需要を考える 1 | 芸能の世界とマネジメント

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全シリーズでは供給側のことに限り論じてきたのですが、それはそれとして需要のことも大いに理解していただけたものであると思っていたらそうではなく、存外、その逆のことを考えるという思考を供給することができていなかったのか、需要についても話を聞きたいとの声が多かったので論じている次第です。しかし、需要なるものは前述のようによくわからないので需要されるように仕掛けていかなければならないのではないかという仮説です。その具体的な仕掛け方については全シリーズを参照していただくとして、供給する側が需要について気を付けていかなければならないことを述べていきます。

 

まず需要なるものは需要そのものと有効需要とに区分されます。これは経済学の専門的な概念でありますが、換言すると「漠然とした需要」と「確実に売れる需要」とに区分されます。区分するのはいいのですが、これらの区分原理が経済学者の私でもよくわからないのと、経済学会においてもその件についていまだこれらの区分原理について専門的に研究している経済学者など皆無であり、需要の概念をに分割するという分析には面白みを感じるものの、それ以上の意味合いがないのが残念であります。また、漠然とした需要も確実に売れる需要も、需要なるものは人間の心の問題であるので実のところ両方とも「漠然とした需要」であることは否めず、しかしながら、需要があるものの実際に消費へつながらないなどの問題もあるため、私は現代の需要なるものは「半分は目に見え、半分は目に見えない」と定義しております。ですから、需要としてあるものの、消費にまで至らない需要があるのではないかという、「第三の需要(以下、非有効需要)」を仮説として見出しているのですが、この第三の需要と有効需要と含めて考えていく必要があるものと思われます。ですから、需要なるものは・・・

 

   →需要

需要

   →有効需要 + 非有効需要

 

有効需要なるものは、例えばアンケートやヒアリングを通じてこれはかなりの高確率で売れると判断された製品のことを指します。ところが自在に市場へ放ってみると全く売れなかったという現象が実際にありますが、事前の分析のみを対象とした概念であるので、製品が市場へ出ていった事後のことまで事前に考える必要があると考え、私は有効需要に非有効需要なるものをとりわけたのであります。

 

このように考えてみますと、需要なるものは結局のところほとんど目には見えないものであると考えるほうが妥当であり、よく見えて半分くらいではないでしょうか?と考えるのが妥当であると考えております。ようはそれほど需要を追求することは困難であります。そのことから考えてもやはり、供給を積極的に行うことの方が話は早いのですが、失敗すると研究開発費のロスにつながり、では需要なるものを見ていくためにはどのようにすればよいのかについて吟味検討していくのが本シリーズでの目的であります。

 

需要については非常に曖昧な概念であるゆえに様々な使い方がされます。例えば、「こんな私に需要があるかな?」とか、「需要を掘り起こす」などです。これらの使い方は間違いではありません。ただし、需要の概念が曖昧なために「欲求」であるとか「宝物」などに翻訳された意味に使用されております。私は需要は欲求でも宝物でなく、需要として捉えていくことに需要の意味を見出していくことを本稿の目的とします。

 

では需要の意味は?となるのですが、それは「人の思い」であると私は考えております。またそういう仮説であります。では人の思いを探るにはどのようにすればよいのかとなると、やはり心理学に頼らざるをえないのではないでしょうか。人の思いを数値化して行動を評価する方法もありますが、しかし、人間の意識には無意識も含まれており、人の心の深層部分では需要の確率が100%の部分もあります。そう考えると統計学では人間の心を評価することは不可能となり(需要が100%のわりに実際には需要が起こらないことが多い故・・・)、形而上の需要と形而下の需要とに区分して需要を評価しなければならないと私は考えております。

 

私は需要を形而上と形而下の両方から考え、供給者が需要に対してどのように対決してゆけばよいのかについてを将来展望とする予定です。

 

ご高覧、ありがとうございました。