人生は習慣によって創られる。自分にとって大切なものだけをポケットに入れて、大切なものをまっすぐに大切にして生きる。自分に無理なくできることで他人に貢献し続けることが、やがて自分のあり方となる。
先日、妻が入院したとき、いろいろとバタバタしたのですが、洗濯したり、掃除したり、自分の食事をつくったり、当たり前の暮らしをいつも以上に丁寧にすることを心がけた。日常の暮らしと違うパターンに陥ったとき、私たちは、当たり前のことがが疎かになる。それは大きな落とし穴。そんな時こそ、当たり前のことを丁寧に行う。当たり前のことを心を込めて丁寧に行うと、どうなるか?そこには、感謝の気持ちが生まれる。自分1人で生きているわけではない…。当たり前のことを疎かにしては、本来の自分の思考や行動からズレてしまう。いつもと違う時こそ、日常の暮らしをできる範囲で構わないので丁寧に…。丁寧さは、心の状態を整える最高の心構え。
人生って、自分の得意なことや強みを積み重ねることで失敗することがある。人は、苦手なことで失敗するのではなく、得意なことで失敗する。自分の苦手なことって、自信がないから、慎重に物事をすすめるし、まわりの人にも配慮する。しかし、自分の得意なことって、自分に自信があるから、時に、まわりの人に対する配慮がなくなり、正しいことを正しく伝え、行動するからまわりの人を傷つけることがある。特に忙しい時は、心の余裕がなくなり、さらにきつい言葉を使い、言葉は刃となり、相手の心に消えない傷をつくる。このようなことが積み重なって、少しずつ自分の人生が苦しくなり、気がつくと、自分が言葉にできない生きづらさを感じている…。自分の得意なこと、自分が良かれと思ってやってきたことの結果が生み出したこの感情。だからこそ、言葉にできないのである。人は、言葉にできない感情に関しては不安や恐怖を抱いてしまう。そして、何とかしなければと焦り、そうです、自分の得意なことで問題解決をはかろうとするのです。『火に油を注ぐ…』優秀な人ほど、すべてが燃え尽きるまで、油を注ぎ込みます。燃え尽き症候群とは、よく言ったものです。言葉にできない生きづらさを感じている人は、問題解決に走ってはいけない。この問題を作りだした原因は、自分の得意な思考や行動を積み重ねたことにあるのではないか…?ここに気づかない限り、人は得意なことで失敗する。わかりますよ。私たちは、グレーな感情の中に身を置き続けたくない。だから、安易に問題解決をしたくなる。問題解決をしない。何もしない。あるがままを受け入れる。そうすることで、光が見えてくることがある。誤解がないようにお伝えしないといけないことがあります。厳密にいうと、人は得意なことで、他者評価や承認欲求を満たしすぎると、失敗する。と言うことです。自分に無理なくできる得意なことで、他者貢献や、身近な人を喜ばせると、人生は豊かになる。そのように思うのです。だから、行き詰まった時は、勇気を持って、立ち止まる。問題解決をしない。何もしない。あるがままを受け入れる。そうすることで、光が見えてくることがある。
「いい点数をよるため」、「いい学校に入るため」、「いい就職先に入るため」 …。誰かの作った合格基準を超えることで評価される。「合格」という目的に向かってできるだけ効率的にアプローチする。これを極めていくと、基準があることには、頑張れるけど、基準のないことに関しては、頑張れなくなる。頑張れなくなるというか、どうしていいかわからない。つまり想像力や、自分で考える力が育まれずに、言われたことしかしない人が育ってしまう。大きな組織で考えられないような失態が繰り広げられることを目の当たりにするたびに、いわゆる優秀な人たちの集まりなのに…。という思いになる。優秀ってなんなんだ。普通ってなんなんだ。ダイバーシティを学ぶと、その定義そのものを疑ってしまう。アンコンシャスバイアスに感情、思考、行動が支配されている。だから、考えられないような失態が繰り広げられる。そういうこともあってか、社会に出て、自我に目覚めた若者が、生き方の方向性を見失い、現実との葛藤や将来への不安を抱え、思い悩む。そして自分探しの闇にはまる…。多くは、自分に悩みや迷いが生じたとき、自分以外の何か、自分以外の誰か、自分の外側に答えを教えてもらおうとする…。想像力を働かせ、自分で考えないといけない問題を、今まで通り、何かの基準を求めていては、一生、その答えは見つからない。このままでは私たちはどうなるのでしょうか?メディアというコントロールされた媒体を通じて知り、自分探しを続けて終わるのだろうか…。世界的規模の水や食糧の不足、気候変動、環境破壊という事実に目を閉じて、お金を使う事で経済が回る…。テレビをつければ CM が流れ、雑誌を見れば広告の嵐。貧困で今日食べるものもない人がいる一方、飽食状態の国では食料廃棄…。便利になったのに、なぜ私たちの心は何かが不足している。物質的豊かさを手に入れた半面、私たちは何か本当に大切なものを失ってしまったのかもしれない…。答えは自分の中に、そして、未来は対話の中にある。シンプルだけど、ディープなこの問いに今日も向き合ってみよう…。
ソクラテスは「生きているだけでは人生の意味がない。」という言葉を残しましたが、多くの人が人生を「自動化して」生きており、「昨日うまくいかなかったことを繰り返す毎日」を送っています。不幸を訴える人の多くは自分の行動が自分自身やまわりの人、そして自分の幸福にどう影響しているかを考えることをやめてしまっているのです。このような日常のサイクルに一度入り込むとなかなか出ることができず、ゆえに意味の持てる人生を歩むのが難しくなります。うつの症状に効果的な治療法は存在しますが、薬が幸せをもたらすわけではないのです。幸福とは「絶望がないこと。」ではなく、「自分の人生には意味と喜びを持てる。」と人生を肯定的に捉えることなのです。私たちは通常、自分に値するものではなく、自分が予想するものを受け取っています。不幸を語る人の多くは自分の気分がどうすればよくなるかを理解しています。彼らが有意義な日常習慣を行わないのは、「その価値を無視している。」のではなく、「実行に移すためのモチベーションが湧かない。」ためです。だから、このような人々は、モチベーションを自ら上げることなく、気分がよくなるのを、ただ待っているだけなのです。なにもしなければ、モチベーションは上がらないのです。これらをふまえ、幸福の3つの要素として、「すべき仕事」「愛する人」「楽しみなこと」があげられます。すべき仕事をし、良好な人間関係を保ち、楽しみな約束がある時、私たちは不幸を感じるのは難しい…。この時の「仕事」は、有償・無償を問わず、自分に意味を与えるあらゆるものです。
⇒心当たりはありませんか?・自分が言った事が相手にうまく伝わらない・ベストな方法を提案しているのに相手がそれを実行してくれない・相手が思ったような成果を出してくれない⇒コミュニケーションにおける2つのNG傾向①伝えることから先にはじめてしまう(経験豊富な人は結論が見える。状況判断から結局どうのこうの言っても結論は同じ、だから無意識のうちに結論から先に伝えてしまう。)②自分がやりやすい方法を使ってしまう(仕事が忙しすぎるから?面倒くさいから?過去にやったことがある自分のやりたい方法や、やりやすい方法を無意識のうちに伝えてしまう。)以上の2点は悪いことではない。それでは、何がNGなのか・・・。子どもが相手の仕事はティーチング(知らないことを教える)でいいが、大人は一定の人生経験があるがゆえに・・・、①私たちが伝えたことを鵜呑みにしない。信じる前に本当なのか?と疑いの気持ちを持つので自分の経験と照らしあわせて受け入れられるものだけを受け入れる。そして、今の自分の気持ちにフィットしたことしか聞く耳を持たない。聞いていないからどんなに専門性の高いことや正しいことを伝えても伝わらない。②あわせて、経験豊富な人は専門性が高いがゆえに相手のプライドを傷つけるような関わり方を無意識のうちにやってしまっている可能性がある。これはくせもので、人によってプライドのツボが違うので無意識のうちに相手のプライドを傷つけることによって耳を閉じてしまい、聞く耳を持たなくなる。あなたの経験・知識をどんなに一生懸命伝えようとしても、この2点に留意しないと決して伝わらない。特に仕事の問題は、コミュニケーション不全によるものが多く、その本質は自分が言ったことが理解できないのではなく、理解の前に伝わっていないのである。
いつも人から邪魔されて、何をやってもうまくいかない。もういい加減、頑張ることに疲れた…。自分って一体何だろう?なぜ、生まれたんだろう?自分って生きている意味、あるのかな?私たちは、気がついたら、人生の意味を考えてしまう。人生の意味を考えて、これだ!と答えが導き出されるのであれば、多くの人の悩みはなくなる…。では、なぜなくならないのだろうか?なくならないというよりも、自分以外の誰かにとっての答えをわかる人がいないからではないだろうか?誰かが見つけた答えは、自分の人生の意味にはならない。答えは自分の中にある。そう考えると、確かに…、と思える。人生の意味と言うけど、全ての人に共通する、普遍的な意味などないのかもしれない。であれば、私たち一人ひとりが自分の内面に意識を向け、自分の内なる声に耳を澄まし、そのメッセージと調和する意味をそれぞれの人生に与える。その意味に少しでも近づくために、無理なくできることを積み重ねる。人生の意味の答えは、それぞれ、自分自身の中にある…。自分の内面にあるメッセージを受け止め、それに使命感を持って取り組む。そうすると、あらゆる努力が意味を持つようになる。人生の意味とは、この辺に潜んでいそうだ…。
人生には障がいはつきものなので、だれしも、落とし穴に落ちます。問題は、その落とし穴からすぐに脱出するのか、いつまでもそこにとどまるのか。とどまって自分のまわりの環境の文句を言い続けるのか?言い続けている間に、自分の心身共に疲弊していくのかもしれない。大切なのは、まず、自分が落とし穴に落ちているということに気づくこと。そして、自分の意志でその落とし穴から脱出して、自分の本来の道に戻ること…。自分で気づくことができないなら、他人の力を借りてもいい。一度でも、自分の意志でその落とし穴から脱出した経験があるなら、今後、自分がどんな落とし穴に落ちるのか、それが予測できるようになります。さらに、事前に落とし穴のありかがわかるようになり、それを避けることができるようになります。そうすることで、自分の本来の道を歩み続けることができる…。
SNSの本質は、他人の「いいね」に依存するということです。だから、義務感でSNSを使うということは、他人に依存することを自ら義務的に進めるということになります。他人に依存することなくSNSを使うということは、自分の価値観・信念というフィルター(サングラス)で、自分の暮らしや社会がどのように見えるのか?その見える様子を伝えることだと思います。その見える様子に共感した人が、あなたの価値観・信念というフィルター(サングラス)が欲しい、あなたのことをもっと知りたいと思い、ファンになる。ファンというか、仲間かな。私たちはひとりでは生きていけないので、たくさんは必要ないけど、仲間が必要。人生は、仲間づくり。
いつも他人に我慢している人ほど、大切な人には雑な対応をしている。大切な人のために、仕事で結果を出したくて、嫌な人に対しても我慢をして対応してしまう。時には、我慢は必要だけど、我慢をデフォルトにして、嫌われないように完璧を演じると、ストレスがたまり、余裕がなくなり、仲が良ければ許してくれるだろうと、身近にいる大切な人を雑に扱うようになっていた。大切な人のために頑張っていたのに…。今まで時間をかけて築いてきた信用。雑に扱うことで、その信用は一瞬で崩れ去ってしまう。言動と行動が違うと、人の心は離れていく。身近にいる人ほど、本当は大切にしないといけないのに…。何でだろう?まず目を向けるべきは、身近にいる人なんだよね。自分に無理なくできることで、身近な人を喜ばせる。この積み重ねが豊かな人生を創る。一番怖いのは、自分の心を欺くこと。自分の心を欺くと、自分のことが信じれなくなる。するとね、ある日気づくと、不都合な現実に人生が支配され、ある日突然人生が終わる。突然終わっているのだけど、実は、気づかないうちにゆっくり、不都合な現実を引き寄せて生きていた。自分の心を欺いて生きるということはそういうこと。本当は、自分の心に気を遣わないといけないのに、他人の事ばかりに気を遣い、自分の人生を自分で削っている。気遣い、思い遣り、優しさは、自分の一番身近で、大切な人の為にまず使う。そういうことだと思う。ある日突然人生が終わらないために…。
より良い人生、もっと健康的で、実り多い人生、もっと豊かで意義深い人生を送りたい。なのに、生きづらい、人生って辛い、と感じている。そんな時、一体どうしたらいいのだろう?自己否定、自己変革だと喧伝して、瞬間的に弱い自分を変え、社会を勝ち抜くスキルを身に着ける、弱点を克服して、盲点のない人となる。無理、無理だと思うのです。自分以外の他の誰かになったとしても、全然心は安らがない…。だって、自分が何者であるかわからなくなるから。そうではなく、逆をいく。自分を変えることではなく、ありのままの自分を受け入れること。自分の内面に意識を向け、自分の強みを見つけること。強みと言っても、他人と比べて圧倒的に優れているものではないです。何気ない自分の優しさや、穏やかな笑顔などです。自分の中の当たり前を、当たり前じゃないレベルまで使い尽くす。それでいい。重ねて申し上げますが、どんなに自分の弱点を克服しようとも、心安らぐ、真のプライドは身に着かない…。みんな自分を真のプライドへ導く強みを持っているのですが、毎日の忙しさや、他人と比較されることによって、自分の強みを見失っているだけです。このように見失っている中で、より良い人生、もっと健康的で、実り多い人生、もっと豊かで意義深い人生を送るためにはどうするのか…?それは、自分の感情を解放する、そして、その感情を活用する能力だと思うのです。私たちは忙しい毎日の中で、思考ばかり活用して、自分の感情に蓋をしているのです。思考を活用して、他者比較の中で、自分の弱点を克服する努力をいつまで積み重ねたらいいのだろう?これが、生きづらさや、人生の辛さの本質なのかもしれない。だからこそ、感情をコントロールするスキルを身に着け、感情の持つパワーをうまく利用できるようになった人の方が、仕事においても、人間関係においても、人生においても、大きなこと成果を出すことができると思うのです。なぜなら、いかなる問題も、それが発生したのと同じ次元で 解決することはできないから。私たちは、常に不安や怒り、ネガティブな感情を抱いてしまいます。それは悪いことではなく、必要なことだからです。その感情を取り除き、なきものにするのではなく、それを受け入れ、自己理解を深める。そして、自分の強みを発揮して、他者貢献する。自分に無理なくできることで、身近な人を喜ばせる。自分の強みこそが、自分の人生の指針となる。自分が人生において何を望み、何を望むのか?それは、自分の強みが指針となる。人生には、晴れの日もあれば、雨の日、嵐の日もあります。どんな時でも、自分の強みこそが、人生の指針となる。~私は本当の自分を知っているし、自分が何を求めているかもわかっているから、嵐の真っ只中にいる時でも、心の中は全くの無風状態だ~
私たちはもう少しゆとりのある毎日を送らないと、何か大切なものを見落としたままになるかもしれません。もちろん、人生のステージにおいて、余裕なく、忙しい毎日を送る日々もあります。しかし、忙しすぎると、心に余裕がなくなり、自分の感情との接触がなくなってしまい、忙しく生きることが目的となってしまいます。何かに取りつかれたように忙しく働く人たちは、1つの仕事が終わらないうちに、新たな仕事を2つも3つも抱えます。かくいう私も、以前は、仕事には、スピードが大切だと思っていました。でも気がつくと、中途半端な仕事が、山のように散らかり、何ひとつ極めることができない状態でした。何かをきちんと終わらせるよりも、何か新しいことをはじめることの方が価値があるように思っていました。しかし、今は、そんなに急ぐことが逆効果であることを理解しています。何かを成し遂げるための行動は確かに大切です。スピードは、パワーです。それと同じくらい、足を止めて、ゆっくりと生きることも大切です。どんなに与えられた仕事をこなしても、自分の内面は満ちていかない。意義ある人生を送るためには、もっと、心にゆとりを持ち、自分の内なる声を聴く必要があります。私たちは、働くために生きているのではない。生きるために働くのだ。自分の内なる声を聴くには、心を落ち着けて、耳を澄まさない限り、聴こえてこないのです。自分の感情との接触を持つということです。自分の感情というのは、非常に微弱なもので、忙しくしていると気づけない。忙しさというのは、エネルギーが強く、中毒になるから…。ゆとりがないと、思いやりや、優しさという、自分の中にある素晴らしい側面が表に出てこない。ゆとりこそが、本来の私たちの持っている、思いやりや優しさという力を表に出して、人を強くする。そのように信じてやまない…。
たまに、あの人が悪い、だから自分の仕事や人生がダメになってきた。あの人たちから距離を置きたいけど、ダメだ。逃げられない…。というように、自分の置かれている状況を嘆いている人がいます。自分で今の状況にとどまろうと決意しているのに、この状況から逃げられない…。私たちは、不思議なもので、思い込みが深くなると、一歩踏み出せばいいだけのことなのに、金縛りにあったように動けなくなる。そんな時にいくら理屈で考えても、状況は変わらない。辛い経験を伴う思い込みは、全ての理屈を無にしてしまう。それではどうしたらいいのか?思い込みなんて、瞬時に外れるものではない。しかし、思い込みを緩和させることはできる。喜怒哀楽というか、自分の感情を解放することだ…。信頼できる人と、自分や他人の過去の失敗談などを話して、あーでもない、こーでもないと、失敗に対する感情を共有するのです。不思議なことに感情を共有すると、なぜか自分を振り返り、他責から自責思考となり、自分の思い込みが緩み、新たな視点に気づくというか、新しいアイデアが湧き出すんです…。その瞬間、自分の思い込みが緩和されるというか、自分の思い込みに気づくのです。しかし、気づくことと、自分の思い込みを払拭することの間には高い壁があります。だけど、壁に気づけば大丈夫。別に越えていく必要もなく、遠回りして回避してもいいのです。まずは、自分が追い込まれているなら、自分の思い込みに気づくこと。そのために、理屈ではなく、自分の感情を解放すること。思い込みに支配され、追い込まれている時は、理屈で状況を打開しようとしています。今日お伝えしたいことは、いかなる問題も、それが発生したのと同じ次元で解決することはできない…。と、いうことです。
私たちには終わりがある。だけど、私たちは日常の忙しさの中で忘れている。もし、あと一年しか生きられないとしたら。●今の会社や働き方を続けますか●残りの時間誰と過ごしたいですか●今の家で暮らし続けたいですか●自分の過去の行動で、許してほしいことはありますか●趣味は続けますか●最後の時間で誰を幸せにしたいですかもし、自分の現在の暮らしと、人生の最後にしたいことのギャップが大きすぎるなら、自分を欺かずに、できるところから、取りかかった方がいい…。これまでの人生で、いろいろあって、さまざまな決断をして、今の自分の人生がある。今の人生に満足していないなら、どこか、自分の人生を他人のせいにしているのかもしれない。自分自身の人生を混乱に陥れたのは、自分自身…。そのように考えられるようになったとき、自分自身の中に変化が起きはじめる。だからこそ、自分の現在の暮らしと、人生の最後にしたいことのギャップが大きすぎることが見過ごせなくなる。だったら、自分にとって本当に大切なものを見つけて、それにエネルギーを集中させてみる。自分の人生を変えるというのは、きっと、そういうことなんだろう。新たな人生を切り拓く第一歩とは、終わりがあることを認めること…。終わりは、はじまりのエネルギー…。だから、自分が生きたいように生きればいい。それでいいんだよ。
生きるとは何なのかを知らない大人は、たんに先に生きているだけであって、何を知っているわけでもない…。だから、教えられるのは、自分がいかに知らないか、これだけである…。実際、多くの大人は、子どもよりも先に生きているから、自分の方が人生を知っていると思っている。しかし、これは、正しくない一面もあり、先に生きている大人が知っているのは、生活であって人生ではないのかもしれない。生活の仕方、いかに生活するかを知っていることは、人生を知っているということとは違うのだ。生活と人生は、別物である。生活を教えることが、人生を教えることではない。「なんのために」生活するのか?この問いが重要だ。やり方の前に、あり方なのだ。
〈適量〉 生命あふれる自然な食べ物は、どんなに美味しくても、食べ過ぎることはない。 一方、生命を歪めた不自然な食べ物は、食べ出すと止まらず、気づくと身体が重くなっている。 自然な物ほど、適量で調和する。 食べ過ぎは、人か食べ物、どちらかが自然でなくなっているサインだ。 pic.twitter.com/PHqic5uRxS— 逢いことば (@aikotoba_salon) June 30, 2024足るを知ることができないのは、不自然さから生まれる…。満たされるという感覚を忘れてしまうからこそ、不必要なものを摂取しすぎて、身体と心が重くなる。
左脳と右脳の特徴がある…。(左脳) (右脳)利己的 ⇔ 分かち合う批判的 ⇔ 優しいあやつる ⇔ 流れに任せる猜疑 ⇔ 信頼条件付き ⇔ 無条件抑圧された ⇔ おおらか優劣 ⇔ 平等言葉による ⇔ 言葉によらない言語で考える ⇔ 絵で考える手厳しい ⇔ 思いやりがある違いを探す ⇔ 類似点を探す左脳で考えを極めると、どうしても、他人の期待に応える考え方になる。そうして、自分の内面を満たすことより、他者評価や承認の世界で生きていると、どうしても生きづらさを感じてしまう。バランスが大切。左脳に支配されすぎてバランスを崩している人、たくさんいます。左脳に支配されすぎている人に、バランスをとるために、あり方で生きる、笑顔で心穏やかに生きる、直感と自分の心に従う勇気を持つことを伝えることが、私のコーチング(対話)何だと改めて実感している…。
「つまらなそうな顔してますね…。」先日、こんな失礼なことを言われたんです!そう言って怒っている人がいた。「これが私の顔だから…。」人の声には、色がある。明るい声は、明るい色、暗い声は、暗い色が…。声によって投げかけられた無数の色は、その場の空気を瞬時に染めていく。「これが私の顔だから…。」一体どんな色だろう。その場の空気は何色に染まったのだろう。笑顔で挨拶を交わす、笑顔で心穏やかに生きる。身近な人がそうであれば救われる。声には、その場の空気を瞬時に染めることができる色がある。そしてその色は、あなたの心の内面の状態から発色する。
花は、咲く時を知っている。他の花と競って、一喜一憂しない。サクラの花が咲く時も、多様性があるからこそ感動する。桜吹雪の木もあれば、満開を迎える気もある。日の当たる環境など、環境が違う中で、自分の環境を受け入れ、花開くその時まで、静かに育ち、時を待つ。やがて、エネルギーが充ち満ちた時、あるがままの姿で自然にほころぶ。ほころぶ花もあれば、そうでない花もあるかもしれない。それでもいい。私たちは全体の中の一部。多様性があるからこそ…。不必要に他の花と競う必要はない。みんな違って、みんないい。
「つまらなそうな顔してますね…。」先日、こんな失礼なことを言われたんです!そう言って怒っている人がいた。「これが私の顔だから…。」たしかにそうかもしれない。それでは、仕事場の上司が常に不機嫌な顔をしていたらどうだろう?仕事が楽しいだろうか?仕事場に着くなり、一気に暗い気持ちになってしまわないだろうか?部下は、上司の不機嫌な顔を見て、「その不機嫌な顔何とかしてよ!」とも言えず、ただひたすら耐えるしかない。そう思うと、「つまらなそうな顔してますね…。」と、言われた人は、まだ救いがあると思うのです。その声かけをどのよう意味づけするのか?私たちは、お互いに関わり合って生きている。表情は他人(ひと)のためにある。もし、そのように意味づけするなら、その瞬間から何かが変化しはじめるだろう。「これが私の顔だから…。」そう言っている間は、まわりとの関わり合いを自ら断ち切っていることに気づけない。
最近わかってきたことがあって、他人の期待に応えることを優先すると、自分で自分のメンタルを削り、虚無感に襲われるということ。これって無意識の無限ループ。自分の内面を満たすためには、自分の価値観・信念を主張すること。これは、わがままと似ていて非なるものである。みんなが幸せになる第三の選択はここから生まれる。私たちの命って、生まれて死んでの繰り返しの繋がりの中で、紡がれていて、確かに自分の努力も大切なんだけど、目に見えない繋がりを感じる時に、私たちのパワーは、純粋で温かく、最高&持続可能となる。所詮私たちは、目に見えない、大きな力の中で、生かされている。そして、それでいいと思う…。