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芸能の世界とマネジメント

芸能界、芸能人のために論じます。

音楽の需要を考えていくシリーズでありますが、ネット社会の影響で流通が大きく変化し、地球規模で需要は同じ方向へ向いているように思います。どこの国へ行っても流れている曲は同じという現象であります。しかし面白いことに、音楽は無料で聞くことができるようになっておりますからあるいくつかの企業が寡占の状況を作り出すことができず、この点について非常に困ってきている状況であります。エジソンが蓄音機を発明して以降の音楽は音楽の大衆化に大きく貢献しながら、地域による音楽の違いも楽しめ、音楽出版にかんする少数の企業による寡占状態が可能となり、逆にその寡占企業が産業としての分配者となっていたのですが、このビジネスモデルが根底から覆され、全く逆の現象が起こっているのが現在の音楽の世界であります。しかし、よく考えてみると、例えばコンティンジェンシー理論を例にすると、分化と統合は避けられない事実として認識しなければならなく、このような考え方は5千年の歴史を持つ易経においてもそのように解釈されております。例としては少ないながらもこれらの例から考えると、これまで分散していた音楽の需要は現在統合へ向けた動きを見せているが、将来的には再度の分散となると仮説を設定することができます。音楽事業を営むものはこれまで統合化されていたものが分散化しているのが現状であり、しかしながら将来的には統合へ向かうのではないでしょうか?と仮説を設定することは可能ではないかと思います。

 

世の中では結局のところ同じことが繰り返されるのですが、自動車産業でも同じようなことがいえますし(地球規模で見ていくのなら)、スマートフォンなどはもっと短いサイクルでこのようなことが起きているのではないでしょうか?しかしながら、各製品の持つ意味は節目で変わることがあり、音楽についても常に100年前と同じドメインであるわけがなく、同じ音楽でも意味が変化してきているところに着目しなければならないかと思います。経営学の専門用語ではこれを「事業ドメイン」といいまして、日本では榊原清則博士が第一人者であります。このような時代の変革期と思われる時期においては目的意識をしっかりと持つことが大切になるかと思いますので、是非とも榊原博士の書物を手にしていただきたいと思います。

 

ここで話を前稿からの続きへと戻しまして、供給が需要を呼ぶという現象をご紹介しようと思います。需要が供給を呼ぶというのは非常にわかりやすい考え方でありながら、100%の需要にかんしてはなぜか売れないという矛盾を含むものの、言葉への考え方はそれほど説明はいらないかと思います。皆が望んでいるから供給するわけです。しかしながら、需要側が多様化すると規模の経済を狙いにくくなります。音楽産業でいえばこれまでは寡占の状態で回っていたマーケットが崩壊し、分散化した結果として音楽産業に関わる人の多くの失業者が増えたというような経済的な仮説がなされます。需要の幅が増える一方で数が出ていかないので寡占状態では対処できず、「どうすんねん!!」となったとき、コンビニの「ツナマヨネーズ」のおにぎりが発売され、それが大ヒットしゆえに経済学会にて大きな衝撃が走りました。まあ、売っているほうは「売れてよかった!!」という安堵の気持ちと、非常に忙しいながらも企業として大きな成長を遂げることができたので「うれしい悲鳴」というのが本音であったであろうと思われますが、この現象を翻訳し、考え方の大きな転換を図ろうとしたのが日本の経済学会でありました。とりわけ近代経済学を専攻する学者たちが飛びついた例でありまして、私もその渦中に巻き込まれていたのでその時の思いでと共に書いていこうと思います。

 

まず、おにぎりを売ろうとするとき、当時のおにぎりは昔ながらのおにぎりの具である梅、かつお、昆布の三種類が基本でありました。中には漬物を埋め込んだものも存在しておりましたが、ツナマヨネーズが発売されるまでは基本的にその三種類でした。おにぎりは日本人の主食であるコメを基調としたものであり、主食であるから作れば売れるだろうと思っていたところ伸びがなくなり、さて、どのようにして売ろうかと需要を探っていたところ、おにぎりの需要はやはり上述三つの具をいれた主食としてのものでありました。実のところマーケットも昔ながらのものを望んでいたのです。しかし売れ行きが鈍くなってきたのはなぜかと、おにぎりの開発者は需要と売れ行きの矛盾を感じるようになりました。もう考えていてもどうにもならないので、どうせなら面白い商品を出してみようと考案されたのが「ツナマヨネーズ」でありました。

 

これは開発者も勇気がいったと思いますが、それを許可した商品開発部の部長やその企業の役員などの対応も素晴らしいと思います。その当時は子供であった私でもおにぎりは「梅干しや昆布!」と思っていた頃に、とりわけ役員などになるとその当時で還暦を過ぎた方々が多数なわけで、おにぎりに対しては非常に強い昔ながらの固定観念があったはずですが、そこにツナマヨネーズをぶち込んでマーケットに投入することを許可したわけですから素晴らしいという言葉以外に表現の方法がありません。私はその時の開発の方々の心理状態の方を知りたくなるのですが、つまり、この状況が供給が需要を生むことの核となったのであります。

 

このように、モノが豊富な時代となると需要にかんする考え方にずれが生じてきます。上述の例では、主食を使った製品は出しただけで売れるという考え方が通じなくなった例であります。ところがおにぎりの需要がなくなったわけではなく、興味はあるような数値が出ているので、そこで爆弾投下となるに至ったのです。主食を使った製品であるにもかかわらず、販売力が鈍ってきたから「これは日本人の需要はパンにいってしまった」と考えなかったところが素晴らしい。主食なのだから日本人はおにぎりが好きなはず。ただ、商品開発に問題があることに気づきこれまでにはなかった、つまり、需要などほとんどなかった具材に着目しそれをマーケットに投入し、それが大ヒットしたという一連の流れが経済学者のいう「供給が需要をよぶ」という経済構造であります。

 

ここで大切なのは、テレビのない時代にテレビを世に出すとか飛行機のない時代に飛行機を作ってみるというような夢の世界を現実にしていくものではなく、需要の半分は見えていることです。米は日本人の主食であり嫌いな人は少ないのであります。よって需要として米があることは簡単に理解できるのですが、主食に対する需要者の思いに変化が見られた時期であったわけです。そこで事業ドメインの転換を図ってみた結果、大きな成果が出たということです。現在でも米は日本人の主食でありますから嫌いな人は少ないかと思われます。よって、需要の半分はわかっている、それも主食として摂取できる米の製品をつくるとマーケットは歓迎するのではなかろうかと思います。そこに必要なのは経済学の知識よりも考える力と勇気の二つです。経済学からわかることは過去の実績でありまして、未来まで見えません。まあしかし、時代は繰り返されますから、非常にうまい梅干しを、さらに美味く梅干しとして食べさせることに専念した「おにぎり」などを作れば・・・・などと考えてみたりするのも楽しいものです。ちなみに、これはおにぎりをメインとしたものではなく、梅干しを売ることを考えた場合です。

 

このように、需要が多様化していく中でもやはり、スケールメリットなるものを狙うことは可能であると私は考えております。そこで出てきたのが供給が需要を生むであり、ただし、全てのことを暗中模索するわけではなく、半分は見えている状態であることが重要なのです。換言すると、需要の半分は見えているのでその見えている半分に流されてしまう可能性もあり、現在において製品開発が難しいのはこのせいではないかと思えます。

 

今回はこれで筆を置きます。ご高覧、ありがとうございました。

音楽の需要なるものを定義し、その需要への対応を考えていくシリーズを試みているのですが、存外、需要と供給という経済学の基礎の話が聞きたいとの声が多く、このあたりから論じていってほしいとのそれこそ「需要」がありますので前稿から需要と供給について解説しております。前稿においては「需要が供給をよぶ」経済構造を解説しました。需要が見えているからこそ供給が可能となり、経済成長を数学的に計算し、そして立証できたがゆえにマクロ経済の成長が可能となったということができます。これは多くのマクロ経済学者は反対する意見だと思います。なぜなら、これではまるで「計画経済」だからです。計画経済が破綻してかなりの年月が流れておりますが、心理学者でもある私からすると、資本主義経済といえども、需要が見えている状況の中で物事を進めることは計画的に物事が進めることが可能であり、いわんや供給量にかんしても調整できる可能性も高く、例えば、過労の国民が多い中で甘口の日本酒の流通量を5から7へ上げる根拠は「需要」であります。これを調整といわず、なんと表現すればよいのでしょうか?

 

話がそれましたが、今回は供給が需要をよぶ経済構造を解説していく準備を行おうと思います。

 

高度成長期もおわり、その後にオイルショックや何度かの好景気と不景気を経験した後、バブル時代が到来します。まじめに働いていればマイホームに高級車が簡単に手に入る時代でありました。インターネットもこの時代から徐々に広まりを見せ、少なくとも私が小学生のころから既にインターネットは存在しておりましたが、つまり、パソコンなどの精密機器が一般家庭に入り込んできたのがこの時期であり、この頃の人たちが非常にあこがれていた「自動化」への期待が非常に高まった時期でありました。つまり、この頃になれば米や酒などの食料品の需要は減少傾向にあり、逆に減反政策などで田畑が消えていくようになっていき、代わりに建物が立っていくのをこの当時の人々は目の当たりにしていました。しかし、それが経済成長であると認識している人も多かったせいか、田畑が消えていく現象よりも高級マンションが建設されることの方に大きな関心があったように記憶しておりますし、その時のツケが現在に回てきていることはいうまでもありません。

 

何がいいたいのかというと、バブル期において人間の生活においての基盤が完成したことより、「自動化」という、日常生活にあってもなくてもよいものについて需要がシフトしたことです。食べるものがない時は生活費必需品が需要されるわけですが、全国民へ一通りのものがいきわたると次なる需要が生れ、それが「自動化」にかんするものであるわけです。その第一段階としてパソコンが代表となる精密機器であり、その需要に沿って様々な開発がすすめられたので「IT革命」と呼ばれるようになったのであります。

 

さて、IT関連のモノは需要がはっきりとしているのでマーケットは拡大したのですが、日本のマクロ経済はバブル期から成長はするものの、発展がないという非常に不安定な時期に入ります。わかりやすくいいますと、マクロ経済の成長率が鈍い状況となるのです。マクロ経済の成長は右肩上がりであるものの、その上げ幅が「小さい」わけです。これはやばいですね、皆様方。これは何を意味するかというと、端的にモノが売れなくなっていることを意味します。売れていたら上げ幅は横ばいないし上昇となりますから、IT分野以外のマーケットが大きく縮小しているから上げ幅が少なくなるわけです。

 

これは前述している生活必需品のように、ある程度マーケットに浸透するとそれ以上は望まないという人間の心の問題があります。トイレットペーパーが不足する時代にはトイレットペーパーに大きな需要がおこり、トイレットペーパーマニアでもないのにトイレットペーパーを大量購入する現象が起こります。オイルショックの時がまさにその時でした。いつでもトイレットペーパーを購入できる状況の時はどういうわけか「必要最小限」となる生活必需品でありますが、物がないときは「大量(過剰)購入」となります。面白いですね、人の心なるものは。そして、この例でもわかるよに、一度マーケットに浸透したものについて、需要を予測することは不可能であることです。この分野においてはマクロ、ミクロともに経済予測は不可能となり、それゆえに計算できるような状況へ物事を運ぼうとする経済学者が現れたり、ステルスマーケティングが行われたり、どういうわけか「予測可能」な状況を作り出そうと躍起になる経済構造へと変化させようと努力する人が増えます。これがまた心理学的には面白いのですが、それはまたシリーズを改めるとして、まずはマクロ経済が成熟するとこのような状況となることをご理解いただきたいのです。

 

しかし、世間はそのような作られた世界を「作っていこう」とする人々だけで構成されているわけではありません。非常にクリエイティブなことを行いブレイクスルーした事例もあります。それがコンビニのおにぎりであります。しかも「ツナマヨネーズ」などは衝撃的な具体事例であり、これをもとにして理解ある経済学者たちは「供給が需要をよぶ」と考えるようになりました。シュンペーター派からすると「今頃か!!」となったわけですけど、「米+ツナ+マヨネーズ」について、まさにその当時においては「新結合」でありますし、それまでは昆布と梅干が主流であったおにぎり業界では流通面も改めなければならなく、ましてやおにぎり屋さんがマヨネーズ業界に本格的に参入していくわけで、これぞ新結合、否、イノベーションであるのではないでしょうか。ただし、プロセスイノベーションの気配を排除することはできませんが、それでも私は評価するべき事例であると考えております。

 

本稿においては需要が供給をよぶ経済からその変遷を経て、供給が需要をよぶという入り口部分までを解説してきました。次回から供給が需要を呼ぶについての具体例に入っていきます。ご高覧、ありがとうございました。

前稿においては音楽の需要なるものの定義を行うための準備を行いました。しばらくこの作業が続きます。よろしくお付き合いください。

 

マーケットにおいては常に供給があれば需要があり、経済学においては需要が供給をよぶという近代経済学、とりわけケインズ経済学においては定説となりました。しかし、コンビニが日本で非常に大きな成果をあげると、次に「供給が需要をよぶ」という理論が現れ、ケインズ経済学を否定するまではいかないものの、一部改良がおこなわれたのが私が学部で経済学を学んでいた頃でした。ですから、今から約25年前に日本の経済学は大きな転換点を迎え、その転換点において私は経済学を学んでいたのでした。

 

供給が需要をよぶなる経済構造はIS-LMモデルでは数学的に計算できず、つまり、公式を作ることが不可能であるため数字で実証することが不可能であるため、今日でもこの経済構造を支持する経済学者は多いものの、立証が不可能であるために話を進めにくいのが現状であり、現在における経済学者が非常にもがき苦しんでいる問題であります。そして、その迷える経済学者を多くつくるきっかけとなったのがシュンペーターのイノベーション理論であり、彼は非常に優秀な計量経済学者であったにもかかわらず、その肩書を自ら捨てさり、数学的実証が不可能であるものは不可能であり、よって第三の道へ進むべきであるとし、そこから導き出されたのが「新結合」なる理論、現在における「イノベーション理論」となったのであります。ではなぜ供給が需要をよぶ理論は数学的な立証が不可能であるかですが、それは需要を先取りすることは数学では不可能であるからです。つまり、人の心の問題に接近するものであり、ましてや無意識を数値化するなど不可能であるため、そもそも需要を先取りして供給を需要よりも先行させるなど数学的には「実証不可能」という「数値」が出てきてしまうからであります。

 

さて、ここまでは経済学の専門家が読む文章でありまして、一般の方々には心の底から納得するにはあまりにも抽象的すぎると思いますから、簡単な例を用いて個別具体性を持たせてみようと思います。まず、需要が供給を生むという伝統的な考え方をご紹介しましょう。

 

需要なるものはモノを購入しようとする側のことを意味します。換言すると消費者のことです。供給とはモノを消費者に手渡す側のことを意味します。これを経営学では企業といいます。法律上の会社とは考え方が非常に異なりますからご注意ください。

 

需要が供給が生むわけですから、企業は消費者のニーズを探る行動を行います。ヒトは何が欲しいのか・・・・このように考えるのは現在を生きる人々でありまして、需要が供給を生むわけですから需要なるものは既に供給側に見える状態にあるわけです。例えば、終戦直後から高度成長期の日本を考えてみましょう。終戦直後ですから日本全体のマーケットとは「生活物資」が必要となることが目に見えております。まずは当時の日本人にとって「米」に対する需要が非常に大きいものであることは考えるまでもありません。需要がわかっているわけですから米をマーケットに流通させると売れるのは当然のことです。そして、売れた分だけ日本経済は上昇します。

 

これは極端な例ですから話を高度経済成長期にもっていきますと、高度成長期を日本はどのように表現したかというと、「もはや戦後ではない」と定義しました。これが1956年の経済白書に明記されました。この頃になれば米に需要があることは変わりありませんが、流通としては少し落ち着いた状態になったとはいえ、米に大きな需要があることはわかっていることなので米を多く流通させることは経済を発展させる一つの材料であるものの、米の需要だけでは日本経済を支えるには難しい状況になるのもこの時期の特徴であります。ましては人口の増加がありましたから、人口が増えた分の経済成長がなければ地盤沈下となります。では、何を売ろうか・・・と企業は考えます。

 

経済成長が著しい・・・要は日本国民全体が過労になっている・・・そうなると甘いものを売れば売れるはずだ!戦時中に米兵からもらったガムやチョコレートがどれほどうまかったか!日本酒も甘口にして売ろう!「甘い」がテーマだ!!

 

需要が供給をよぶ経済構造とはこのような状況のことをいいます。特徴的なのは需要が目に見えている状況でありまして、人の心の中を覗いて需要を掘り起こすわけではありません。「マーケットが望んでいるから企業としてその望みをかなえることが使命である」となるのが需要が供給をよぶ経済構造でありまして、逆に需要が目に見えているのに辛口の日本酒をマーケットに送り込んでも売れないのが需要が供給を呼ぶ経済構造であります。需要がわかりきっているので数字で需要をとらえることが可能であり、ゆえに、数学的に経済をとらえることが可能であるのも大きな特徴であります。甘口の日本酒の需要が5であれば企業として5を供給すれば事足ります。日本国民が今以上に働き、その結果として過労の人が増えている状況では、甘口の日本酒の売り上げがさらに伸びることは目に見えているので、翌年は7を供給すると、日本酒のマーケットは2上昇します。なんと素晴らしい経済構造でありましょうか!

 

このように、需要が供給をよぶ経済構造においては経済を数学的に表現できるため計画的に運営することが可能となり、よって金融政策も打ち出しやすく、金利のことで国民ともめることは今ほどではないわけです。企業への融資の問題にしても、マーケットが見えていますから、マーケットに沿った事業計画書を提出していれば融資は可能となり、融資する側も回収できる確率の方が高いわけですから金利で儲けることは容易であり、売って儲かり、貸してさらに儲けることができる。よって経済は大きく成長するという結論となったのであります。もちろん、その当時の話であります。

 

今回はここで筆を置きます。ご高覧、ありがとうございました。

前回まではある事業における供給側についての都合を論じてまいりました。需要側からするとそんなことまで気にしてるの?と感じていることでしょう。しかし、売ろうとする側は生活していかねばなりませんから真剣になって様々なことを考えるようになります。つまり、需要がどうなっているかを通常は死ぬ気になって考えるようになります。芸能人を含む芸術家の多くは需要を考えずにマーケットへ飛び込む人が多いのが現状でありまして、この件を解決すれば芸術の世界はもっと大きくなるのではなかろうかと思い、前回までのシリーズを論じておりました。現実のマーケットでは供給することだけではなく、需要側のことも考えねばならず、そこで今回からは需要側のことを見ていこうとするものであります。

 

需要と供給なるものは経済学の基本用語でありまして、そこから派生したマーケティングの分野においても非常に重要な概念となっております。私はマーケティングの専門家ではないので詳しく述べませんが、少なくとも経済学においての需要と供給の意味は世間で認知されている考え方と一致していると考えております。その意味で深層心理学の概念よりは簡単に頭に入るはずですが、これらの概念は今後そんなに使用することはありません。なぜなら、これから論じていく芸能界での需要にかんする主体は人間であります。ですから、これまでと同じように心理学を軸に、経営学を援用し、それが最終的に経世済民となればと考えております。今後も芸能人のためのことを論じていくことにします。とりわけミュージシャンについてです。

 

需要側からするとミュージシャンなるものはどのように映っているのでしょうか?これがまずは難しいことですが、ここから出発しなければ話にならないのも現状であります。また、音楽のマーケットを知ろうとする人のほとんどはここから出発し、そのための本を探したりネットから情報を得ようと試みるのではなかろうかと思います。ところがミュージシャン経営論などを学問的に、さらに実践的に取り扱う情報など私は見たことはなく、もしあったとすれば既に大きく報じられているはずであります。さらに、学会においてこのような応用経営学は認められない傾向にありますから、思いついたとしても実際に行動していく学者などいるはずもなく、また実務に携わる人々は日々の業務に追われて論文を書いている時間などないであろうし、難しい問題が山積しているのですが、そこを私がなんとかしてみようというのが今回の企画であります。

 

音楽の需要者がミュージシャンをどのようにみているかについては十人十色という意見もあるでしょうし、ビジュアル系だとビジュアルに興味のある人が需要すると答える方法もあるでしょう。しかしミュージシャンといえども、オーケストラでのバイオリンの奏者もミュージシャンでありますし、ロックバンドにおいてギターを演奏する人もミュージシャンであります。そこにプロとアマの区分けがなされますからミュージシャンなる業種は非常に幅の広いものとなります。

 

ところで、現代においてクラシック音楽を聴きたいと思うことがあるでしょうか?ほとんどの方は「ない」と答えるでしょう。これが自我の問題です。では、ホテルのラウンジに15時に入室し、そこで取引先との談話があるという場面を想像してください。そこでアイドルの曲とかハードロックをBGMにしますか?そのような場合、クラシック音楽がよいのではないでしょうか。今はどうか知りませんが、私が小学校や中学校、高校などでの入学式や卒業式の会場へ入場する際、ヴィバルディの四季の「春」が流れておりました。そのような時にやはり、こういう公式行事の時にはディープパープルのスモーク・オン・ザ・ウォーターだぜ!と思う人は非常に数が少ないかと思います。となると、唐突に「あなたはクラシック音楽を好んで聴きますか?」という質問の方法が悪いわけであり、古い音楽でも現代音楽でも人間なるものは音楽がなければ生きていけない理由があるという仮説が成立します。つまり、ジャンルはともかく、需要としてまずは「音」があるわけです。そしてそのことに気づいている人はほとんどいません。つまり無意識の領域であり、深層心理学が非常に役立つことをまずはご理解していただくことから始めていこうと思います。

 

今回はここで筆を下ろしますが、しばらく序論が続きます。つまらないかもしれませんが、しばらくの間お付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。ご高覧、ありがとうございました。

個性化していて「凄い!」と感じる人は存外、普通の人であるという仮説を前稿において論じたのですが、ここが難しいところで、これを理性で完全に感じ取ることは不可能ではないかと考えておりますので、この感覚がよく理解できない方はマネをしない方がベストです。心理学的な普通と世間的な意味での普通はそもそも意味が異なりますので、この点について理解できない場合、別の方法で芸能活動を行ったほうがよいかと思います。

 

このシリーズは前稿からの問題提起について結論が下れば終える予定です。これまでは売っていこうとする主体についての議論に偏っておりましたから、今後は需要側についての議論を展開していく予定です。

 

ところで、心理学上の普通なるものはバランスが取れている状態のことを意味します。つまり、集団の中で埋もれながらも目立つ存在でもある状態のことであり、集団の中で埋もれて生きていくこともできれば、目立つ存在として生きていくこともできるわけです。なぜそんなことが可能であるかですが、それはその人物が両方の生き方を体験しているからであります。ここは経験という言葉よりも「体験」と表現したほうがよいかと思います。つまり、コンプレックスの問題も加味して考える必要があり、その意味で経験よりも体験の方が心理学的には重要ではないかと考えております。

 

最近は登場回数がかなり減ったA氏を例に考えてみますと、A氏の目指すところはただ単に売れたいという心理状態でありました。売れるためには何でも行い、いわゆる「独りよがり」の状況を自ら発生させる事態に至ったのであります。そのためには手段を問わず、それ故にウソまでつき、仲間も裏切ることになり、一時はスターダムになる直前まで上り詰めたのですが、無意識はそれを許さないのでしょうね・・・嘘が暴かれ地に落ちたのでありました。つまり、自我が強いとアンバランスとなり結果的に無意識からのお誘いがやってくるのです。無意識は全世界共通のものでありますから、共時性を通じその無意識を全世界の人々が感じ取ることが可能であります。そうなると意識的な成功をもくろんでいる場合、当然のごとく失敗するわけです。しかも、A氏のことを知る人は全てA氏の無意識を感じるわけで、そこで様々なことが起こるのです。これらすべてのことが意識されずに発生するわけですから、心理学をより深く学んでいこうと思える大きな理由の一つであります。

 

この例からすると心理学で意味するところの普通の意味がお分かりになるのではないでしょうか?つまり、この失敗を踏まえ、次は無意識に注意しながら、集団にもうまくなじんでいくことができるようにやり直していくと個性化は可能ではないでしょうか。しかし、人間というものは失敗から学ぶまでの勇気がないもので、「失敗を活かしましょう!」といわれてもそうはいかないのが現実であります。A氏が普通の人間になるためには地に落ちた痛みを感じないようにしなければいけないのですが、物理的に高いところから落下すると、骨折はするし、内臓も損傷しますし、生きていたとしても体のどこかが不随となる可能性も高く、その状態から立ち直るにはどうするか?と途方に暮れるのが多くの場合ではないでしょうか。心の問題や人間関係も同じであり、回復は非常に難しいのであります。

 

これゆえ、芸能界では最初からやる気のない人が存外、早く人気が出る可能性が高く、これまでも多くの有名な芸能人を若いころに選抜してきた企画者から話を聞くと、オーディションでの選考基準は「やる気のなさ」が大きなポイントとなると答えております。しかし、やる気のない人がどうしてオーディション会場にいるのかが気になるところですが、これは簡単なことで、当然のことながら公募のオーディションではなく、テレビ局や制作会社が当人に直接コンタクトしたいがゆえに、その人物のためだけに開くオーディションがあり、その場での話であります。そのようなオーディションにおいて、「この人物はやる気がある!」となるとかなりの確率で不合格となるでしょう。しかし、これを逆手にとってやる気のなさをアピールしたところで無意識が意識に襲い掛かりますから、無駄なことはやらない方がよいかと思います。

 

ここまで理解できたらあとは実行です。皆様方のご健闘をお祈り申し上げますが、全ては自己責任でお願いします。

 

次回からは需要側の意思決定の問題に入っていこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。