永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。(ヨハネ17:3)

 

新世界訳の場合、「神とキリストについての知識が永遠の命を意味する」となっていますが、明らかな間違いです。神とキリストについての知識が大切であるとは言え、それらをどれほど取り入れても、それによって永遠の命に至ることはありません。永遠の命が私たちの知識に依存することなどあり得ないのです。

 

この点、「知る」とは「親しく知る」ことであるとする、キリスト教会の解釈は正しいと言えます。例えば、ある有名人を「知っている」と言う場合、二通りの意味があります。一つは、誰もが知っているのと同じように、私も「知っている」と言う場合であり、これは一方的に「知っている」と言う意味です。もう一つは、多くの人は知らないが、私は「知っている」と言う場合であり、これは相互に「知っている」と言う意味です。後者の場合、その有名人も私を知っていることが重要なポイントであり、すなわち親しい関係にあることを意味します。

 

神とキリストを知ることとは、神とキリストに関する知識のことではありません。大切なのは、神とキリストに「知られている」ことであり、これが永遠の命を意味するのです。

神とキリストを、いくら「親しく知っている」と言っても、それが一方的なものである限り、何の意味もありません。

 

わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。(マタイ7:22,23)

 

では、どうすれば神とキリストを相互に「知る」、親しい関係に入ることができるのでしょうか。

 

もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。 (ヨハネ第一2:2,3)

 

イエスに向かって「主よ、主よ」と、いくら親しげに賛美を捧げても、キリストの戒めの何たるかも知らず、「行い」を全面否定しているキリスト教会員の多くは、ただ一方的に「神とキリストを知っている」と主張しているに過ぎません。残念ながら、キリストからは「全く知られていない」のです。

 

しかし彼(イエス)は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。(マタイ25:12)