音楽の需要を考えていくシリーズでありますが、ネット社会の影響で流通が大きく変化し、地球規模で需要は同じ方向へ向いているように思います。どこの国へ行っても流れている曲は同じという現象であります。しかし面白いことに、音楽は無料で聞くことができるようになっておりますからあるいくつかの企業が寡占の状況を作り出すことができず、この点について非常に困ってきている状況であります。エジソンが蓄音機を発明して以降の音楽は音楽の大衆化に大きく貢献しながら、地域による音楽の違いも楽しめ、音楽出版にかんする少数の企業による寡占状態が可能となり、逆にその寡占企業が産業としての分配者となっていたのですが、このビジネスモデルが根底から覆され、全く逆の現象が起こっているのが現在の音楽の世界であります。しかし、よく考えてみると、例えばコンティンジェンシー理論を例にすると、分化と統合は避けられない事実として認識しなければならなく、このような考え方は5千年の歴史を持つ易経においてもそのように解釈されております。例としては少ないながらもこれらの例から考えると、これまで分散していた音楽の需要は現在統合へ向けた動きを見せているが、将来的には再度の分散となると仮説を設定することができます。音楽事業を営むものはこれまで統合化されていたものが分散化しているのが現状であり、しかしながら将来的には統合へ向かうのではないでしょうか?と仮説を設定することは可能ではないかと思います。
世の中では結局のところ同じことが繰り返されるのですが、自動車産業でも同じようなことがいえますし(地球規模で見ていくのなら)、スマートフォンなどはもっと短いサイクルでこのようなことが起きているのではないでしょうか?しかしながら、各製品の持つ意味は節目で変わることがあり、音楽についても常に100年前と同じドメインであるわけがなく、同じ音楽でも意味が変化してきているところに着目しなければならないかと思います。経営学の専門用語ではこれを「事業ドメイン」といいまして、日本では榊原清則博士が第一人者であります。このような時代の変革期と思われる時期においては目的意識をしっかりと持つことが大切になるかと思いますので、是非とも榊原博士の書物を手にしていただきたいと思います。
ここで話を前稿からの続きへと戻しまして、供給が需要を呼ぶという現象をご紹介しようと思います。需要が供給を呼ぶというのは非常にわかりやすい考え方でありながら、100%の需要にかんしてはなぜか売れないという矛盾を含むものの、言葉への考え方はそれほど説明はいらないかと思います。皆が望んでいるから供給するわけです。しかしながら、需要側が多様化すると規模の経済を狙いにくくなります。音楽産業でいえばこれまでは寡占の状態で回っていたマーケットが崩壊し、分散化した結果として音楽産業に関わる人の多くの失業者が増えたというような経済的な仮説がなされます。需要の幅が増える一方で数が出ていかないので寡占状態では対処できず、「どうすんねん!!」となったとき、コンビニの「ツナマヨネーズ」のおにぎりが発売され、それが大ヒットしゆえに経済学会にて大きな衝撃が走りました。まあ、売っているほうは「売れてよかった!!」という安堵の気持ちと、非常に忙しいながらも企業として大きな成長を遂げることができたので「うれしい悲鳴」というのが本音であったであろうと思われますが、この現象を翻訳し、考え方の大きな転換を図ろうとしたのが日本の経済学会でありました。とりわけ近代経済学を専攻する学者たちが飛びついた例でありまして、私もその渦中に巻き込まれていたのでその時の思いでと共に書いていこうと思います。
まず、おにぎりを売ろうとするとき、当時のおにぎりは昔ながらのおにぎりの具である梅、かつお、昆布の三種類が基本でありました。中には漬物を埋め込んだものも存在しておりましたが、ツナマヨネーズが発売されるまでは基本的にその三種類でした。おにぎりは日本人の主食であるコメを基調としたものであり、主食であるから作れば売れるだろうと思っていたところ伸びがなくなり、さて、どのようにして売ろうかと需要を探っていたところ、おにぎりの需要はやはり上述三つの具をいれた主食としてのものでありました。実のところマーケットも昔ながらのものを望んでいたのです。しかし売れ行きが鈍くなってきたのはなぜかと、おにぎりの開発者は需要と売れ行きの矛盾を感じるようになりました。もう考えていてもどうにもならないので、どうせなら面白い商品を出してみようと考案されたのが「ツナマヨネーズ」でありました。
これは開発者も勇気がいったと思いますが、それを許可した商品開発部の部長やその企業の役員などの対応も素晴らしいと思います。その当時は子供であった私でもおにぎりは「梅干しや昆布!」と思っていた頃に、とりわけ役員などになるとその当時で還暦を過ぎた方々が多数なわけで、おにぎりに対しては非常に強い昔ながらの固定観念があったはずですが、そこにツナマヨネーズをぶち込んでマーケットに投入することを許可したわけですから素晴らしいという言葉以外に表現の方法がありません。私はその時の開発の方々の心理状態の方を知りたくなるのですが、つまり、この状況が供給が需要を生むことの核となったのであります。
このように、モノが豊富な時代となると需要にかんする考え方にずれが生じてきます。上述の例では、主食を使った製品は出しただけで売れるという考え方が通じなくなった例であります。ところがおにぎりの需要がなくなったわけではなく、興味はあるような数値が出ているので、そこで爆弾投下となるに至ったのです。主食を使った製品であるにもかかわらず、販売力が鈍ってきたから「これは日本人の需要はパンにいってしまった」と考えなかったところが素晴らしい。主食なのだから日本人はおにぎりが好きなはず。ただ、商品開発に問題があることに気づきこれまでにはなかった、つまり、需要などほとんどなかった具材に着目しそれをマーケットに投入し、それが大ヒットしたという一連の流れが経済学者のいう「供給が需要をよぶ」という経済構造であります。
ここで大切なのは、テレビのない時代にテレビを世に出すとか飛行機のない時代に飛行機を作ってみるというような夢の世界を現実にしていくものではなく、需要の半分は見えていることです。米は日本人の主食であり嫌いな人は少ないのであります。よって需要として米があることは簡単に理解できるのですが、主食に対する需要者の思いに変化が見られた時期であったわけです。そこで事業ドメインの転換を図ってみた結果、大きな成果が出たということです。現在でも米は日本人の主食でありますから嫌いな人は少ないかと思われます。よって、需要の半分はわかっている、それも主食として摂取できる米の製品をつくるとマーケットは歓迎するのではなかろうかと思います。そこに必要なのは経済学の知識よりも考える力と勇気の二つです。経済学からわかることは過去の実績でありまして、未来まで見えません。まあしかし、時代は繰り返されますから、非常にうまい梅干しを、さらに美味く梅干しとして食べさせることに専念した「おにぎり」などを作れば・・・・などと考えてみたりするのも楽しいものです。ちなみに、これはおにぎりをメインとしたものではなく、梅干しを売ることを考えた場合です。
このように、需要が多様化していく中でもやはり、スケールメリットなるものを狙うことは可能であると私は考えております。そこで出てきたのが供給が需要を生むであり、ただし、全てのことを暗中模索するわけではなく、半分は見えている状態であることが重要なのです。換言すると、需要の半分は見えているのでその見えている半分に流されてしまう可能性もあり、現在において製品開発が難しいのはこのせいではないかと思えます。
今回はこれで筆を置きます。ご高覧、ありがとうございました。