最近は、あの手この手で、
使用価値と関係価値について言葉にしています。

私は、物事を多面的に表現した結果、
全体像を掴むということを大切にしています。

たった一つの正義や答えなんてない。
自分の立場や時代背景、
自分の年齢などに置いて、
正義や答えは変わってしまう。
私は、それでいいと思っています。
時間軸を区切り、
その場で判断する必要はない。
人生という長いようで短いスパンで判断すればいい。
それで納得するなら、
人生マル(〇)なんだと思う。


3.11 東日本大震災の日に想う。

使用価値から関係価値へのシフト…。

ともに生き ともに創る

命に限りあるものだからこそ、
つながり助け合うことこそが価値となる…。

「モノの豊かさ」から、
人としての「心の豊かさ」へとシフトしていく…。

タイパ・コスパ、
「モノの豊かさ」を追求しすぎた結果生み出された格差…。


「使用価値」から「関係価値」へのシフト
戦後の日本社会は、「使用価値(何ができるか、何を持っているか)」を重視してきました。これは、対象を「道具」や「手段」として見る機能的な価値観です。

しかし、震災のような極限状態において、私たちを真に支えたのは「役に立つ道具」ではなく、「ただそこにいてくれる存在」や「共感し合える絆」でした。

使用価値: 役に立つか、効率的か、いくらで売れるか(機能・所有)

関係価値: 互いにどう響き合うか、どのような物語を共有しているか(存在・共創)

「関係価値」へのシフトとは、自分や他者を「機能」で判断するのをやめ、「関係性の中に生まれる意味」を豊かさの源泉に据え直すことを指します。

「命の有限性」からの「つながり」
命に限りあるものだからこそ、つながり助け合うことこそが価値となる。

もし命が無限であれば、私たちは他者を必要とせず、自己完結したままでいられるかもしれません。しかし、命には必ず終わりがあり、私たちは一人では生きられない存在です。

「命の有限性」を認め合うとき、助け合いは「弱さの補填」ではなく、「命を分かち合う行動」へと昇華されます。限りある時間の中で誰かとつながることは、自分の命の火を、相手の命へと繋いでいくプロセスそのものです。

「ともに生き、ともに創る(共生と共創)」
「ともに生きる(共生)」とは、単に隣にいることではありません。相手の痛みや喜びを自分のこととして受け止める「共有・共感」大切にすることです。

そして「ともに創る(共創)」とは、そのつながりから新しい未来や価値を生み出していく創造性の発揮です。

3.11を経験した私たちが学んだのは、「絶望の中でさえ、人は誰かと手を取り合うことで、一人では決して見られなかった景色を創り出せる」という希望でした。


以上を踏まえて、「使用価値」を一言で表現してみるなら、以下のようになると思います

「使用価値」の世界は、繋がりを分断させることによって成立する世界。
自己責任という言葉で、私たちを孤立した点とすることで、
あらゆるサービスが生み出されている。

昔は、情報が操作され、情報を出さないことで分断していたように思いますが、現代社会は、インターネットの発達により、溢れる情報により、思考停止にして、分断しているように感じます。

「分断」が利益を生む
本来、人間は「分かち合い、助け合う」ことで、コストをかけずに豊かさを育むことができる存在です。しかし、使用価値を最大化する市場経済において、その「つながり」は不都合な障壁になります。

家族や近所の助け合い(関係価値)があれば不要だったものが、一人ひとりをバラバラの「点」にすることで、有料の「サービス(商品)」として成立します。

つながりを断ち切り、個々人を不安にさせるほど、その穴を埋めるためのサービスが必要となるという構造です。

「自己責任」の意味の変化
「自己責任」という言葉は、本来の自立を促すものではなく、「他者に頼ることを恥とする」意味に変化しています。(日本人の恥に対する文化的な背景もそれを加速させているようにも感じます。)

「自分のことは自分で」という規範が強まるほど、人は助けを求められなくなり、内側に閉じこもります。

そして、助けを求められなくなり、内側に閉じこもるほど、他者とのつながりは失われていきます。


「分断されていることに気づく」ことが第一歩

私たちが「点」であることを拒み、細い「線(関係)」を結び直すとき、そこに価値が生まれます。

「一人の人間として、弱さを持ったままつながる」こと。
それこそが、使用価値から関係価値へシフトする第一歩になります。

あなたは一人で頑張らなくていい。
その分断は、あなたのせいではなく、
社会の仕組みが強いているものなのだから。

てつ|あり方探求ライフコーチ