人生は習慣によって創られる。自分にとって大切なものだけをポケットに入れて、大切なものをまっすぐに大切にして生きる。自分に無理なくできることで他人に貢献し続けることが、やがて自分のあり方となる。
自己犠牲と我慢」よりも「あり方で生きる」方が笑顔で心穏やかになれるとき、私たちは、初めて勇気を振り絞り人生のハンドルを握る。他人の期待応える人生から、自分の人生を歩むために、『何をなすべきか』ではなく、『どう存在すべきか』を探求する。
優しくて真面目で責任感の強い人は、他人の期待に応えることで幸せを掴もうとするけど、結局何も掴めない。それどころか大切な人の笑顔を輝かせることができない。なぜなら、他人の期待に応えることを優先して、自分自身と大切な人の笑顔をどこかに置き忘れてしまっているから。自分の存在を愛せない人は、「自分の存在が奪われないように」他人の期待に応え、「自分の存在が認められるために」自分を削る。それは分かち合いではなく、命の浪費…。
私たちは、命をいただいて、命を分かち合って生きている。命を分かち合うことで生かされている。命を時間と例えるなら、私に与えられた時間を何のために使い、誰のために使い、誰と分かち合うのか?今日と言う日は、大切なものを大切にできるなら、あなたが自由に描いていい。自分の存在を愛することができるなら、与える勇気と受け取る 勇気が循環する。ともに生き ともに創る
与えられたもの(運命、会社からの指示、親の期待など)に従っている限り、結果がどうあれ「自分のせいではない」という言い訳が立ちます。しかし、自分の意志で選択するということは、その結果に対する全責任を負うということです。だから失敗した時のダメージを恐れるあまり、無意識のうちに自分の選択に満足することを自分に禁じているの かもしれません。「満足」とは、選んだ結果の状態ではなく、選択した自分の意志を信じるという「態度」そのものなのです。
自分の弱さや不完全さを認め、それも含めて自分であると受け入れる勇気。自分の損得を超えて、誰かや何かのために一歩踏み出す勇気。「守りたいものがあるから強くなれる。」愛という揺るぎない土台があるからこそ、人は恐怖を抱えたまま進むことができる…。 遠くの大きな光を追い求める必要はありません。自分が灯明となればいい。今、足元にある「一隅」を照らす。今日という一生の中で、「一日一笑」を添える。そんなシンプルな積み重ねによって、 望む未来が出現する。だから、丁寧に、今を生きる。ともに生き ともに創る
圧倒的な人生経験を持ちながら、それを「正解」として 振りかざさず、ただ静かに相手の可能性を信じて隣にいる。「あなたも一人の大人、私も一人の大人。自分の人生に責任を持つ者同士、対等に話をしましょう。」というスタンスです。この「横の関係」こそが、相手の自律性を最大化します。依存させず、コントロールもせず、ただ横に並んで歩くことで、「自分に戻る勇気」をともに創り、クライアントの中に眠る「命の輝き」を呼び覚まします。
不安とは、 まだ存在しない未来に意識が支配されている状態です。感謝とは、今ここにある「当たり前」を大切にすること。望む未来は、今の積み重ねによって出現する。
足し算で得たものは、失うことがが怖くなるけど、引き算で残ったものは、一生奪われることがない。それを『自分に戻る』勇気という。あなたが積み上げてきたものを失っても、あなたの価値は一ミリも減らない。 むしろ、そこから本当のあなたがはじまるんだよ。「正解」は外にあるが、「勇気」は内側にある。
「頑張る」という言葉の裏には、しばしば「今の自分では足りない」という不足感があります。一方で「愉しむ」というのは、今の自分や状況を肯定し、内側から溢れるエネルギーを外に放出するようなイメージです。奪い愛から、分かち愛…。人間の最大の 敵は、奪い愛による蓄積疲労。「頑張ること」を優先しすぎると、私たちは知らず知らずのうちに疲労を負債のように蓄積させてしまいます。蓄積疲労は、単なる身体の疲れではなく、心や魂の「感度」を著しく低下させる、サイレントキラーです。
何 かを頑張って成功した体験がある人ほど、「動く」=「整う」と思い込んでしまう。実は、「動ける」と「整っている」は別物。動くことで、整う。止まることで、整う。「動く」は、勇気。「止まる」も、勇気。本質は、自分を愛しているか。「動く」勇気停滞や恐怖を振り切り、未知の世界へ踏み出す、攻めの勇気。「止まる」勇気「動いていないと価値がない」、「期待に応えられない」というエゴや焦りを手放し、何もしない自分を受け入れる、守りの勇気。成功体験が豊富な人にとって、実は「止まる」ことの方が、何倍も大きな勇気を必要とします。「動けてしまう自分」への対策を考えることも人生。
1人で生きていこうと完璧を目指している間は、今を生きることはできず、人との繋がりも深まらない。むしろ人との繋がりが断絶する。完璧な人間は、瞬間、愛されるかもしれないけれど、不完全な人間は、長く信頼されるんだよ。完璧を演じる疲れと虚しさを知っているあなただからこそ、不完全さの価値と美しさを語れる…。不完全でいいんだよ。
自分という個を確立すること(自立)と、信頼できる他者と繋がること(連帯)はセット…。「自分をすり減らすご縁」を維持しているうちは、本当の意味での繋がりは手に入りません。「自分をすり減らすご縁」を維持するとは、他人の期待に応える人生ということです。他人の期待に応える人生を歩んでいるうちは、信頼できる相手に出会っても、それを受け入れる余力も、相手を認識する感度も鈍ってしまいます。身軽になるからこそ、遠くまで歩ける。そして、同じ方向を目指す仲間と繋がることで、楽しく歩ける。
頑張ることでうまくいき、居場所を見つける。そして、さらに頑張ることで、不思議なことに状況をこじらせ、さらなる頑張りで居場所を見失う。頑張りどころを間違ってはいけない。これって頑張ることの動機の変化で起きるんだよね。動機が、自己実現・他者貢献(フロー状態)の時は、居場所が見つかる。動機が、承認欲求・執着(エゴの状態)の時は、気がつくと居場所を失う。「頑張っているのに苦しい時は、行動量が足りないのではなく、動機の純度が濁り始めている時…。」つまりね、「あり方」ではなく、「やり方」にこだわっている時…。
モチベーションを口にしたり、根性を出さなきゃいけない時は、戦略が甘いとき。自己犠牲と我慢をしなきゃいけない時は、他人の生き方をしてるとき。頑張らないといけない時は、自分が好きなことをやる勇気が足りなかったとき。
人生の悲劇とは、自分の心を欺き、自分の人生ではなく、他人の人生を生きること。何故なら、いかなる成功も賞賛も無に還ってしまうから。「無」に直面する恐怖を、避けるために他人の人生を生きるのだけど、「自分の心を欺く」という楽な道は、直面する時間を先延ばしにするだけかもしれない…。全て自分が本当にしたいことをすればいいと言っているわけではなく、全体の20%くらいは、本当にしたいことに心を込めることができれば、人生そんなに悪くない。他人の期待に応える人生から、自分の人生を歩む。人生は、恐れなければ素晴らしい。必要なのは、愛と勇気と想像力、そして、日々の暮らしを賄うお金。
「損得勘定(やり方)で得た安心感は、奪い合いの対象となり、欠乏感へと変わっていく。」「 自分の感情(あり方)から湧き上がる安心感は、損得を超え、分かち合いの対象となり充足感へと変わっていく。」だから、今日も一隅を照らす一日一笑一日一生あり方で、笑顔で心穏やかに命を輝かせて生きる。「たとえ地球が明日滅びるとしても、君は今日、リンゴの樹を植えるだろう」〜マルティン・ルター~
私たちは必ず受け取っている。そう信じて記憶を辿るから見つかる。見つかったら、その「表情」を身近な大切な人に繋いでいく。人生は愛の恩送り。Pay it forward.今日も一隅を照らす。一日一笑一日一生「人生(魂)変容プロセス」質問: 過去の愛の記憶へ意識を向ける。確信: 「必ずある」という力強い全肯定で発見する。循環: 「繋ぐ」「恩送り」という未来への行動。覚悟: 「今日をどう生きるか」、今この瞬間への集中。「質問」で閉じていた過去の扉を開き、「確信」で自分の輪郭(アイデンティティ)を再定義し、「循環」で自分を世界の一部として解き放ち、「覚悟 」で今この瞬間に命を吹き込む。「奪われたもの」ではなく「受け取っていたもの」に目を向ける。「過去の被害者」から「未来の創造者」へと変容する本質は、愛の恩送りである。
行動の源泉がどこにあるのか?自分は愛を受けて今まで育ってきて、受けた愛を分かち合うのか?受けた愛を忘れて、相手から奪い 合うのか?行動の源泉の質こそが、行動の結果の質…。「受けた愛を忘れてしまう」のは、私たちの弱さでもありますが、「思い出す」ことができるのもまた、私たちの力。この力を取り戻す対話こそが、あり方探求ライフコーチングの価値だと思うのです。
現代社会では、多くの人が「止まること=停滞・敗北」と捉えて焦っています。その焦りを行動で解 決しようとして、更なる焦りを自分で創っているのです。だから、「今、動けない自分」を責めなくていい。「しっかり止まらないと、新たな方向に進めないから…。」そして、「今はまだ『愉しむ』なんて思えなくてもいい。しっかり止まることは、自分の輝きを取り戻すための『浄化作用』…。全部出し切ったあと、一緒に『次』を描きませんか?」焦らないけど、諦めなければ、どうせ人生はうまくいく。
生きることを突き詰めていいくと、結局生きることは食べることとなる。そして、日本人は、米と味噌しか勝たんのです。「生きることは食べること」という言葉は、私たちの身体が100%「食べたもの」で構成されているということです。ライフコーチングでいう「あり方」がソフトウェアだとしたら、身体はハードウェアです。何を食べるかは、どのような細胞を作り、どのようなエネルギー(気)を循環させるかということです。食べる行為は、外部の命を取り込み、自分の命へと変換することで、これを疎かにしないことは、自分自身の存在を丁寧に扱うことに直結します。「米と味噌しか勝たん」という言葉には、余計なものを削ぎ落とした結果という意味です。米は、複雑な調理を必要とせず、水と火だけで完成する完全なるエネルギー源です。日本人の腸内環境や遺伝子に深く刻まれた「安定感」の象徴であり、心を安心させる力があります。味噌は発酵食品であり、目に見えない無数の「生きた力」を宿しています。自分の外側にある自然界の循環を体内に取り入れることで、私たちは「個」でありながら「全体(自然)」の一部であるという感覚を、無意識のうちに取り戻します。トーストにたっぷりのバターは、香ばしくて食欲がそそられるのですが、病気をした時に、おかゆと梅干しとバターたっぷりのトースト、どちらに手が伸びるかを考えると明白なんですよね。バターの香ばしさや脂質の旨味は、脳を興奮させる「外側からの刺激」です。しかし、病の時はその刺激を処理するだけの余力がありません。おかゆは、消化というプロセスを極限までショートカットし、ダイレクトに生命維持のエネルギーへと変換されます。梅干しは、クエン酸という「整える力」を借りて、体内のバランス(中和)を取り戻そうとします。これは、人生が順風満帆な時は「もっと成果を、もっと刺激を」と求めてしまうけれど、本当に苦しい時は、ただ「自分が自分であればいい」という静かな安心感に立ち返るのと全く同じ構造です。パン(小麦)とバター(乳製品)は、どちらも加工を重ねた「合成」の美学です。一方で、おかゆと梅干しは、水と米、塩と梅。極めてシンプルで、自然界の形に近いものです。そもそも「病気」とは、本来の自分(自然体)からズレた状態。だからこそ、私たちの身体は、最も自然に近い「米と塩」を摂取することで、元の状態に戻そうとするのだと思います。日本人の身体にとって、お米の澱粉が分解されていく甘みは、「私は生かされている」という根源的な安心感に直結していると思います。「米と味噌しか勝たん」という言葉には、「最後に自分が帰る場所がわかっている」という意味を込めています。「これさえあれば、私は私でいられる」という圧倒的な安心感…。弱った時に手が伸びるものこそが、自分を支える真の土台であるということです。「あり方」も同じ。これさえ譲らなければ、私は私でいられるという圧倒的な安心感…。それが、「あり方」。