東京45年【91-5】自由ヶ丘、実感
1986年2月、25才
6時前に自由ヶ丘に戻り田口さんを待った。
田口さんは、たくさんのみかんを抱えてやってきた。
玲はお茶の支度をして、夕食の準備をしながら聞いていた。
『どうだ凍傷の具合は?』
『痛みはありますが、大丈夫です』
『でも良く嵐の中、下りられたな』
『いやあ、今回は参りました。
良くもあれだけ荒れるもんだと思いながら。。。。
全然、天気が良くならなかったんですよ。
気温も低いし。。。。
天気が悪ければ、もう少し気温が上がるはずなのに、ずっと最低気温でしたよ。
風も強くて、だから体感気温は氷点下40℃を下回っていたと思います。
それに、雪洞じゃあ無かったら凍傷も、もっと酷くなったと思います』
『そんな中で、なんで踏破出来たんだ?』
『何でって、玲に会いたいって毎日毎日思って。。。。
そうしたらスピードが上がって、でもラッセルはきつかったです。
トレースはすぐに無くなって、自分がどこから来たのかも分からなくなりました。
翌日、吹雪いたら方向も何も分からなくなりました。
吹雪の合間に海が見えたから、方向が分かったんですよ』
『あのな、島。。。
2月10日以降、入山したパーティーはほぼ全滅だ。
北アルプス・南アルプス、八ヶ岳、越後、大雪山、何れも遭難した。
無事予定通り戻ったのは、お前だけだ。
7パーティーが遭難して、内2パーティーは自力で4日遅れで下山、3パーティーが死者か、行方不明者を出しながら救助隊に救助され、2パーティーは未だ不明だ。
それ以外にも小さな山で数件の遭難があった。
今年の厳冬期は30年振りの荒天で、遭難が相次いだんだ。
だから、お前だけが目的を達成して予定通り、普通に下りて来た。
しかも、厳冬期初、厳冬期単独初、最長距離踏破、荒天なのに最短時間の記録付きだ。。。。。
これは、登山界で騒ぎになるぞ』
『そうだったんですね。どおりで厳しかった訳だ。ホントにしんどかったですよ』
今までで、一番しんどかったです。
モンテビアンコ東壁やラウンド劔よりきつかったです。
体力的には3倍きつくて、10倍精神的にきつかったです。
だって1週間以上の猛吹雪ですよ。
でも、玲が支えてくれました。
おまけにホワイトアウトで上下が分からなくなって、コケまくりましたよ。
ただの雪なら良いですけど、パウダースノーでコケるとザックも重いから中々起き上がれなくて、下はフワフワの雪だし。。。。。。
もがくとドンドン深みに嵌るし、最悪だったのは、4m位の穴に落ちた感じになって。。。
蟻地獄の様に抜け出せ無くなって、3時間位格闘したんですよ。
たった4mですよ。
充分にトレーニングしたのに。。。
そしたら涙が出て来て、「玲、助けて」って叫んじゃってて。
そんな事は初めてでした。
そうしたら、玲を愛しているとか、そんな事では無くて、玲が一部になっているんです。
玲が自分の事になっているんです。
玲が俺で、俺が玲なんです。
苦しくなると『れーい』って叫んだら、泣けてきちゃって。。。。。
そしたら、玲も叫んでいるんです。
それでも足りずに、号泣しちゃって、なんで俺はこんな所にいるんだって。。。。。
情けなくて、ちっぽけで、どこまでも果てしなく、ちっぽけで。。。。。
それなのに玲は偉大で、大きくて、暖かくて。。。。。。玲を感じたら力が湧きました。
こんな事がありました。
立派な雪洞が掘れて、外は凄いブリザードで、猛吹雪の中で。。。。。
その雪洞は、エゾウサギに掘り方を教えて貰ったんですが。。。。。
で、雪洞の中は快適で、紅茶を作ったんです。
気力も体力も充実していました。
精神的にも安定していたのに。。。。。
今、思い返しても、妄想だったのか、幻想だったのか分かりませんが。。。。。
玲と一緒に居て、紅茶を一緒に飲んでいるんです。
玲が『この紅茶、不味い。何これ???』って怒りながら、吐き出すんです。。。。。
俺は『なんで???上手いじゃん!!!』って言って、全部飲んだんです。
飲んだ後に、急に不味さが襲って来て。。。。。吐きそうになったんです。
砂糖と塩を間違えてたんです。不味いはずですよね。。。。あははは。。。。
そしたら玲が、『ちゃんと作れ!!!』って怒るんです。
でも、あれは、きっと、限界だったんでしょうね。。。。。
それで、猛吹雪の中、思う様に行かなくて、落ち込で、落ち込んで、どうすれば良いか分からなくて。。。。。
また、玲に泣き付いたら、『さっさと歩け!!!』って玲が言うんです。
絶望感の中で、「玲に会いに行くぞ」って小さく声に出したら。。。。。。
少しずつ、勇気が湧いて来て、それが掛け声になって、ずっと玲の名前ばかり叫んで進みました。
泣きながら、進みました。
ずっと玲と話をしながら進みました。
そしたらガンガン、スピードアップしたんです。
雪の量も、吹雪も、風も変わらないのにスピードアップしました。
それからは、ずっと玲と一緒でした。
マイナス30℃なのに、暖かくて、寒くなくて。。。。
だから、知床は玲と一緒に登ったんです。
で、下りたら玲に会う為に、直ぐに東京に向かうつもりだったんですけど。。。。。
街を見たら全身の力が抜けちゃって、寒くて。。。。。
街中から玲に電話したら会議中だったから。。。。。。
温泉に入って、温まって、電話しようと。。。。。。
でも、何回も温泉に入ったのに、寒くて体の震えが止まらないんです。
湯舟に入っていても、ブルブル震えて、震えて、止まらないんです。
そうしたら悲しくなって、風呂の中で一人で泣きました。
玲を一人にして、俺は何をやってるんだって、頭にきて。。。
結構、熱いお湯だったんですけど、寒かったんです。
宿の中は暖かかったのに。。。
で、また、泣いちゃって。。。。
夜、玲と話したら口が回らなくて。。。。。
無事に下りられて、嬉しいはずなのに。。。。
玲の声を聞いたら、悲しくなって。。。。。
玲を一人きりにした自分が情けなくて。。。。。
玲の寂しさを感じて、もうこんな事はしたくないって思って。。。。
玲の側に居たいって思ったんです。
本当に、玲の寂しさを感じたんです。
本当に、玲の臆病さや不安や寂しさや悲しさを感じたんです。
同時に、玲の暖かさや優しさを感じたんです。
玲の全部の感情が俺の中にドバって入って来たんです。
玲が俺の中に居るんです』
あの実感は、何だったんだろう?
あんな実感は、あれから一度も味わった事が無い。