、何も手を加えることなく食べることです。

 

2は開封してサラダチキンを取り出し、ドレッシングやそのほかの調味料などを使用して食べることです。しかしながら、それ以外のことは一切行うことはなく、サラダチキンにサラダチキン以外の味を添加するのみの食べ方です。

 

3はサラダにサラダチキンを添えて食べるなどがその代表です。

 

さて、こうなりますとサラダチキンの役割は非常に幅広いことがわかります。例えば3の食べ方でありますと、ごはんとふりかけの関係や調理の最終工程に添加するグルタミン酸などと非常によく似た役割となります。ところが、1や2の食べ方でありますとサラダチキンは主食になっており、立場が逆転しております。このことから、サラダチキンの愛好家には大別して2つに類型化でき、一つはサラダチキンの主食派、もう一つはサラダチキンの副菜派となります。

 

これを理論としてまとめますと、サラダチキンの市場において、ニーズは2つに分かれているとなります。つまり、同じ市場内に対極する心理状態のニーズが「仲良く」存在しており、対極する2つのニーズは勿論のごとく目的に大きな違いがあり、それ故にこの市場における人間の心理状態は単一ではないとなるでしょう。

 

主食としてサラダチキンを食する人はいわばそれを米のようにして食べるのですが、しかしながら、米ではない認識で食べているわけです。米とサラダチキンとでは見た目も食感も全く異なりますから当たり前のことですけど、それにしても米と同じような扱いとなります。米ではないのに米と同格・・・不思議ですですよね。この不思議でありマジックのような感覚は何でしょうか・・・

 

副菜派の人はサラダチキンに大きく手を加えることによりサラダチキンの実力を発揮させようとする人々であります。サラダにサラダチキンを使えばサラダがよりうまくなるだろうとか、サラダチキンを中華風の前菜にしてみるとよりサラダチキンがうまくなるのではないかとかです。つまり、グルタミン酸などと同じように、「これがあれば大丈夫!!」という強い自信が生れているのが特徴です。例えば警察官が警察の服装をして「私は警察官である!」と思い、また見る方もそう思いますし、弁護士バッチをみて誰もが弁護士であることを疑わなく、本人も弁護士バッチをつけることにより弁護士として仕事ができるようになります。そのような心理状態にさせるのは何か?ですが、これは簡単で、「ペルソナ」であります。

 

このように順を追ってみればよくわかるのですが、主食派の人たちにとっては「トリックスター」元型が作用しているのでないでしょうか。逆に副菜派の人たちにとっては「ペルソナ」が作用しているのではないでしょうか。

 

次の稿ではこれら2つについて論じてゆこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。

前稿においてサラダチキンの購入過程を見てみました。これがマーケティングの方法論であればキャッチコピーや陳列の方法、商品名などのミックスから成ると結論付けされると思いますが、これが実のところ経営学的に見るのであれば、売れた具体的な答えを出すことは非常に難しいのであります。そのような理論で近いものでクリステンセンのイノベーションのジレンマという理論がありますが、あの理論は確かに市場では認知されづらい製品であったものが既存市場を破壊し、ものすごく売れるという、まさに売れる状況を理論として発表されたものでありますが、携帯電話が固定電話市場を破壊したようなことではなく、また、鶏のから揚げの市場をサラダチキンが凌駕したというわけでもなく、あれはサラダチキンという新しい市場を確立するという、鶏肉の加工食品としてはだれも傷をつけることなく成長を遂げたことも注目に値するかと思います。

 

あえていうならブルーオーシャンを選んだことによる成功となるかもしれませんが、これも実は難しく、コンビニでは競争が非常に激しい鶏のから揚げの売り上げも好調でありまして、こうなると金儲けの方法論の一つとしてあえてレッドオーシャンを選ぶことも選択肢の一つであるかもしれません。競争相手がいるがゆえに成長を遂げる方法ではありますが、総合すると、レッドオーシャンでもブルーオーシャンでも成功の秘訣はどの道も正解であるとなってしまいます。確かにこれは心理学や中国哲学を研究していくうえで「両方とも大切」なる考え方は基本中の基本でありますが、言葉を変えてレッドオーシャンもブルーオーシャンも両方大切であるとなると急に「?」となるのが人間の心の面白いところです。そこで前稿におけるサラダチキンの購入過程を事例として考察を加えてみようと思います。余談ではありますが、コンフィギュレーション理論で有名なミンツバーグはこの東洋的な両面思考を西洋の学問からたどり着いた学者であります。興味ある方は彼の著書を参照ください。

 

サラダチキンがヒットした最初の経緯、つまり呼び水的なことは私はよくわかりませんが、最初に何かそのようなものがあってもおかしくはありません。例えばインターネットでレシピを見ていたらサラダチキンの情報があったなどがそれです。しかしながら、ここまでのロングセラーとなりますとそれだけが理由で購入が決定されるとは思えなく、それ以外に何か理由があると思われます。上述のように経営学ではここから先はほぼ妄想にもにた仮説が非常に多く語られるのですが、それでは面白くないので、心理学を援用し、サラダチキンの購入への道を探ってみたいと思います。

 

まず、サラダチキン自体はコンビニの商品開発部が「大ヒットを目指し市場に送り出しました!!」という商品ではなく、たくさんある総菜の一つとして販売されたのが始まりであります。たくさんある総菜の中から消費者が目をやり、実際に手に取り購入まで至ると考えます。しかしながら、たくさんある総菜の内のある一点が爆発的に売れる結果となりました。それがサラダチキンであります。このように考えますと、様々なことが心理学的に考えることが可能であります。まず一つに、サラダチキン以外の総菜に興味がないというのはいかがでしょうか。次に、日本人はサラダチキンが非常に好きであるがゆえに、他のものに目がいかないというのも仮説としてはあるでしょう。これらの両方が組み合わさり、他の総菜でも好きなものはあるが、サラダチキンを前にするとサラダチキンを思わず購入してしまうなどです。実際には惣菜コーナーまでいってサラダチキンのみを購入することはあまりないかと思います。サラダとサラダチキンの両方を購入し、サラダにトッピングして食する消費者も多いのではないでしょうか。しかし、このような状況を想定してもサラダチキンの売り上げが他の総菜よりも多いのは確かな話であり、さて、これはなぜでしょうか?というのが問題意識であります。

 

ここでの問題は好意的な印象の商品を思わず手に取るという現象であります。ここで心理学的に問題となるのは「好印象」であります。ここが実に難しいく、「悪印象」とならば問題は簡単なのでありますが、好印象となればさて、どのように解釈すればよいのでしょうか?という心理学的な問題の設定から行わなければならないのもまた研究者の心に火をつけるのであります。

 

まず、悪印象であるならばコンプレックスの問題として解決できます。なんだかよくわからないが、即座に言葉に表現することができず、しかし「イラッっとくるもの」はコンプレックスからものものです。しかしながら、サラダチキン=認められたものという、コンプレックスとは逆の結果でありながらプロセスについてはコンプレックスと全く同じである現象をどのように考えるかであります。深層心理学的には好印象に無意識に思うことができるのは元型であります。はっきりとした口調できちんとした理論にてものごとを判断していく大学教授をみて「素晴らしい!」と思うのは老賢者元型が作用しているからであります。もっとわかりやすい例では、男性が女性を見て一目ぼれするのは彼のアニマ元型(正確にはアニマ元型イメージ)が作用しているからであります。元型が単体でいきなり意識に作用した場合は大変まずい状況となるのですが、ここに個人的無意識などがバランスよくミックスされた状態で統合化されるとアニマ元型は薬へと変化します。

 

大学教授が老賢者元型、男性が女性を好きになるのはアニマ元型を投影してのものであるとするならば話はずいぶんと通じるのでありますが、今回の相手は「サラダチキン」であります。サラダチキンを人間は、さらに男女ともに何を投影しているのかとなります。例えば最近の若い男性や女性がスマートフォンを非常に大切に扱う状況を見て思うのは、まるで家族の一員かのような印象を受けます。ある男性が出勤を急いで慌てて家を出たところスマートフォンを家に忘れました。その時の感情を考えてみてください。これが女性であってもほぼ同じような感情ではないでしょうか。最愛の妻や夫、ないし彼氏や彼女が自分の手に届く範囲内に存在せず、かつ、どのような状況かもわからない言葉にならない不安を考えると現代人にとってのスマートフォンはアニマやアニムス元型を投影しているとみてよいでしょう。それにしてもモノを具体的な性のある人間とみなし、それと付き合うことができる人間は、よく考えてみると私も含めて変態であると思うわけですが、心理学は実に面白い学問でありますね。

 

今回はここまでとし、サラダチキンは人間の心のどの部分に響いているのかについてを見ていこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。

需要とは何かを考えていくシリーズですが、需要は序論で論じたように何かよくわからないから需要であるととらえるのが現代の方法ではなかろうかというものです。人が欲しいものなど他人がどうやってわかるの?という単純な発想です。その製品には需要があるなどという予測はどこからくるのか、また売れない製品に対して需要がないのは本当か?などを突き詰めて論じている学問をこれまで見たことがないので、否、こんなことをいちいち取り上げたところでどうにも学会では相手にされないので思いついたとしても研究テーマにしようとする学者がいないだけかもしれませんが、とにかくこのような研究がないわりに、このような件に対して需要があるので先に進めてみようと思います。

 

まず、需要はある人があるものを欲しいと思う現象のことを意味します。つまり、現象学の方法論がまずは必要となります。しかし、こう考えると需要は最終的に哲学へと導かれる概念ですが、これをいいだすとこの地球上のすべてのものは学問的に最終的に哲学へ導かれますから経営学をやるからには哲学は必修の科目です!などいったところで話が前に進みませんから、哲学や現象学については興味のある方が各人で勉強していただくとして、まず、需要なるものを分析してみようと思います。

 

ここで注意していただきたいのは、分析とは「分割」することであり、物事を深く考えることではないことを強調しておきます。近年では言葉の乱れがひどく、学術用語を一般向けに使用するととんでもない誤解をまねくことが多く、それ故にここでしっかりと定義しておきます。

 

まずAさんがサラダチキンを欲しいと思いました。なぜでしょうか。

 

このサラダチキンもコンビニが生み出した供給が需要を生ませた素晴らしい商品だと感じております。サラダチキン自体は別の名称で私は30年くらい前から既に目にしておりました。ところがこれをコンビニに置くと大きな話題となり、売り上げは非常に素晴らしい伸びであったとなっております。これはなぜかを考えてみましょう。

 

まず、需要が供給を呼ぶわけですからサラダチキンが欲しい!!という大きな目的意識をもって最初から購入した人はほとんどいないはずです。ある日にふらりとコンビニへ立ち寄り、そして冷蔵食品を見に行くとサラダチキンが陳列されており、それを見た消費者は思わずサラダチキンを手にするという現象であります。これはすごくないですか?味見も何もせず、サラダチキンを一目見ただけで購入が決定されるのです。商品の宣伝はSNSで顧客が行ってくれ、売り上げは増々の上昇となり、好循環が始まります。さて、こう考えた時、需要なるものはどのような意味となるのでしょうか?

 

ここで大切なのは商品としての実物を目にしていることです。つまり、実際に見るという行動です。これがネットの販売だけで成功したかというと疑問符が付くところにコンビニという小売店の魅力が出てくるのではなかろうかと思います。

 

行動の第一として、「実際に見る」です。

 

この次に実際に購入するか否かを考える行動です。実際に見た次に購入するか否かを考えます。さすがに見た瞬間に購入とはなりません。ある商品を購入することを決めてコンビニへ入店し、そして目的の商品を手に取り購入するとしても、購入するための目的意識はコンビニへ行くその前から既に始まっております。つまり、人間はどのような状況においても商品を購入する際には必ず商品を購入するか否かの判断を行っています。その意識がない場合、それはすなわち無意識の作用であると考えられます。ここがポイントです。

 

行動の第二として、「購入の可否を考える」です。

 

第三段階として購入する人と購入しない人が現れます。しかしながら、供給が需要を生む構造があると判断される場合、実際に目にしてから購入に至る人の方が多いと仮定します。つまり、購入の可否を考えたうえで購入を決定するという行動です。

 

行動の第三として、「購入」という行動です。

 

購入後は食することになります。食べた後に感じる味覚はそれが美味か否かは別の問題として、「次も買おう!」と思わせるところがサラダチキンの素晴らしさです。

 

第四の行動として、「再購入を決定させる」という行動です。

 

以上の四つに区分してみました。これは分析心理学的な視座より四分割してみました。

 

さて皆さまはこの分析をどのように見るかであります。賛否それぞれいろいろとあるかと思います。否、私のこの分析が間違っているという意見の方が多いかと思います。とりわけ一般の方やマーケティング論を専攻する研究者の方々からは厳しい意見がくることは間違いありません。なぜなら、あまりにも人間の心の問題に接近しているからです。マーケティング論的に考えるのであれば、それは「ブランディングやろ!!」というような意見が出てくるかと思います。しかし、心にしみるブランディングとは一体何なのか?についての答えはマーケティング論ではなされておらず、この点に限界を感じるわけです。

 

次回は分析の結果の考察を行っていこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。

全シリーズでは供給側のことに限り論じてきたのですが、それはそれとして需要のことも大いに理解していただけたものであると思っていたらそうではなく、存外、その逆のことを考えるという思考を供給することができていなかったのか、需要についても話を聞きたいとの声が多かったので論じている次第です。しかし、需要なるものは前述のようによくわからないので需要されるように仕掛けていかなければならないのではないかという仮説です。その具体的な仕掛け方については全シリーズを参照していただくとして、供給する側が需要について気を付けていかなければならないことを述べていきます。

 

まず需要なるものは需要そのものと有効需要とに区分されます。これは経済学の専門的な概念でありますが、換言すると「漠然とした需要」と「確実に売れる需要」とに区分されます。区分するのはいいのですが、これらの区分原理が経済学者の私でもよくわからないのと、経済学会においてもその件についていまだこれらの区分原理について専門的に研究している経済学者など皆無であり、需要の概念をに分割するという分析には面白みを感じるものの、それ以上の意味合いがないのが残念であります。また、漠然とした需要も確実に売れる需要も、需要なるものは人間の心の問題であるので実のところ両方とも「漠然とした需要」であることは否めず、しかしながら、需要があるものの実際に消費へつながらないなどの問題もあるため、私は現代の需要なるものは「半分は目に見え、半分は目に見えない」と定義しております。ですから、需要としてあるものの、消費にまで至らない需要があるのではないかという、「第三の需要(以下、非有効需要)」を仮説として見出しているのですが、この第三の需要と有効需要と含めて考えていく必要があるものと思われます。ですから、需要なるものは・・・

 

   →需要

需要

   →有効需要 + 非有効需要

 

有効需要なるものは、例えばアンケートやヒアリングを通じてこれはかなりの高確率で売れると判断された製品のことを指します。ところが自在に市場へ放ってみると全く売れなかったという現象が実際にありますが、事前の分析のみを対象とした概念であるので、製品が市場へ出ていった事後のことまで事前に考える必要があると考え、私は有効需要に非有効需要なるものをとりわけたのであります。

 

このように考えてみますと、需要なるものは結局のところほとんど目には見えないものであると考えるほうが妥当であり、よく見えて半分くらいではないでしょうか?と考えるのが妥当であると考えております。ようはそれほど需要を追求することは困難であります。そのことから考えてもやはり、供給を積極的に行うことの方が話は早いのですが、失敗すると研究開発費のロスにつながり、では需要なるものを見ていくためにはどのようにすればよいのかについて吟味検討していくのが本シリーズでの目的であります。

 

需要については非常に曖昧な概念であるゆえに様々な使い方がされます。例えば、「こんな私に需要があるかな?」とか、「需要を掘り起こす」などです。これらの使い方は間違いではありません。ただし、需要の概念が曖昧なために「欲求」であるとか「宝物」などに翻訳された意味に使用されております。私は需要は欲求でも宝物でなく、需要として捉えていくことに需要の意味を見出していくことを本稿の目的とします。

 

では需要の意味は?となるのですが、それは「人の思い」であると私は考えております。またそういう仮説であります。では人の思いを探るにはどのようにすればよいのかとなると、やはり心理学に頼らざるをえないのではないでしょうか。人の思いを数値化して行動を評価する方法もありますが、しかし、人間の意識には無意識も含まれており、人の心の深層部分では需要の確率が100%の部分もあります。そう考えると統計学では人間の心を評価することは不可能となり(需要が100%のわりに実際には需要が起こらないことが多い故・・・)、形而上の需要と形而下の需要とに区分して需要を評価しなければならないと私は考えております。

 

私は需要を形而上と形而下の両方から考え、供給者が需要に対してどのように対決してゆけばよいのかについてを将来展望とする予定です。

 

ご高覧、ありがとうございました。

前稿では供給が需要を生む現象にかんして、その事例を見ました。需要なるものは需要が見えている場合は簡単でありますが、需要が不透明となると判断することが難しく、ゆえに正確な需要を求めようと企業は努力するのですが、それでも難しいのが現状であります。経済学ではこの見えない需要のことを有効需要と称して概念化しておりますが、この有効需要がわかれば問題ないのですが、わからないところに概念としての限界がありまして、有効需要を見極めろ!!と指令が下ったところで「どうやって?」となるのが常であり、ここに心理学的な接近が必要となりますが、稿を改めます。

 

この有効需要をうまく見つけ出した例がコンビニのおにぎりでありまして、有効需要なるものは雲隠れしていて見えないですから供給側が仕掛けていくしかなく、しかし、間違えば大変なことになるのでこの方法は事業計画を作成することに多大な時間が発生し、それだけの時間を使っても結局のところ計画が中止となる場合も多く、私としてはこの問題が解決できればそれだけでも働き方改革はもっと大きく成功するのではなかろうかと思っております。

 

いろいろと述べてまいりましたが、供給が需要を呼ぶ経済の場合、そもそも需要の判断が非常に難しいので、需給バランを予測することが難しく、こうなると価格の設定までもが「あくまでも予測の範囲内」という状況が続いてしまいます。これは例えばここ数年は恵方巻の廃棄の問題が社会現象となっておりますが、経済学的に考えると当然のことで、需要があることはわかっていても実際に顧客がいくつ購入するかどうかについてはわからないのです。つまり、有効需要の詳細について判断がつかない故に過剰に生産することになります。この点は本当に難しいことでありまして、全てがコンビのツナマヨネーズのおにぎりのようには事が運ばないのです。需要曲線と供給曲線という経済学の基本的な図を考えてみると、実際に売れた数と生産数という過去の実績をもとにするしかなく、ゴールデンクロスした部分にて価格が決定されるとなりますが、それが明日の価格と供給量にそのまま反映してもよいかというと、現在の企業人の方々は怖くてできないのではないでしょうか。価格の決定については損益分岐点を利用して考える方法もありますので、興味のある方はアカウンティングの教科書も是非ともご一読ください。

 

経済については様々な考え方がありますが、やはりモノを作ってそれを販売し、顧客が購入するという一連の流れを無視するわけにはいきません。この供給側の企業と需要側の顧客を分離して考えだすと間違いが起こりやすくなるのでないかと思います。需要のことだけを考えるとか供給のことだけを考えるのでは危険であります。売る人がいるから買う人がいる、そしてのこの逆のことがあるわけで、需要と供給は常に表裏一体でありますから、同時並行的に考えていけば需要とは何か?とか供給とは何か?について何らかの答えを導くことは可能となるのではないでしょうか。

 

しかしながら、需要は有効需要とに分割されているように、半分は理解できるがもう半分は理解できない概念であります。その理解できない半分の部分を本シリーズにおいて探っていく予定です。わからないから苦しいのではなく、わからないから「面白い!」を目指していこうと思います。現代における日本の教育はどういわけか「白か黒か」をきっちりとさせようとする教育でありますが、社会に出るとその逆の現象と向き合っていかねばならず、わからないことをわからないまま事を進めるという楽天的な思考も必要だと思いますので、今回の需要のシリーズでは前回の供給のシリーズで行ったような一貫性を追い求める方法ではなく、もっと気楽なものにしようと考えております。これも需要という性質があるがゆえに行えることであり、この部分を大切にしていこうと考えております。

 

次回をお楽しみに。ご高覧、ありがとうございました。