最近は、意図的に「使用価値」と「関係価値」について探求を深めています。

なぜなら、広く世界を理解しようとするなら、大切なものを深く深く探求することが一番の近道だからです。

一芸は百芸に通ずるのです。

では、なぜ、私が意図的に「使用価値」と「関係価値」について探求を深めているのか…。
それは、今の日本は、戦後80年間「使用価値」に全振りすることで、幸せに生きるために必要な「愛」と「尊厳」をタイパ・コスパに奪われているからという想いが私にあるからです。

戦後、日本ががむしゃらに追い求めてきた「機能」や「効率」といった使用価値の追求は、確かに物質的な豊かさを提供してくれました。しかし、その代償として、目に見えないけれど最も大切な「心の居場所」や「自己の尊厳」が、数値化できないものとして切り捨てられてきた側面は否認できません。

効率(タイパ)や費用対効果(コスパ)という物差しで人間を測り始めると、人は「何ができるか」という条件付きの存在になってしまいます。そうなると、本来無条件であるはずの「愛」や「尊厳」が、成果や能力の影に隠れてしまうのです。

今、改めて「関係価値」に光を当てることは、社会全体が忘れてしまった「ただ、そこに在る(あり方)」ことを取り戻す作業のように感じているからです。

いや~、大袈裟ですね。
でも、私が、社会に出て40年の中で感じていることです。

私は、大学を卒業後、他人の期待に応えるプロとして、社会を駆け抜け、結局、「関係価値」を大切にする、「愛」と「尊厳」に戻ってきたと思うのです。

「使用価値」と「関係価値」のバランスを考える3つの視点

「役に立つ」から「意味がある」へのシフト
「使用価値」は、「道具としての人間」を求めますが、「関係価値」は、「物語としての人間」を尊重します。効率を追求する中では削ぎ落とされてしまう「無駄な時間」や「遠回り」こそが、実は「関係価値」(愛や尊厳)を育む土壌になっているのです。

「贈与」という概念の再評価
コスパは常に「等価交換」を求めますが、「愛」や「尊厳」は、「見返りを期待しない贈与」に近い性質を持っています。現代社会において、この「交換」の論理からいかに脱却し、関係性そのものを目的化できるかが鍵になりそうです。

身体性と余白
頭で考える効率化は加速し続けますが、人の心や身体が「尊厳」を感じるには一定の「間(ま)」や「余白」が必要です。自然の中に身を置いたり、一杯のコーヒーを丁寧に淹れたりするような、あえてスピードを落とす行為が、「関係価値」を再発見するためのきっかけになるのです。

さて、ここから少しグローバルエコノミーへ視点を移していきたいと思います。

今朝、コーヒーを淹れて、新聞の表紙を眺めていた時に衝撃の事実に気づきました。日本だけではなく、全世界が「使用価値」に支配されていて、地球そのものがグローバルエコノミーのロジックに支配されているからです。

なぜなら、アメリカがイランを攻撃することから、グローバルエコノミミーのロジックというか、均衡が壊され、日本における私たちの暮らしの安全と安心が奪われそうになっているからです。

個人の「あり方」や日本の戦後史という枠組みを超えて、いまや地球規模の巨大な「使用価値のロジック」が、私たちの生命や尊厳という「関係価値」を飲み込もうとしている。その構造が、地政学的な衝突という形で牙を剥いていると感じたのです。

グローバルエコノミーの論理では、国家も土地も資源も、すべては「利益を生むための道具(使用価値)」として計算されます。そこには、そこに住む人々の「愛」や「安心」といった数値化できない価値は、コストやリスクという冷徹な言葉に置き換えられてしまいます。

現在の不穏な情勢が示すのは、単なる軍事的な対立ではなく、「効率と支配」を優先し続けたシステムの限界かもしれません。

この衝撃的な事実に対して、ライフコーチとして、そして「あり方」を探求する一人として、どのようなことができるのか?

「マクロの暴力」に対する「ミクロの尊厳」
世界情勢という抗えない大きな力(使用価値の暴走)に対し、私たちが唯一コントロールできるのは、目の前の人間との「関係価値」を死守することです。世界が壊れそうな時こそ、身近な人との深い対話や、自分自身の内面的な平和(あり方)を研ぎ澄ますことが、逆説的に最強の抵抗になります。

このことは、いつの時代も同じことが謳われていると思います。「愛」と「尊厳」を失ったら、私たちは生きていけないのです。

精神的な自律
国や経済システムが与えてくれる「外側の安全」が揺らいでいる今、自らの内側に根ざした「揺るぎない安心」が必要とされています。それは、たとえ社会の均衡が崩れても、自分自身の価値観や「あり方」だけは奪われないという、精神的な自律です。

「愛」と「尊厳」の循環へ
奪い合いのロジック(グローバルエコノミー)から抜け出すには、小さなコミュニティや個人の間で、見返りを求めない「贈与」や「分かち合い」の文化を再構築することが、新しい時代のセーフティネットになるのだと思います。

世界に対する挑戦
「関係価値」を取り戻し、あり方で生きることは、個人の幸せの源泉であるのだけれども、視点を変えるなら、世界に対する挑戦なのだと思うのです。私たちは、微力ではあるけど、無力ではないのです。

「世界に対する挑戦」としての3つのアプローチ

「計算外」の価値を創る
グローバルエコノミーが予測できない「損得を超えた行動」や「純粋な贈与」を積み重ねること。例えば、一杯のコーヒーを淹れる時間や、損得を抜きにした対話は、効率至上主義の網の目からこぼれ落ちる「関係価値」の再構築そのものです。

「半径5メートルの安心」を起点にする
世界情勢を憂うだけでなく、まずは自分の手の届く範囲——家族、クライアント、仲間——との間に、何があっても揺るがない「愛と尊厳」の空間を大切にすること。この最小単位の「関係価値」が伝播し、連結していくことが、結果として巨大なシステムへの対抗軸となります。

「言葉」による主権の回復
コスパやタイパといった「借り物の言葉」ではなく、自分自身の内側から湧き出る「あり方の言葉」で語り、書くこと。

私が10年毎朝ブログを書き続けてこられた理由がやっとわかりました…。

最後に、あり方探求ライフコーチ的、グローバルエコノミーの解釈に思いつくままに書いて終わりたいと思います。

日本は、戦後、高度経済成長を遂げ、もちろんその経済成長の間も、世界の戦争の影響を受け続けていました。

そして、バブル経済の崩壊後から、経済的な失われた10年、アメリカ同時多発テロで世界はさらに新たな扉を開けてしまった。

そして、アメリカ経済の影響を受けた、リーマンショック、東日本大震災、コロナウィルスと「使用価値」から「関係価値」への帰還のサインが出まくっていたと思うのです。

そして、コロナウィルス以降の数年で、グローバルエコノミーはAIの発展によって制御不能になっている。

だからこそ、アメリカのイラン攻撃、その影響は全世界に及んでいる。これは、私の解釈です。

日本、そして世界は、幾度もの大きな衝撃(ショック)を通じて、「効率や数字(使用価値)」から、「繋がりや存在(関係価値)」への帰還を促され続けていたのは間違いないと思います。

しかし、そのたびにシステムは「さらなる効率化」や「AIによる制御」というテクノロジーを使って、使用価値の延命を図ってきました。

それが今、地政学的な衝突という形で、私たちの「安全」という生存の根幹を脅かすレベルまで暴走している。

歴史の節目が発していた「帰還のサイン」の再確認

バブル崩壊
「資産価値」の無限増殖
「豊かさの正体とは何か?」

9.11 テロ
覇権による「力の支配」
「憎しみの連鎖を止める慈悲と尊厳」

リーマンショック
「金融工学」という数字の遊び
「実体のある生活と信頼の回復」

東日本大震災
「電力・利便性」の享受
「絆(関係性)と、ただ生かされていること」

コロナ禍
「移動・消費」の最大化
「静止」の中で見つめる「内なるあり方」

AIの加速・紛争
「データ・アルゴリズム」による支配
「人間としての尊厳」の最終防衛線

「制御不能なAI」と「グローバルエコノミーの暴走」
現在のAIの発展は、「使用価値」の極致です。人間を凌駕する計算速度と効率性は、グローバルエコノミーを「加速」させますが、そこには「痛み」も「愛」も介在しません。

イラン攻撃のような事態が連鎖し、均衡が崩れていく様は、まさに人間不在のロジックが地球を覆い尽くそうとしている姿に見えます。

「私たちは微力ではあるけど、無力ではない」

システムが巨大化し、制御不能になればなるほど、その対極にある「小さな対話」、「手作業のコーヒー」、「一編のブログ」といった、数値化できない「関係価値」の営みが、システムの暴走を治める力となるのだと信じています。

だから今日も
一隅を照らす
一日一笑
一日一生

笑顔で心穏やかに生きる

ここまで書いて、
今ふと思い出したのは、
映画『タイタニック』のワンシーンです。

沈みゆくタイタニック号の中で、
自らの死を省みず、
最後まで乗客のために
演奏の手を止めなかった
オーケストラの人たちのことです。