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芸能の世界とマネジメント

芸能界、芸能人のために論じます。

売るとはなんとも難しいことであります。重複しますが、一癖あるとか毒があるから売れるとか、個性があるとは普通であるとか、世の中は矛盾だらけであると思いませんか?私はそう思っていますが、それでも皆様方は一貫性を追い求めますか?一般の皆様方は矛盾など無縁であり、常に一貫性を重視し、常に幾何学的に考え、行動していますか?少なくとも私には無意識なるものが備わっておりますので矛盾の世の中が常識であると思って生活しておりますが、自分を売り込んでいく、ないし、ある商品を売り込んでいくときに一貫性ばかりを追求している、自分や商品は常に正しい!!という売り方で昇進や商品の大ヒットを狙えるかという私からの疑問であります。しかし、個性化そのものは「普通」を目指すものであり、これは窮極の矛盾であるように私は思っております。

 

では普通とは何かですが、ユング心理学的に追求しますと、偏りがある中でバランスが取れている状態と解釈するしかないわけです。自我と無意識との対話なるものは集合的なものと個人的なものとの対話を意味します。ユング心理学においての集合的の意味は太古から受け継がれる、現代的に言う人間としての「DNA」のことを指し、つまり、人類の誰もが持ち合わせる心理であります。それはあまりにも普遍的であるため、これにとりつかれると窮極的に普遍的な人間となるわけですが、逆に没個性となり、集団の中に埋もれてしまいます。かといって「目立ちたい!!」という自我のみが勝ってしまうとただの目立ちたがり屋となってしまい、孤立するわけです。以前に紹介したベーシストのA氏は目立ちたいという一心で頑張った結果として孤立の道を歩むわけですが、では、自我と無意識との関係はどのような状況がベストなのであるのでしょうか?となるわけです。

 

芸能人になりたい人のほとんどは「目立ちたい」がゆえにその道を進みます。目立ちたくない人はまずこの道に進むことはなく、例え進んだとしてもすぐに諦めがつきます。つまり、芸能人なるものはもともと精神的なバランスとしては悪く、自我が非常に強いので一般の組織からは孤立する場合がほとんどであり、またそのような人に芸能人が多いという事実からすると、夢の世界からかけ離れた超現実主義であるといえ、ここから導き出される仮説は、「芸能人とは極度に夢のない人のことを指す」となるのが妥当であると考えられます。

 

夢が持てない芸能人が芸能界で生きてゆくには・・・一般的な人々が芸能に求めるマーケットは簡単でありまして、芸能人が孤立するプロセスを考えると、集団で生活することに違和感の少ない一般の方々は、逆に夢のない世界を追い求めているわけです。その夢のない世界を夢見るのが芸能人の仕事でありまして、夢のない世界を実現する「夢」の案内人が芸能人であるという仮説が浮かび上がってきます。つまり、芸能人自身は夢のない現実を歩んでいるので、夢をつかむために頑張り、夢の中で生活している一般の方は夢のない世界を芸能人に「投影」することになります。これを見事に成功させた典型例が「マツコ・デラックスさん」であるかと思います。もう一人くらい例をあげますと、タモリさんもそうなりますね。

 

もう少し適切に芸能人の仕事を表現すれば、夢のない世界を夢のないように表現することを夢見て活動する人のことであります。ですから彼らの追い求める先には当然のごとく「夢」があるわけです。その夢の部分はもちろん無意識であり集合的な部分でありますから、意識化させていくことに苦しむわけです。

 

頭がおかしくなりそうですね。それにしても芸能人としてこれから自分自身を売っていこうとするならば、まずは明確な夢がある人は芸能人としては成り立たない可能性が高いのです。一般の人でも聞いたことがあるかもしれませんが、芸能界で大成する人のほとんどは芸能の仕事が嫌いな人か、そうでなくとも芸能の仕事に対してやる気のない人です。そして大成した芸能人はやはり個性化しているわけでありまして、普通なのであります。どうでしょうか、ユング心理学における普通の意味を感じ取っていただけたでしょうか?普通であることは存外大変なことでありまして、芸能人は普通の人間になろうとして日々努力するわけであります。

 

次回からはより深くこの議論を展開していく予定です。ご高覧、ありがとうございました。

売ることは難しいという問題を解決するために論文を連載しておりますが、そもそも売れるということ自体がユング心理学的には異常なことでありまして、ゆえに売れることは苦しむことでもあります。そこまでして売れたいですか?という私からの疑問も同時に問いかけております。この地球上のほとんどの人は芸能人ではありません。芸能人の中でも売れている人はただでさえも少ない芸能人の中からさらに絞られます。それを選ばれた人と見るのか異常値を示す人とみなすのかについては学問分野において違いがでます。経営学的にはこのような異常値を示す人物は「素晴らしい人」となります。しかしながら、ユング心理学的にはその逆を意味します。

 

ユング心理学における個性とは何を意味しますか?という基本中の基本の質問をあえてここで行ってみますが、その回答としては、「普通」であります。つまり、個性ある人とは「普通の人」を意味します。では、今現在一世を風靡している芸能人は個性があるのか?というと、ユング心理学的には個性のない人となります。何回か前に売れる食べ物についての心理学的考察を行いましたが、やはりどこかに偏りがあるから売れるわけでありまして、これが売れることについての難しいところであります。

 

ここで必要なのは芸能人が売れれうようになったきっかけとなる時期とその後の成長過程とで軌跡を区分して考える必要があるかと私は思っております。前稿においては売れている芸能人がなぜか足をすくわれる現象についての問題提起を行ったところで論じ終えましたが、その問題を解決させるであろうことがさらに個性化とかかわりがあるのではないかと思うのであります。人間にとっての個性化は一度ではなく、人生において繰り返し行われるというユング派の見方を支持する考え方であるとともに、芸能人になってからさらに売れるようになるためにも大切なことだと思い、このような方向へ話をもっていく次第です。

 

公企業ではなく私企業において、就職活動の面接時において面接官から「個性を見せろ」と命じられることを経験した人が少なからずいらっしゃるかと思います。しかしながら、ユング心理学的に個性を解釈しますとそれは「普通」を意味しますので、その面接官は「普通であれ!」といっていることになります。これは少し意地の悪い解釈を行ったわけですが、面接官としては「偏りを見せろ!」といったわけでありまして、しかし、面接官自身も個性について理解できていないのでこのような問いかけになりますから、実際の面接での多くは面接官も学生も両者が個性を理解していないまま面接が進んでいるという、喜劇さながらのやり取りが繰り返されているのであります。こう考えてみると就職活動も面白くなりませんか?

 

では普通とは一体何なのでしょうか?となるわけでして、つまり、その時々において偏りがありながらも普通であるという、非常に矛盾した状況を考えねばなりません。現代人はこれが苦手であります。理由は様々でありますが、要するにそのことがコンプレックスであるからです。矛盾という状況にコンプレックスがあるわけですから個性化は非常に難しく、厳しく、さらに辛いのであります。それでも個性化しますか?そして、普通の人間になりたいですか?となるわけでありまして、これが面白いのであります。つまり、論者である私は普通のミュージシャンを目指しているわけでありまして、その意味で個性あるミュージシャンへ向かい個性化を実践中であります。

 

次回にこの続きを論じてゆきます。ご高覧、ありがとうございました。

前稿においては悪の問題を個人的無意識を抜きにして論じました。個人的無意識なるものは個人的な体験や経験通じて押し込められた無意識の層であります。人間は嫌なことがあるとそれは忘れるようになっておりますが、実際にはこの個人的無意識に閉じ込められているだけのことであり、その部分が刺激されると嫌な気分がよみがえります。これを近年ではフラッシュバックといっておりますが、このような現象はユングが既に見つけており、言葉は新しいのですが、現象としては何も新しいものではありません。

 

前稿においては母集団の全員が認めるものは売れないので、どうすればよいかについて触れ、その結果、少し毒を盛ると売れるようになるのでは?という仮説を導き出しました。経営学的にはここまでやれば十分なのですが、しかし、これを考案するのもその商品を手にするのも人間でありまして、まず、少量であっても毒を盛ることが正しいことか?という悪の問題がついて回ります。開発者はまずこの点を考えるでしょう。さらに、その毒を盛られた商品を手にする消費者のことを考えると、いろいろな意味で悪の問題が開発者へ浸透していくことになります。

 

私の知っているいわゆる大企業の商品開発がどのようにして行われているかですが、これは念入りに市場の調査をし、そこに統計の計算をして因果関係をはっきりとさせ、「これは間違いなく売れる!!」とされたものだけが商品開発部に回されるようになっておりました。ここまで念入りに客観的な事実を元にすれば、逆にどのような仮説であっても社内で商品開発が認められるかと思いきや、前述のように多少であれ毒を盛った商品など開発できるわけないやろ!!と反発にあうわけです。なぜか?世の中難しいですね。。。

 

ここに問題が二つでてきておりまして、一つは開発者の悪の問題、もう一つはその提案を受ける側の悪の問題であります。

 

なぜこうなるのかですが、まずはやはり「毒」という言葉がコンプレックスを刺激していると考えるのが妥当でありましょう。では言い方を変えれば?となるのですが、言い方を変えたとしてもやることは同じなので、相手を説得できたとしても開発者の悪の問題は何も解決できないわけです。売るとは難しいのです。

 

多くの人は毒という言葉は知っていても、実際に「これが毒です」という状態の毒を実際に目にする人は理学関係者以外には数は少ないかと思われます。ですから、この地球上のほとんどの人は「毒」を知らないはずでありますが、ではなぜ毒と個人的無意識が関係するのかを考えていかねばなりません。しかし、これは心理学的には非常に面白い課題であり、実際に調査をしてみると学会も驚くほどの事実が出てくるかと思われるのですが、それ故に問題が大きすぎ、さらには実証するのに時間がかかりすぎるため本稿においては仮説の仮説として話を進めてみようと思います。

 

毒なるものを実際に目にしなくても、例えば糖尿病の人にとっては塩分と糖分は両方とも毒となります。また健康な人にとっても塩分と糖分の過剰摂取は毒となることはご存じであるかと思います。このように考えると毒は身近な存在であると考えますと、毒は人にとってコンプレックスになっており、これが個人的無意識に格納されていると仮定することが可能となります。ここまでくるとお分かりかと思いますが、このような状況において毒を盛った売れる商品の開発が現実のものとなるか?ということです。商品としては申し分ないとしても、それを開発していく開発者、支援する企業、それを消費する消費者が納得できるものでなければ売れるものを提供していくことは困難となります。

 

売ることは難しいですね。。。

 

ある芸能人を売っていこうとする場合、少し毒があるほうが売れる可能性が高いから、少しだけ不良であった人物をオーディションで引き抜き、商品化して売っていこうとしたとき、その人物の過去の悪事がさらされてファンが離れていった・・・

 

さて、母集団の全員が認めても売れない、少しだけ毒を盛った芸能人が売れたとしても悪事がさらされて売れなくなる・・・そもそも悪事としては問題解決しているにもかかわらず、さらされるプロセスとは何でしょうか?そしてなぜ一旦は認められたものが手のひらを返したように売れなくなるのか・・・

 

次回からはこのあたりのことを探っていこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。

モノを売ることが難しいとなると、自分自身を売ることはさらに難しくなります。なぜなら、人間には心が存在するからです。心には二面性があり、それは善と悪の両面性であります。ユング心理学的には絶対的な悪と絶対的な善のことを意味しませんが、例えば、勤め先ではほとんどの男性が無地の紺色のスーツを着用しているのに、一人だけ茶色のスーツを着ていけばどうなるでしょうか?また、そのような思いになった時、あなたは少し「悪」を感じるはずです。つまり、ここでの悪とは「量的な違い」との対峙のことであります。善はこの逆で、量的な違いをなくす考え方です。

 

時折、サラリーマンの方々と話をしておりますと次のような質問がよくされます。「ある母集団の全員がうまいと太鼓判を押す飲み物ないし食べ物が売れないのはなぜか?」です。答えは簡単です。一般的な味だからです。

 

ではなぜそうなるのかなのですが、ここに集合的無意識の理論が役立つわけです。集合的無意識は集合的ゆえに、仮に完全に意識化できるとすると万人に受け入れられることになります。しかし、論理的にはその人物なりの特徴が全くなくなります。集合的無意識が老賢者として完全に意識化できたとすれば、それこそ神様としての「言と動」が実現するわけですが、しかし、いわゆる神様となってしまって、例えば私が完全に元型イメージである老賢者を意識化できたとすれば、ただの神様となってしまい、田中誠一的神様ではなく、全く味のない田中誠一が出来上がってしまい、そのような田中誠一であるならば天の星を信じているほうがご利益あるのでは?と思うのが人情でありましょう。これが前述の質問に対する原理原則であります。ではどうすれば売れるようになるかというと、母集団の一部が「まずい」という商品を作ると売れるということです。しかし、一部の人といえどもまずいものを開発する勇気がありますか?統計学を駆使し、「多少まずいほうが売れる!!」ということを上司に説得できますか?回帰分析した結果、まずいものは売れるという結論が出たとしても、それが社内で受け入れられることは非常に困難であります。これが現実です。

 

現実は現実として、その現実に対処しようとするとき、やはり一部の人がまずいと感じる商品を開発せねばなりません。ここに「悪の問題」が発生します。この時にその開発者は「退行」を経験するのですが、芸術家はほぼ毎日この悪の問題に悩まされ、退行を繰り返さなければならないのであります。つまり、自ら敵を作っていかなければ芸能人として成功しないという大きなジレンマを抱えながら「進行」せねばならず、ここに芸能人が芸能人として個性化していく過程の困難性があるのです。最初にこのことを教えずにただ単に芸能界にあこがれだけをもって入ってくるととんでもないことになり、大きな心の病を持つに至るわけです。

 

芸能人やアイドルにおいて常に問題なく売れている人はこの「善と悪」とのバランスが常に取れている人でありまして、つまり、ファンからしても該当する芸能人の「影」の部分までも読み取ることができ、かつその「影」の部分にも惹かれるような芸能人としての絶妙な心のバランスをとれている人であります。

 

前稿においては集合的無意識だけの活用では売れないことを論じました。本稿においてはではどうすれば売れるのかについて具体的な方法を論じているのですが、答えとしては「少し毒を入れる」ということになりましょう。ではこの毒とはユング心理学において何かというと、それは「自我」であり、この意味で自我を元型と主張する人もいますが、私はそれは違うと考えております。話はそれましたが、「毒≒自我」としましたが、ここに自我の怖さといいますか、自我が出すぎた時にどうなるかについてお分かりいただけるかと思います。毒とまでいかなくても限りなく毒に近いのが自我であるかと思われます。集合的無意識という無意識を自我によって意識化してゆくのですが、自我が強く出すぎると集合性が失われ孤立となり、逆に自我が弱いと没個性となるわけです。

 

一般的には集合的無意識の方が毒のようなイメージかと思われるのですが、それはバランスの問題でありまして、集合的である分、逆に毒性は少ないと考えるほうが自然かと思い、自我の方を毒に例えましたが、毒も使いようによっては薬になることを見ても、意識的な部分を毒と捉えるほうが理解しやすいのではないでしょうか?

 

今回は個人的無意識を抜きにして話しておりましたので、次回からは個人的無意識を交えて論じていこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。

前稿においては深層心理学と経営学との捉え方の違いについて吟味しました。理論の方法として、経営学は帰納的、深層心理学は演繹的(ユング派に関しては・・・)となります。つまり、経営学は結論ありきの理論展開となるのが特徴的であり、それ故に仮説が立証されない場合、データの改ざんなどが問題視されやすい学問であるのも特徴です。ユング派の心理学に関しては演繹的であることが基本中の基本であるため、個人の症状が改善されない場合などは例外として扱うのではなく、「改善されない問題点」を個別に探ることになるのが大きな特徴であります。ここに経営学とユング心理学との大きな差ができてくるわけで、この相容れない大きな溝を埋める方法を考えなければせっかくの良い理論でも活かすことができないというのが私からの問題提起です。

 

前稿においては1は1と申し上げました。ここにリンゴという名詞を付け加えるとたちまち考え方が変わってきます。つまり、一つのリンゴと一つのバナナを「プラス」すると答えは・・・やはりスムージーでしょう!つまり、量的には2となり、その相乗効果を期待される別のものとなるわけです。逆に、リンゴとバナナという個別性を排除すると答えは2となり、誰もが納得できる答えが導き出せるのであります。ではスムージーという回答に納得できない人が多くいるのはなぜか?を考えていただきたいのです。心理学者としては非常に面白い回答であると思うのですが、皆様方の常識では間違いとなるでしょう。なぜなら、1+1は2となるからです。しかし、私は設問として1+1=2となる理論など最初から問いただしてはおらず、ただ単にプラスすればどうなるかを聞いただけであります。こうなればここに国語能力などの読解力なるものが注目されるようになるのでしょうけど、それ以前に、なぜ「一つ」という文字を見ただけで「1」と思えるのかを考えていただきたいのです。これこそが無意識であり、コンプレックスであります。

 

一つのリンゴと一つのバナナを「プラス」=スムージーと聞くとイライラする場合、この点がコンプレックスとなっており、それを受け入れるだけの心の余裕がない状況であります。そのような人はやはり育ってきた環境が影響しているわけで、そしてその育ってきた環境なるものは人間の数だけあるわけで、全ての人の育ってきた環境を「環境」という概念で一律に扱うことができないのがユング派心理学の特徴であります。

 

結局のところ何を主張したいのかですけど、人間は様々なコンプレックをもつ生き物であります。つまり、1+1=2で納得する人もいれば一つのリンゴと一つのバナナを「プラス」=スムージーで納得する人もいるわけです。この両方を全て受け入れる人もいるわけで、世間は存外、広いものであります。この点を理解したうえで物事を進めないと前に進めなくなるわけです。A氏は東京では受け入れられたのですが、関西で苦戦する要因はこの点にありまして、東京でのある一部の集合体の前においての成功は他方の集合体で成功するとは限りません。ここに集合性と個別性の両方を重要視しなければならい理由があります。ユング派心理学で例えると、集合的無意識と個人的無意識、それを意識でもって統合していく作業が必要となるといえるのではないでしょうか。

 

何事も簡単に事は進みません。世の中は難しいものです。集合性を利用して組織の中にうまくなじんでいくことも必要でありますが、それでは多くの人の中の一人で終わってしまいます。しかし、ある組織の中で目立つ存在となればその組織から外されることにつながるかもしれません。ではどうするか?という問題を回りくどく解説したのですが、いかがでしたでしょうか?次回に続きます。ご高覧、ありがとうございました。