売ることを考える 28 | 芸能の世界とマネジメント

芸能の世界とマネジメント

芸能界、芸能人のために論じます。

前稿においては悪の問題を個人的無意識を抜きにして論じました。個人的無意識なるものは個人的な体験や経験通じて押し込められた無意識の層であります。人間は嫌なことがあるとそれは忘れるようになっておりますが、実際にはこの個人的無意識に閉じ込められているだけのことであり、その部分が刺激されると嫌な気分がよみがえります。これを近年ではフラッシュバックといっておりますが、このような現象はユングが既に見つけており、言葉は新しいのですが、現象としては何も新しいものではありません。

 

前稿においては母集団の全員が認めるものは売れないので、どうすればよいかについて触れ、その結果、少し毒を盛ると売れるようになるのでは?という仮説を導き出しました。経営学的にはここまでやれば十分なのですが、しかし、これを考案するのもその商品を手にするのも人間でありまして、まず、少量であっても毒を盛ることが正しいことか?という悪の問題がついて回ります。開発者はまずこの点を考えるでしょう。さらに、その毒を盛られた商品を手にする消費者のことを考えると、いろいろな意味で悪の問題が開発者へ浸透していくことになります。

 

私の知っているいわゆる大企業の商品開発がどのようにして行われているかですが、これは念入りに市場の調査をし、そこに統計の計算をして因果関係をはっきりとさせ、「これは間違いなく売れる!!」とされたものだけが商品開発部に回されるようになっておりました。ここまで念入りに客観的な事実を元にすれば、逆にどのような仮説であっても社内で商品開発が認められるかと思いきや、前述のように多少であれ毒を盛った商品など開発できるわけないやろ!!と反発にあうわけです。なぜか?世の中難しいですね。。。

 

ここに問題が二つでてきておりまして、一つは開発者の悪の問題、もう一つはその提案を受ける側の悪の問題であります。

 

なぜこうなるのかですが、まずはやはり「毒」という言葉がコンプレックスを刺激していると考えるのが妥当でありましょう。では言い方を変えれば?となるのですが、言い方を変えたとしてもやることは同じなので、相手を説得できたとしても開発者の悪の問題は何も解決できないわけです。売るとは難しいのです。

 

多くの人は毒という言葉は知っていても、実際に「これが毒です」という状態の毒を実際に目にする人は理学関係者以外には数は少ないかと思われます。ですから、この地球上のほとんどの人は「毒」を知らないはずでありますが、ではなぜ毒と個人的無意識が関係するのかを考えていかねばなりません。しかし、これは心理学的には非常に面白い課題であり、実際に調査をしてみると学会も驚くほどの事実が出てくるかと思われるのですが、それ故に問題が大きすぎ、さらには実証するのに時間がかかりすぎるため本稿においては仮説の仮説として話を進めてみようと思います。

 

毒なるものを実際に目にしなくても、例えば糖尿病の人にとっては塩分と糖分は両方とも毒となります。また健康な人にとっても塩分と糖分の過剰摂取は毒となることはご存じであるかと思います。このように考えると毒は身近な存在であると考えますと、毒は人にとってコンプレックスになっており、これが個人的無意識に格納されていると仮定することが可能となります。ここまでくるとお分かりかと思いますが、このような状況において毒を盛った売れる商品の開発が現実のものとなるか?ということです。商品としては申し分ないとしても、それを開発していく開発者、支援する企業、それを消費する消費者が納得できるものでなければ売れるものを提供していくことは困難となります。

 

売ることは難しいですね。。。

 

ある芸能人を売っていこうとする場合、少し毒があるほうが売れる可能性が高いから、少しだけ不良であった人物をオーディションで引き抜き、商品化して売っていこうとしたとき、その人物の過去の悪事がさらされてファンが離れていった・・・

 

さて、母集団の全員が認めても売れない、少しだけ毒を盛った芸能人が売れたとしても悪事がさらされて売れなくなる・・・そもそも悪事としては問題解決しているにもかかわらず、さらされるプロセスとは何でしょうか?そしてなぜ一旦は認められたものが手のひらを返したように売れなくなるのか・・・

 

次回からはこのあたりのことを探っていこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。