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芸能の世界とマネジメント

芸能界、芸能人のために論じます。

これまで需要と供給を個別に論じてまいりました。モノを売る時に、やはり供給側が需要側のこと知らないと商売できないのではなかろうかという問題意識からのことでした。ところが議論を進めるうちにそれだけでは何か足りないことに気づいてきました。つまり、需要なるものを知ることもまた必要なのではなかろうかということです。ここまでは問題意識としてはよかったのですが、個別に追求すると必ず片方の何かが足りないことになることにお気づきいただけたかと思います。かといって需要と供給をいきなりミックスさせ議論すると何が何だか分からなくなってしまうジレンマがつきまといます。このような現象をユング心理学においては自我肥大といいまして、このような状況になれば一旦は自我と無意識とを切り離して冷静になることを求められます。

 

心理学が絶対的に正しいわけではないのですが、個別に切り離して考える経営学としての考え方も前述のように考えるとまた必要なわけでありまして、現代においてはいったんは切り離して考え、それを次に統合してゆく作業が必要であるのではなかろうかと思い、かなり回りくどくなりましたが本稿からはタイトルを変え、需要と供給を同時に考えていくことします。これが最終的に経営中庸理論につながっていきます。ですから、少し気長にお付き合いいただければ幸いです。

 

そもそもマーケットとは何かを考えるとき、皆様方はどのようなイメージとなるでしょうか。マーケットを日本語訳しますと「市場」となりまして、またこれを「しじょう」と読むのか、それとも「いちば」と読むのかでイメージが違ってきます。ここに英語の「マーケット」が入ってくるとまた違ったイメージとなりまして、本当に言葉の問題はどうすれば解決できるのであろうかと、論文を書くたびに思い悩むのであります。このようなイメージの違い、それから投影の違いをユング心理学では「布置」といいまして、物事を思考する主体の置かれている環境がの違いがこれほどの違いを呼ぶと理解していくのですが、これゆえ、それほどの違いがあって人間として当然のことであるものの、逆に、100人いれば100人ともが共通して理解していくこともまた必要であります。

 

このように、研究者各人にてそれぞれの意味が存在するのであれば言葉をそれほど選ばなくてもよいのではなかろうかなる疑問もあるでしょう。またこのようなことを考えれば考えるほど疑問が湧いて出てくるので余計にややこしくなるのですが、これもどちらでもよいかといえばよいのですが、きちんとしなければならないこともあり、その意味でもきちんとしながらも、人間の本来的な性質に合わせていくため、あえて「曖昧な」部分も作っていこうと思っております。そこで、私は本来ならば「市場」を使いたいところですが、本稿においては「マーケット」を使っていこうと思います。理由ですが、マーケットと聞いてはっきりした意味を瞬時に出しにくいことです。ところが、ここに共通の認識をするために「定義」を付け加えることによりこれを克服することができます。つまり、ファーストインプレッションは弾力的に、それ以降は厳密にし、曖昧さを残しながらも厳密なる共通の理解を皆様方に求めていこうとするものであります。このような方法はとりわけ関西の経済学会や経営学会においてはタブー視されますが、私は試験的にこのような方法で進めてみたいと思っております。

 

これまで世界の多くの学者は学会で通じることを前提に理論を展開してきました。何事も学会で評価されるためのものであって、これゆえに一般の人は置き去りとならざるをえず、また一般の人々は学会と一般社会とを切り離してしまい、そのような状況を不思議に思う人も少ない状況であるのが私は問題であるかと思います。なぜなら、例えば国公立大学では研究費の大半を税金で賄うことになります。これほどまでに公共性の高い大学という事業の成果を一般の人が活用できないのはいかがなものかと私は考えております。中には数多くある学術論文を読むことができない一般の人々に問題があると発言する有名国立大学の教授もいらっしゃいますが、では、あなた方がニーズに合わせることはできないのか?と反論したくなるのも人情でありまして、しかし発言したところで、「では、お前がやれ!!」と切り返されるのが関の山であるので、先んず私がやってみようとするのが今回からの企画であります。

 

本稿を目にしている読者の中には学者の方々も多いと存じております。それ故に学者用に書くことも大切であることは重々にして承知しておりますが、私の給与は税金から支払われておりますので、やはり一般の方々の役に立つ論文を提供していくことが使命であると思っております。その意味で、本稿からは内容は濃いく、しかしながら、読みやすい論文を目指し、少し方向性を変えて論じてゆこうと考えております。

 

今回はこれで筆を置きます。ご高覧、ありがとうございました。

前稿において経営中庸理論なる仮説を述べてみました。今回からはこれの証明に入っていこうとするものでありますが、まずは経営とは何か、中庸とは何か、そして理論とは何かを知らなければなりません。しかしながら、読者は既にそのような基礎的なことは既に理解しているものとし、話を進めます。最近の学会のでは欧米風にキーワードや結論の定義から入っていくのですが、私はさらにその前段階より皆様方に学術用語の理解を求めたいのであります。経営中庸理論なる単語の説明ないし証明はこれより行いますからあえてその説明をここで行う必要はありません。しかし、経営とはなにか、中庸とは何か、さらに理論とは何かを個別に理解できていない限り、私がこれから証明していくことは全く理解できることはないでしょう。ですから、経営とは何かを知らない人は経営学の教科書を見直す、中庸とは何かを知らない人は中国哲学の教科書を見直す、理論とは何かを知らない人は哲学の教科書を見直すなどして自力で頑張ってください。

 

前稿では破壊的イノベーションを例にし、新しいものとは古いものがあるから成立するとの仮説をだしました。これは簡単なことで、なぜ新しいかは古いものとの比較があるからです。自動車がある日突然にこの世にあらわれたわけではなく、最初は車輪を人力で動かす乗り物があり、それが進化していった結果として自動車ができ、それは新しいものと認知され、そしてそれは破壊的イノベーションとして理解されるべきでありますが、しかしながら、自転車はなぜこの世から姿を消さないのか?日本の人力車はむしろ近年において台数が増えているのではなかろうか?などの疑問も残ります。こうなるとやはり破壊的イノベーションは破壊というよりは市場の細分化において強くなった部分を示す考え方であると考えるのが妥当でありましょう。

 

これを深層心理学的に見てみると、タイプ論なるものがありまして、人間は基本的に外向的と内向的との基本的態度があるといわれております。しかし、外向的な人が内向的な部分を全く持たないかというとそうではなく、内向的な部分も含み、人間の性格はこのような真逆の性格を同時に持ち合わせており、非常に逆説的なのであります。この逆説をどのように理解するかでありますが、これは一般的に外向的な人は外向的な部分が強く出ているから外向的なのであると判断します。つまり、どちらが強く表出化されているかで判断されます。

 

ここで考えていただきたいのは、この地球上に外向的な人しか存在しない場合はどうなるかを考えてみると、それはやはり内向的な人がいるから外向的な人が成り立ち、内向的な人は外向的な人がいるから内向的な人として成り立つわけでありまして、どちらか一方では互いの受け入れ先がないので人間社会がそもそも成立しないと解釈することが可能となります。

 

これと同じことで世の中にはイノベーション、それも最近のイノベーションの分類においては破壊的イノベーションが必要とされていますが、それだけでは世の中は成り立たないと私は思うわけであります。クリステンセンにしても破壊的イノベーションの議論だけではなく持続的イノベーションの存在も重要であるとの認識を示しており、アバナシーにしてもプロダクト・イノベーションとプロセス・イノベーションとを引き合いに出しプロセス・イノベーションとの共存を認め、その研究を引き継いだアターバックはマーケットでの新規参入企業の「斬新さ」を認めつつ、既存企業の製品の漸進性との共存を認めざるをえなかったのであります。これをイノベーション研究の研究者がどのように思うかでありますが、私が学生であった当時はアターバックの研究に対し、正に漸進性を見るに至り落胆したのでありましたが、今から思えば非常に有意義な研究であると思われ、学生当時の私の間違った判断を訂正するとともに、彼の優れた研究を世に広めるためにも本稿にその名をしたためることにします。

 

中国において古くから伝わる経典の一つに易経なるものがありますが、その易経は一般的には占いの経典として知られております。しかしながら、本来の易経は「義理」と「占筮」の二つを含んでおり、このことからしても対立する二つのものが同時に存在することを示す重要な概念であります。義理とは現代の日本での義理の意味ではなく、物事の「原理原則」のことを意味します。占筮は占いのことです。つまり、原理原則として決まり切っていることと、未来予想の占いとの対立であります。これが同時に存在することを易経なる経典を通じて学んでいくものであります。

 

これらのようにやはり新しいものと古いものが共存するから新しいものは新しいものとして成立し、しかしながら、新しいものを新しいものとして世の中に受け入れさせるための役割としての古いものも同時に同じマーケットに存在しない限り、そもそもイノベーションは成り立たないのではなかろうかと私は考えております。そしてその象徴(代表という意味ではなく、ユング心理学的な意味として・・・)となる考え方が中庸であり、この中庸の徳を獲得することが需要を制するものと考えております。

 

ご高覧、ありがとうございました。

需要を考えることをテーマにシリーズとして論じております。最初は需要が供給をよぶ現象を考察し、現在では供給が需要をよぶことの理論を作っていくことを試みております。モノがない時代には確かに需要をもとに供給を満たしていくことが可能となりますが、これほどまでにモノであふれた社会となるとそうれが困難となってきます。スマートフォンが最初日本にやってきたとき、私は真っ先に購入したのですが、その頃はまだガラケー全盛期でありまして、スマートフォンを使う私は相当、非常に馬鹿にされたのでありました。ところがいまやどうでしょう?スマートフォンを持たないことを想像することはできますか?

 

この事例のようにスマートフォンは需要が先にあったわけではなく、供給することにより新たな需要が出てきたことの典型例であります。携帯電話自体はそもそも世に存在していたわけでありまして、それ以上の機能を追加した携帯電話が必要か?となるのですが、スマートフォンは電話の機能よりもインターネットの機能を充実した結果、ノート型パソコンに対する脅威となったのでありました。改良を重ねるうちにPCの機能に次第に追いつくようになり、ノート型パソコンの存在はみるみるうちに存在感をなくしてきました。

 

しかしこれも時代ですね。ガラケーも負けてはおらず、通話機能に特化した携帯電話として存在感を高めており、私も通話に関してはガラケーを使用しており、携帯電話の差別化がはっきりとしてきております。これは供給が需要を呼ぶ時代の特徴であるのかもしれませんが、破壊的イノベーションが起こったとしても、破壊された市場が完全に姿を消すことはなく、むしろ旧市場の特徴が強化され、それが人々に愛されるという現象が起こっているのでは?と私は妄想しております。例えば本もそうですね。スマートフォンやタブレット時代において紙媒体の本を売っていくのは困難でしょう。なぜなら、インターネットを経由すると無料で文字を読むことができることが多いからです。紙媒体を無料で読むとなると、新聞の広告ですら新聞の料金を支払わなければ読むことができません。図書館へ行けば無料で読めますが、図書館まで行かなければなりません。そうなるとますます紙媒体の本はインターネット時代において淘汰されるように思われますが、しかし、紙媒体の本はコピペされる危険性が非常に低いため、著者の意見を世の中に反映させやすいという特徴を持っております。これゆえに、私はコピペされても問題ない文章はネットを通じ公開し、あくまでも私の主張を強めるときは紙媒体で公開するようにしております。

 

西洋の近代建築に負けず日本の木造建築がなぜこれほどまでに愛されているのかなどを考えるとき、破壊的イノベーションによる市場の破壊は実のところ破壊ではなく、市場の細分化であるような気がしてなりません。新旧の技術が組み合わさりイノベーションが発生します。それは新と旧、中国哲学で考えると陰と陽とが同じ場所に格納されている太極の状態であり、心理学的には未分化な意識となり、生物学的には細胞分裂が起こる前の段階であると考えられ、コンティンジェンシー理論からすると組織の分化と統合が発生する前段階と考えることができます。何事にも新しいこと、ないし新しい命が発生するとそこには分裂や分化が発生します。そして旧の場所から新しいものがスピンオフされ、新しいものは新しいものとして生きていきますが、その新しいものはやがて古いものとなり分裂が生じ、そこから新しいものがスピンオフするという細胞分裂の考え方を応用すると、破壊的イノベーションは新しい命であり、古いものがあるから破壊的イノベーションとして成り立つわけであり、破壊的イノベーションが発生したからといって旧技術をなくしてしまうと破壊的イノベーションは成り立たないとする仮説が成立します。これを私は「経営中庸理論」としておりますが、何事も中庸の徳を失うと、新と旧の両方のうまみを同時に失ってしまいます。

 

前稿の結論部分に販売員の個性化について少し触れましが、これはこの経営中庸理論につながります。換言すると販売員の個性化となるでしょうし、さらに適応範囲を広げると商品や製品の個性化となるでしょう。学校の教員に適用させると教職員の個性化となります。

 

次回以降、本件について深く論じていく予定です。ご高覧、ありがとうございました。

需要を考えてみるという大きなテーマで論じておりますが、これも立場の問題でありまして、需要はやはり人間の実際の行動から判断するものであり、心については問題にするべきではないとする研究者もいます。なぜなら、心を操ることができればある製品や商品が集中して売れるはずと考えるからであります。前稿の事例研究では元型を突いたマーケティングを論じてみたのですが、元型が作用する商品であれば地球上のすべての人が大好きになって当然であると考えてみた時、私の理論は全て崩れてしまいます。ゆえに、人間の実際の行動から判断すべきであるという反論があるのは事実であります。

 

これについては鋭いご意見でありまして、私自身も元型を100%活用し、例えば、私達のバンドのCDが地球規模での売れ行きを示すことができれば、それは心理学会を根底から覆す大事件となってしまうでしょう。実のところそのような現象が起きないものかと日々の妄想に楽しみを求めているのですが、実際にはそうならないのが心理学的な答えであります。つまり、元型を突いたところで全世界を揺るがすことは不可能であります。

 

なぜそうなるのかですが、重複しますが人間の心は3層構造となっておりまして、中央の層は個人的無意識といいまして、人間の過去の行動の履歴を押し込めている部分であります。その上には意識があり、下には集合的無意識が存在します。集合的無意識が意識にまで到達する過程で個人的無意識を通過せざるをえず、それゆえ、普遍ある無意識に非常に個人的な無意識が結びつき、意識へと到達します。つまり、普遍から個別へと変化した形で意識が反応することになります。例えば、いくらサラダチキンに元型を見出そうとも、鶏肉コンプレックスがあればサラダチキンを手にすることはないでしょう。

 

過去に大きな戦争があった時、ある国を治めていた人物が心理学を使い国民の精神を統一しようと試みたことがあります。当然のごとくその計画は失敗に終わったのですが、なぜ失敗に終わったかというと、人間にはコンプレックスがあったからです。さらに、統一を図るときについて回るのが無意識からの攻撃でありまして、結局は人の心に統一を持たせることは不可能であることの大きな証明となったのであります。

 

これを応用すると、では、70%くらいの人が好み、20%くらいの人が嫌いであり、残りの10%の人がどちらでもない状況の商品を開発すればどうなる?と考えるかもしれません。ところが、このような考え方自体が既に人の心に統一を持たせようとする行動であるので、心理学的にはそのような商品は失敗に終わると予想をします。モノを売ることは難しいですね。売ろとすると売れない理由はここにありまして、人為的な操作は逆に相手の無意識を操作することになり、売れなくなってしまうのです。

 

洋服のショップの店員が過度に寄ってくると「イラッ!」ときて購入にまで至らないことが多々あるかと思いますが、これは店員の売ろうとする心理が顧客の無意識に、つまり、コンプレックスに作用した結果であります。店員と顧客の心の統一を図ろうとした結果としてその逆の現象が起こり、結局のところ売れなくなってしまいます。ですから、本当に売ろうとするのであれば顧客との共通する部分と異なる部分を明確にしたうえで販売を行えばうまくいくであろうと思われ、そのような店員は「個性ある店員」となります。

 

商品も同じことであり、各商品に対する個性を重視したものであれば地球規模には達しないものの、サラダチキンのように多くの人から愛され、しかもロングセラーとなるのではなかろうかと考えております。

 

ご高覧、ありがとうございました。

前稿においてサラダチキンと元型との関係を述べてみました。これは消費者が無意識にある元型に投影した結果としてロングセラーとなっているのではなかろうかと思うのです。例えば、車をアニマとして投影している男性がいるとします。典型的な団塊世代から団塊ジュニア世代、そうです、私はそのストライクゾーンなのですが、車を女性のように扱うので同時に女性は車が好きであると錯覚を起こしてしまうのです。これを心理学的には「自我肥大」というのですが、自分はこの車が好きだから、自分の彼女はこの車が好きだと勝手に思いこみ、女性に対して車自慢を始めてしまいます。女性からすると「?」となるのは当然のことでありまして、ここにバブル世代の笑い話が起こるわけです。つまり、そのころの男性はカネでアニマを買っていたのです。それが可能となった時代が存在したと考えると、これはこれで実に面白いと思うのであります。

 

さて、サラダチキンの話ですが、ある人はトリックスター、ある人はペルソナへと投影をしているのではなかろうか?なる仮説を出したのですが、皆様方は実際のサラダチキンのユーザーとしてどのようにお考えになりましたか?これもよく考えてみると興味深く、ものすごくリーズナブルな価格で元型を感じることができてしまうと考えてみましょう。トリックスターとはある状況を非常に自然な形で覆す役割を持ちます。チキンでありながら米のような感覚で、すなわち、主食とする人も多いのでありまして、その魅力を楽しんでいると考えられ、これがロングセラーへとつながっていると考えることは可能であると思われます。ペルソナの場合も同じことであります。

 

このように、需要を掘り起こすという作業は人の心に響かなければいけないものだと考えるのが私の立場であります。よく需要を掘り起こすことに統計学的手法が使われることがありますが、統計学で人の心を読むことができればこれほど楽なことはなく、日本の経済の状況はもっとよくなっていると思われます。ところがそうなっていないところを見ると、数で人の行動を全て把握することは現在のところ不可能であることを示しているのではないでしょうか。

 

そこで皆様方、心理学ですよ!!といいたいところですが、心理学はその名の通り人の心を読むことができるのですが、誰しもがマスターできる学問ではないところが非常に残念なのであります。その理由ですが、心理学をマスターするうえで自分のコンプレックスや元型の問題など、ものすごく「マイナス」の部分に触れていかねばならないからです。私自身も心理学の専門家となる過程において何度も体調を崩してひどい時には入院(一日くらいですけど・・・)したこともあり、この時に「病は気から」なる言葉の意味を心底理解できたのでありました。

 

そこをなんとか理解しやすくするために様々な事例をとりいれ、皆様方に提供しているのですが、これでもまだ理解するには難解であるとの指摘をたくさんいただいております。その反省からより簡単に伝えることができる方法はないものかと考えているのですが、実のところそのような方法はありません。深層心理学は無意識を扱う学問ですから、理性として理解することは不可能でありますから、苦しみながら習得するしか方法がないのです。但し、私が行っているバンド活動を見ていただくとたくさんのヒントがあるはずです。

 

私のバンドでのライブはMCが90%、残りの10%が演奏です。持ち時間が1時間あるとすると演奏は4分の曲が1曲入る程度です。ですから実際にはMCが90%以上となります。このようなライブを見たいという人がいるわけで、つまり需要があり、これは心理学的に何が影響しているかというと、トリックスター元型となります。そこに老賢者元型を混ぜ込み、最後の曲で「自己元型」へとつなげます。このようにすれば需要を担保することは可能でありますが、それだけの修業が必要となり、これが難しいところでありますが、逆にこのことが差別化戦略となっていることが皮肉なところであります。

 

次回は需要におけるコンプレックスと元型との作用を考えていこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。