ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

前回まで、

遠藤周作さんが語る

イエスの思想を、

私の解釈も交えて、

紹介してきました。

 

今回からは、

ブッダ伝 生涯と思想

 

 

という本の内容を元にしつつ、

私なりにブッダの思想に

迫ってみたいと思います(^^)

 

著者は、

仏教思想の第一人者、

有名な中村元先生です。

 

この本は、

やや専門的ではありますが、

「NHKこころの時代」

のテキストをもとにしているようで、

文章は平易、読みやすいです。

 

簡単に、

ブッダ(お釈迦様)の生い立ちから、

なぞっていきますね。

 

ご存知の方も多いと思いますが、

ブッダは、紀元前5世紀ごろ、

(イエス誕生よりも500年も前なんですね)

インド北部(今のネパール南部)

のシャカ族の王子として生まれました。

 

29歳の時、

城を捨てて出家され、

6年間の苦行のあと、

瞑想により「さとり」をひらかれます。

 

その「さとり」の内容を、

北インドを中心に、80歳でなくなるまで、

説法して歩かれました。

 

まず思うのが、

「なぜブッダは出家したのか?」

 

なぜ、王子としての裕福な生活を捨ててまで、

出家をしたのか。

 

「四門出遊」の逸話が、

紹介されています。

 

ずっと宮殿の中で生活していたブッダが、

門から出て外の世界を垣間見ることで、

 

「人は、老、病、死の苦しみから

逃れられない」

 

ということに気づいてしまったんですね。

 

当時、上流階級が、

家から出て修行者になることは

一般的だったようですが、

それにしても、

家族を捨ててまでして出家する理由は、

何だったのか?

 

別の本になりますが、

興味深い説があります。

 

岡田尊司さんの

愛着障害 子ども時代を引きずる人々

 

 

から引用します。

 

 

釈迦の母親は、

彼を生んだ直後に亡くなった。

 

(中略)

 

自分の出自が、

その出発点から、

母親の命と引き換えに

与えられたものであり、

そのことに

罪の意識を感じていたに

違いない。

 

釈迦は、

自我に目覚め、

自らの出自について考える

青年のころから、

物思いに耽るようになる。

 

その憂いを

晴らすことができればと、

王である父親は

釈迦に妻を娶らせ、

子どももできるが、

釈迦の心の沈鬱を

取り去ることはできなかった。

 

釈迦はついに出家して、

王子の位も、妻子も捨てて、

放浪の旅に出てしまうのである。

 

その根底には、

母親というものに抱かれ、

その乳を吸うこともなく、

母親との愛着の絆を

結ぶこともなく、

常に生きることに

違和感を覚えながら

育ったことがあったに違いない。

 

それは、

愛着障害に他ならない。

 

 

なるほど・・・

 

私はなぜブッダが出家したのか、

ずっと疑問だったのですが、

たしかに、

母親がすぐに亡くなったことによる

「愛着障害」も

その要因だったのかも

しれません。

 

ちなみに、この本

愛着障害 子ども時代を引きずる人々

には、

夏目漱石や、クリントン元大統領、

スティーブ・ジョブスなどの偉人も、

愛着障害であり、

それを克服したと紹介されています。

 

愛着障害を克服した人は、

特有のオーラや輝きを放つと

述べられています。

 

そう考えると、

ブッダも、

愛着障害だったからこそ、

それを克服することによって

光り輝き、

人類に多大なる貢献をする存在に

なられたのかもしれませんね。

 

 

ブッダは出家して、

修行に励むことになるのですが、

当初は、苦行林で、

自ら進んで苦行をします。

 

断食や、直立不動、息を止める、

墓場で骸骨を敷いて寝る・・・

 

体に苔が生えていた

といいますから、

想像を絶する苦行ですね(^^;

 

ガリガリに痩せた苦行釈迦像を、

皆さまも一度はご覧になったことが

あると思います。

 

しかし、

このような苦行にもかかわらず、

悟りに到達することは

できませんでした。

 

苦行をやめ、

村の少女スジャータ

(コーヒーフレッシュのスジャータは

ここからきているんですね)

から乳がゆをもらい、

生気を取り戻したブッダは、

菩提樹の下で、

瞑想を始めます。

 

悪魔の誘惑を払いのけ、

7日間の瞑想ののち、

そこで、ついに、

悟りの境地に至ります。

 

その教えが、

四諦

中道

八正道

となるのですね。

 

私はまだまだ浅学の身ですが、

仏教は、

学べば学ぶほど、

本当に、人間の心のありようを

正確に分析されていると感じます。

 

その中で、

今回は、

四諦

の中の「苦諦」

にフォーカスしていきます。

 

苦諦とは、

生きることは苦しみである

ということ。

 

一切皆苦などともいいますが、

この「苦」とは、

肉体的、精神的な苦痛という

意味だけでなく、

 

「思うとおりにならないこと」

 

だといいます。

 

 

この「苦しみ」

ということばは、

インド人の概念では、

「うまくいかぬ」

「・・・しがたい」

「・・・するのが難しい」

という意味で、

それが名詞になると

「思うとおりにならないこと」、

つまり、

「苦しみ」「悩み」

をあらわす

「ドゥクハー」

ということばになります。

 

それが

「漢訳仏典」で

苦と表現されました。

 

 

では、

何が、思うとおりにならないのか?

 

 

生も苦しみである。

老も苦しみである。

病も苦しみである。

死も苦しみである。

 

愛さない者と会うことも

苦しみである。

 

愛する者と別離することも

苦しみである。

 

すべて欲するものを

得ないことも

苦しみである。

 

(律蔵)

 

 

この「生」「老」「病」「死」が四苦。

 

ここから四苦八苦という言葉が

生まれるんですね。

 

「生」「老」「病」「死」

 

たしかに、

医学の力によって、

多少はコントロールできるようには

なりましたが、

これらは、基本的には、

思い通りにはなりません。

 

少なくとも、

皆、必ず死を迎えることは、

厳然たる事実です。

 

どんな権力者も、

死を避けることはできません。

 

秦の始皇帝が、

不老不死の妙薬を求めたといわれますが、

その思いは叶わないわけです。

 

もちろん、

他人(人間関係)も、

こちらの思い通りには

なりませんよね(^^;

 

まずは、これらの現実を、

しっかり見つめよと、

ブッダは述べています(^^;

 

このように、

人生は、基本的に

思い通りにならないものなのに、

私たちは、それに対して、

悩み、苦しみます。

 

なぜか?

 

 

一つは、

この世のすべてのものが

移り変わる無常なもの

であるのに、

いつまでも

常住であってほしいと願う

執着の心からです。

 

もう一つは、

我々が

いろいろな欲望を

持っているから

苦しみ悩むのです。

 

 

すべては移り変わるのに

つい、執着してしまう。

 

もっともっとと、

つい、むさぼってしまう。

 

したがって、

 

「無常」

(すべてのものが移り変わる)

ということを受け入れて、

「執着」をしない。

 

際限のない「欲」を捨てる。

 

ことが必要になるといいます。

 

有名な、

「犀(サイ)の角のようにただ独り歩め」

(スッタニパータ)

という言葉も紹介されています。

 

 

ただ・・・

 

そうはいっても、

現実世界では、

「執着」を捨てるのはともかく、

「欲」じたいを捨てるのは、

なかなか難しですよね(^^;

 

欲は、向上心につながることも

ありますし・・・

 

では、

「人生は、思い通りにならないもの」

ということを、

どう受け止めればいいのか?

 

別の本になりますが、

(仏教からはちょっと離れます)

 

[完全版] 生きがいの創造

 

(写真は新版です。

今は、リンクを張った完全版が

文庫ででています)

 

という本に、

とても有益な考え方が、

述べられています。

 

「人生は、思い通りにならないからこそ

価値がある」

 

という考え方です。

 

えっ・・・?

「ならないからこそ」?

 

「思い通りになればなるほど価値がある」

ではないのか?

 

いや、

「ならないからこそ価値がある」

というのです(^^;

 

 

乗りかかった船ですので、

次回は、

ブッダの教えから、いったん脱線して

 

飯田史彦さんの、

[完全版] 生きがいの創造

から、

 

「人生は、思い通りにならないからこそ

価値がある」

 

という考え方とはどういうことかを、

紹介・解説していきますね(^^)
 
この本、
私が20代の頃読んで、
(まだ完全版ではない初版本でしたが)
人生観が変わるほどの衝撃を受けた本です!

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

あれっ、

この本の紹介、

前回で最終回だったはずですが・・・

 

何か、大切なことを

いい忘れたような気がしてきまして(笑)

 

性懲りもなく?

続けさせていただきます(^^;

 

私のイエス―日本人のための聖書入門

 

からの引用です。

 

作者の遠藤周作さんは、

ひじょうに重い病気にかかりまして、

3度も手術をされた経験があります。

 

その時・・・

 

少し長くなりそうですが、

引用させていただきます。

 

 

私はわがままな男なので、

手術後、

手術室から運ばれて

間もなく、

痛みのために、

さかんに、

 

「麻酔薬を打ってくれ。

麻酔薬を打ってくれ」

 

と叫びました。

 

しかし、

麻酔薬というのは

あまり打ち過ぎると、

モルヒネならモルヒネの

中毒にになるため、

医者はなかなか

打ってくれないものなのです。

 

 

これ、

私も経験があるので、

よくわかります(^^;

 

30代前半のころ、

膵炎で2回ほど入院したのですが、

痛み止めの注射って、

一定の間隔をあけないと、

打ってくれないんですね。

 

私も、弱い男なので、

痛みに耐えかね、

何度も、ナースコールのボタンを

押しました。

 

が、だめなんです・・・

 

 

その時、

看護婦さんが

私の手をじっと握って、

ベットの横に

すわってくれたのです。

 

すると、

あなたは信じられないかも

しれませんが、

痛みが少しずつ

鎮まってきたのです。

 

 

あとになって、

私はこの理由を

考えてみました。

 

そして、

ある一つのことが

わかったのです。

 

それは、

人間の苦痛というものには、

かならず

孤独感というものが

つきまとっていると

いうことです。

 

卑近な話をすれば、

もし、あなたが

歯が痛くて

眠れなかった夜が

あったとすれば、

その夜を思い出してください。

 

歯が痛かった夜

というのは、

全世界の中で

自分だけが歯が痛い、

と思って苦しむのです。

 

全世界の中で

歯が痛い人間は

ごまんといるにもかかわらず、

歯の痛い人間というのは、

自分だけが

歯痛に苦しんでいる、

と思います。

 

それと同じように、

ある不幸な目に遭った人は、

かならずひとりぼっちで

それを悩んでいる、

と思いつめているのです。

 

これは、

精神的な苦痛だけでなく、

肉体的な苦痛の場合でも

同じことです。

 

だから、

その肉体的な苦痛の場合、

誰かがじっと手を握って

側にいてくれれば、

苦しみの50%を占めている

孤独感は消えるのです。

 

ということは、

苦痛の中に占める

精神的な苦痛の部分である

孤独感がなくなり、

肉体的な苦痛だけになり、

痛みは半減してしまうことに

なるのです。

 

だから、

手を握ってもらえば、

人間の痛みは

だんだん鎮まっていくのです。

 

私は体験を通じて、

このことがわかりました。

 

(中略)

 

イエスは、

病に苦しんだり、

悲しみに打ち沈んだ

人々の横にいて、

つねに手を握ったわけです。

 

そして、

その行為こそ、

奇跡物語の

本質的な問題があったのです。

 

私は、

イエスが

病人を治したというような

奇跡物語を、

イエスが

肉体的な苦痛を治した

ということよりも、

それに伴う

人間の孤独感というものを

分かち合おうとしたこと、

 

そこに大切な問題が

あるのだと思って

読むことにしています。

 

私がそういうふうに

読むようになったのは、

私の病気の体験以後の

ことでした。

 

そして、

その日からの奇跡物語も、

私にとってはひじょうに

意味のあるものに

なったのです。

 

 

「人間の苦痛というものには、

かならず、孤独感というものがつきまとう」

 

これ、実感として、

分かります。

 

私は、孤独は嫌いではなく、

一人になれると、

ほっとすることも多いのですが(^^;

 

でも、それって、

実際に孤独ではないからなんですね。

 

若い頃、何度か

見知らぬ土地に一人旅をしましたが、

何日かすると、

寂しくなって、帰りたくなったものです。

 

帰れるところがあるから、

しばらく一人になってみたかった

だけなのです(笑)

 

「人はなくしてから、大切なものに気づく」

 

といいますが、

その通りだと思います。

 

身近な人たち、

家族、友人、職場の仲間、健康・・・

 

あるのがあたりまえではない。

 

入院した時、

いろんな人がお見舞いに来てくれて、

どんなに孤独感が和らいだことか・・・

 

いま、あるもの、

大切にしたいです😊

 

 

でも、

人間、図らずも、

孤独に陥ってしまうことがあります。

 

たとえば、

仕事を失う、家族の確執、

大切な人から裏切られる、

失恋、災害、不慮の事故・・・

 

病気や心の苦しみは、

身近な家族にだって、

(身近だからこそ)

理解してもらえないこともあります。

 

イエスは、

そんな人たちの手を握って、

ただただ、寄り添ったんですね。

 

ひたすら、人間の孤独感を、

分かち合おうとした。

 

超常現象のような奇跡は、

起こさなかったのかもしれません。

 

ただ、それこそが、

 

人間の孤独に、

寄り添い続けたことこそが、

 

ほんとうの

「奇跡」

 

だと思います。

 

 

幼い頃、

熱があるとき、

母親が、そっと額に手を当ててくれると、

少し楽になった・・・

 

そんなことを、

ふと思い出しました。

 

 

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遠藤周作さんのイエス像。

つまり、

人々の孤独に寄り添う、

同伴者としてのイエス像。

 

あまり、自覚はしていなかったのですが、

若い頃、

遠藤周作さんの本を読んで以来、

その姿が、

ずっと私の心の中に、存在しています。

 

それが、

私が、カウンセラー(メンタルコーチ)

の資格を取ることに、繋がったのか。

 

病気をしたことも・・・

 

これが、ユングがいった、

「コンステレーション」(布置)

なのかと、

今、このブログを書いていて、

感じています。

 

 

今回も、最後までお読みくださいまして、

有り難うございました(^^)

 

次回こそは、

別の本を紹介します(^^;

 

(紹介したい本はたくさんありますが、

なかなか書く余力が・・・とほほ(^^;)

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

3回にわたって、

遠藤周作さんの、

私のイエス―日本人のための聖書入門

 

 

から、

私の印象に残っているところを、

紹介・解説しています(^^)

 

前回を要約して、振り返ります。

 

前回は、

 

十字架にかけられたイエスですが、

裏切った弟子たちを、

恨むどころか、

 

 

「主よ、

彼等を許したまえ。

 

彼等は

そのなせることを

知らざればなり・・・・・」

 

 

と、彼らの救いを神に祈った。

いわば、究極の「愛」を示した。

 

それ自体が、

人間のなせる業ではない。

 

すなわち、それが、

「奇跡」である。

 

そして、

彼等は、

イエスの「愛」が、

イエスの死後も、

彼らの心の中に

生き続けていることに気づいた。

 

それが、

「復活」である。

 

そして、

「罪深き自分たちでさえ、愛される」

すなわち、

「自分たちは、無条件に愛されている」

 

ということが、

実感できた弟子たちは、

 

「弱き人」

から

「強き人」

に変貌した。

 

ということを、

述べました。

 

このように、

イエスが十字架に

かけられたことで、

弟子たちの心の中に、

いわゆる、

「奇跡」や「復活」

が生じたのですが、

 

ただ、

2000年近くも前の

出来事ですので、

いまいち、ピーンとこない方も

いらっしゃると思います。

 

まるで、ファンタジー、

神話の世界のようだと。

 

しかし、

このような

「奇跡」や「復活」は、

ほんの70年前にも、

実際に起きているんです。

 

本書にも紹介されている、

コルベ神父

の身代わりの死です。

 

コルベ神父

の生きざまについては、

遠藤周作さんの、

女の一生 二部・サチ子の場合

 

 

という小説に、詳しく述べられています。

 

私の過去ブログでも、

紹介、解説させていただきました。

 

よかったらご覧ください(^^)

 

 

 

で、

コルベ神父

は、戦前の日本の長崎にも

いらっしゃったんですね。

 

しかし、

資金集めのために、

ポーランドに帰国した際に、

ナチスに捕まり、

アウシュビッツ強制収容所に

送られてしまいます。

 

その強制収容所での出来事・・・

 

何人かの囚人が脱走するが、

捕まってしまいます。

 

脱走者は、

「飢餓死」という刑で

処刑されることに

なっています。

 

一人の若者が泣きはじめます。

 

「私には妻子がいる」

「まだ死にたくない」

 

と・・・

 

その時、

コルベ神父が、よろよろと歩み出て、

こう言ったのです。

 

 

「じつは、

私はカトリックの神父です。

 

ですから、

私には妻も子どももいません。

 

私が死んでも、

直接、

悲しむ人がいません。

 

しかし、

ここで泣いている男には

妻もおります。

 

だから、

この人を助けて、

私を飢餓室に放り込んで

くれませんか」

 

 

・・・これは、実話です。

 

もちろん、

何か「奇跡的な出来事」

たとえば、

天変地異が起こって、

コルベ神父が奇跡的に助かった

ということはありませんでした。

 

(最期は、ナチスの親衛隊に、

石炭酸を注射されて亡くなりました)

 

そういった、いわば、

神が奇跡を起こすということは

ありませんでしたが、

イエスが十字架で、

弟子たちの身代わりとなって

死んでいったように、

コルベ神父も、

一人の若者の身代わりとなって

死んでいった・・・

 

これこそが、

まさに、

「奇跡」

 

そして、

イエスがコルベ神父の中に、

「復活」した。

 

のだと思います。

 

ちなみに、

この時、助けられた若者は、

この後も生き延びて、

戦後、世界各地を回って、

コルベ神父の「奇跡」を

語り継いだそうです。

 

本書では、

精神科医・心理学者である

フランクル博士

の有名な、

夜と霧

(ドイツ強制収容所の体験記録)

 

 

にも触れられています。

 

そこでは、

コルベ神父のような、

聖職者でなく、

おそらく、ふつうの人

(遠藤周作さんは、

八百屋さん?といっています)

が、

瀕死の病人の枕元に、

そっとパンを置いていった逸話が

紹介されています。

 

(これは、フランクルが

実際に目撃した事実です)

 

収容所での、

一日一個のパン。

 

それを食べなければ、

自分が栄養失調で倒れるかもしれない

極限状態。

 

それでも、

病人に、

そっとパンを置いていった人がいたのは

事実なんですね。

 

これを読むと、

本当に、人間は、

捨てたもんじゃないと痛感します。

 

遠藤周作さんは、

「自分なら、むしろ、

病人のパンを盗んでいた」

と自虐的に書かれていますが、

 

もちろん、私も、

その場にいたら、

そうしていただろうと思います(^^;

 

極限状態のサバイバル。

 

そうしなければ、

明日、倒れるのは

自分かもしれないのですから・・・

 

しかし、

実際に、

病人にパンを残していった人がいる。

 

しかも、

名も知れないふつうの人が・・・

 

そう考えると、

昔から、いや今この瞬間でも、

この世には、一定数、

隠れた聖者がいるのかな、

とも思います。

 

人知れず、

慎ましく暮らしているけれど、

見えないところで、

ささやかな「愛」の行為を行っている。

 

そのおかげで、

この世界は、

さまざまな理不尽や、

不幸があるにしても、

総じて健全に機能している・・・

 

イエスの「愛」は、

今でも、

いろいろな人に

「復活」しているのだと思います。

 

ちなみに、

さきほどの過去ブログですが、

女の一生 二部・サチ子の場合

から、

コルベ神父(すなわちイエス)の愛が、

ある男に「転生・復活」するのを

ドラマティックに描いている場面を

引用しています。

 

この場面、心打たれますよ!

 

よかったらご覧くださいね(^^)

 

 

なかなか自覚はできないのですが、

私の中にも、

イエスの「愛」が眠っていて、

「復活」するのを待っているのかも・・・

 

と思うと、

ちょっぴり勇気が湧いてきます(^^;

 

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以上、3回にわたって

紹介・解説させていただいた、

遠藤周作さんの、

私のイエス―日本人のための聖書入門

 

遠藤周作さんが、

イエスについて、平易な言葉で、

とても分かりやすく

解説してくださいっています。

 

文庫本で安いですし、おすすめします!

 

今回も、最後までお読みくださいまして、

有り難うございました。

 

次回は別の本を紹介します(^^;

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

前回のブログから、

遠藤周作さんの、

 

私のイエス―日本人のための聖書入門

 

 

の中で、

私が特に印象深いところを、

紹介・解説しています(^^)

 

ちなみに、

私はキリスト教の信者

というわけではなく、

遠藤周作さんの語るイエス・キリスト像に、

個人的に共感するために、

このブログで紹介をしております。

 

(解釈がおかしいところも

あるかもしれませんが、

ご容赦くださいね(^^;)

 

前回、

十二使徒をはじめとした

イエスの弟子たちは、

少なくとも、

イエスが生きている間は

聖人ではなかった、

 

ということを述べました。

 

 

彼らは

われわれと同じように、

いい話を聞こうという気持ちは

多少あっても、

信念もなく、

肉体的な恐怖のためには、

自分が尊敬している人も

犠牲にするような

卑怯な性格があり、

そのくせ自惚れと

世俗的野心だけが強いという、

平均的な人間だったわけです。

 

つまり、

聖書の中に出てくる

弟子たちというのは、

私であり、

また皆さんである、

と考えていいのです。

 

 

弟子たちが、

私たちであるというのは、

ちょっと畏れ多い気もしますが(^^;

 

でも、

私たちと同じような、

「弱さ」

をかかえた人間だったんですね。

 

だから、

自分たちが助かるためには、

逮捕されたイエスを見捨て、

さらに、

イエスを否認までしたのです。

 

そんな

「弱虫」だった弟子たちが、

イエスの死後、

「強虫」に変貌する。

 

信念を貫き、

殉教するまでに強くなった。

 

何故か?

 

「かなり大胆な私の推測」

と遠藤周作さんは述べていますが、

私は、とても腑に落ちたので、

ここに紹介・解説していきたいと思います!

 

 

イエスは、

弟子たちの命と引き換えに

処刑されたのであり、

イエスは、

弟子たちが生きるための

生贄の仔羊となったのだと

私は考えます。

 

 

イエスを裏切って、

自分たちは生き延びた弟子たち。

 

その弟子たちの心理を

推察すると・・・

 

やっぱり強烈な

「負い目」を感じたと思います。

 

 

おそらく

屈辱感もあるでしょう。

自己慚愧もあるでしょう。

自己軽蔑もあるでしょう。

 

そのくせ、

「仕方がなかったのだ」

という自己弁解 ―

 

これは、

われわれのような弱者が

生き続けるために味わう

感情ですが、

こうしたすべての感情を、

これらの弟子たちは

(イエスが十字架で死ぬ)

三十数時間、

噛みしめたわけです。

 

 

長い長い

三十数時間だったと思います・・・

 

そして、当然、

イエスは、弟子たちを恨んでいるものと

考えました。

 

 

あれほど、

自分たちが

一緒に従いていたイエスを、

自分たちは今、

裏切った。

 

それならば、

イエスは自分たちを憎み、

怒りながら

死んだのであろう。

 

と彼らのすべては

想像していました。

 

いかなる英雄も、

自分を裏切ったものを、

歴史上、

許していません。

 

 

つまり、

弟子たちが最も恐れたことは、

十字架でのイエスの怒りであり、

呪いだった。

 

弟子たちに対して、

イエスは、

神の罰を求めたのではないかと。

 

そう考えるのも、

当然です。

 

イエスは、

いってみれば、弟子たちに、

ハメられたわけですから。

 

 

だから、

イエスが十字架上で

何を言うか―

 

これを弟子たちは、

ただならぬ恐怖と後悔とで

待っていたはずです。

 

 

弟子たちは、

それはそれは、

気が気でなかったと思います。

 

 

イエスは、

最後に何を語るのだろうか?

 

どんな呪いの言葉を、

吐くのだろうか・・・

 

 

しかし、

イエスが十字架上で、

最後に実際に語った言葉は、

予想外のものでした。

 

 

「主よ、

彼等を許したまえ。

 

彼等は

そのなせることを

知らざればなり・・・・・」

 

 

なんと!

 

驚くべきことに、

イエスは怒りの言葉どころか、

愛を示した。

 

弟子たちの救いを、

神に祈ったのですね。

 

これは、

単なる物語(フィクション)だとすると、

さらっとした単なる美談になりますが、

おそらく、これは事実(ノンフィクション)。

 

現実にあったことなのです。

 

もしも、仮に、

私が、無実の罪で十字架にかけられたら、

こんなことは絶対に言えないと

断言できます(^^;

 

最後まで悪あがきをする、

そして、

恨みつらみを吐き出して、

死んでいくでしょう。

 

いや、

私だけでなく、

多くのふつうの人間なら、

そうだと思います。

 

ところが、

イエスは違いました。

 

自分を裏切った弟子たちに対して、

少しも憎しみの感情を持たなかった。

 

むしろ、

彼らを許してやってくれと言った。

 

この場面では、

イエスが、

超常現象的な奇跡を示したわけでは

ありませんでしたが、

(むしろ、無力に死んでいきましたが)

 

これこそが、

 

「奇跡」

 

であると、

遠藤周作さんは述べています。

 

私も、強く共感します。

 

 

自分たちの

卑劣な裏切りに

怒りや恨みを持たず、

逆に愛をもって

それに応えることは、

人間にできることでは

ありません。

 

少なくとも、

弟子たちは

自分の今日までの

人生の中で、

そのような人を見たことは

ありませんでした。

 

今日までの人生でなく、

ユダヤの歴史に出現した

王や予言者にも、

そのような人は一度も

出現しなかった。

 

その驚きは

弟子たちに烈しかった。

そして彼らは、

イエスがまだ、

自分たちのそばに

いるがごとき感じがした。

 

子どもにとって、

失った母が、

その死後も、

いつも横にいる気持ちと

同じような心理に

なったわけです。

 

それが、

イエスの復活の

はじまりだったのです。

 

 

弟子たちは、

イエスの死後、

はじめて、

イエスの「愛」の真意に気づいた。

 

そして、

そのイエスの「愛」が、

彼らの心の中に

生き続けていることに気づいた。

 

つまり、

イエスは、常に一緒にいる、

すなわち、

「同伴」してくれていると。

 

これが、

遠藤周作さんが考える、

 

「復活」

 

なんですね(^^)

 

ここで、このブログの冒頭の、

「弱き」弟子たちが、

イエスの死後、

何故、「強く」なったのか?

 

という答えを、

私なりの解釈も交えて述べますが、

 

弟子たちは、

究極の「愛」を

感じることができたからではないか、

 

と考えます。

 

卑怯で、ずるくて、弱き自分たち。

大切な人でさえ裏切った、

罪深き自分たち。

 

そんな自分たちでも、

許されるんだ、

愛されるんだ・・・

 

ということが、

イエスの最後の言動を通じて、

身に染みて感じられたからではないか

 

と思います。

 

「自分は、無条件に愛されている」

ということが体感でき、

「怖れ」がなくなったのでは

ないかと。

 

そう感じられる人は、

強いと思います・・・

 

 

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私たちは、

ここまで、人生観が180度変わるような、

劇的な体験は、なかなかないと思いますが、

ただ、

小さいながらも、感じることはあります。

 

他人のふとした言動から、

あるいは、

本や映画を通じて。

 

たとえば、

小説や映画で有名な、

レ・ミゼラブル

 

銀の食器を盗んだ

ジャン・バルジャンに対して、

司教が、それを許し、

さらに、銀の燭台を差し出した場面・・・

 

それによって、

ジャン・バルジャンは改心して、

強き人間になる・・・

 

これは、

イエスの愛、

奇跡、復活を描いているのだと思います。

 

 

「カウンセリング」

を受けることも、

ある意味、そうだと思います。

 

限られた枠の中ではありますが、

受容的、共感的なカウンセリングでは、

その中で、

「自分は、無条件に愛されている」

と感じることができますので(^^)

 

私は、ささやかですが、

クライアントに、

「無条件に愛されている」

と少しでも感じてもらえるような、

カウンセラーになりたいと考えています。

 

(制約があって、

なかなか活動できていないのですが(^^;)

 

 

次回に続きますね。

(次回は、コルベ神父を紹介します)

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

皆さま、

GWはいかがお過ごしでしょうか。

 

私は、昔読んだ本を読み返したり、

新しい本を読んだり、

プライムで映画を観たり、

散策したり、オンライン飲み会をしたり・・・

 

と、おかげさまで、

自由気ままに過ごしております(^^)

(かみさん、有り難う!)

 

で、まとまった時間があるので、

昔読んだ本を、

気の向くまま読み返しつつ、

思索にふけっているのですが、

 

今回のブログから、

改めて、

 

「イエス」と「ブッダ」

 

の教えについて、

私なりに考えてみたいと思います。

 

ちなみに、

私は、

特定の宗教の信者ではないので、

信仰や学問というよりも、

知的好奇心や成長意欲から、

(自分の人生と照らし合わせながら)

キリスト教や仏教の本を

読むことが多いのですが、

月並みな言葉ですが、

改めて、

「深いなあ」

と感じています。

 

やはり、

2000年以上も語り継がれている思想は、

ホンモノだと思います(^^;

 

で、今回は、

遠藤周作さんの、

 

私のイエス―日本人のための聖書入門

 

 

という本から、

私の印象に残った箇所を

取り上げつつ、

私なりの解釈も

紹介していきたいと思います(^^;

 

遠藤周作さんの、

イエス・キリスト像は、

日本人にも親しみやすく、

私は、とても共鳴します。

 

母性的で、優しいんですね(^^)

 

(素人考えですが、

浄土真宗に似ているところがある

と思います)

 

特に、旧約聖書の場合は、

神の言うことをちゃんと聞かないと

罰せられるという、

(十戒ですね)

父性的でおっかないイメージがありますが、

それに対して、

遠藤周作さんの語るイエス・キリスト像は、

受容的、共感的で優しいです。

 

いわば、

ダメ息子を、いつでも、

どんなときでも受け入れてくれる、

優しいお母さんのようなイメージです。

(そんな母親は、実際、

なかなかいないとは思いますが(^^;)

 

そんなイエス・キリストは、

私から見ると、

偉大すぎて、

はるか彼方を仰ぎ見る存在なので(^^;

今回は、

親近感の湧く

「ダメ息子」たち、

すなわち、

イエスの愛を最後まで理解できず、

結果的に見捨てることになった

「弟子」たちに

フォーカスしていきたいと思います。

 

弟子と言えば、

最後の晩餐の十二使徒が有名ですが、

彼らとて、

イエスの真の理解者では

なかったといいます。

 

 

彼らは、

イエスが生きていた時、

イエスの愛の思想を理解して

その弟子であり続けた、

と考えるのは

間違いです。

 

(中略)

 

素朴であるゆえに純粋な、

ユダヤ教徒としての

正義感や個人的野心や

虚栄心が、

この弟子たちの心にあって、

あるいは

国家的な感情から、

彼らはイエスに付き従ったに

すぎないわけです。

 

彼らは、

生前のイエスの

真意というものを、

全然理解していたのでは

ありません。

 

その彼らは、

のちになって、

逮捕されたイエスを

見捨てただけでなく、

エルサレムの

主流派の人々に

助命を乞うて、

身の安全まではかりました。

 

そういう意味で、

弟子たちは、

われわれと同じように

俗人であり、

俗物であり、

弱虫だったのです。

 

 

弟子たちが

イエスに従っていた理由は、

極端に言えば、

「カリスマについていけば、

何かいいことがあるかも」

「自分の夢が叶えられるかも」

くらいの、

俗な動機だったんですね。

 

イエスを裏切ったのは、

ユダだけだというイメージがありますが、

実は、一番弟子のペテロを含めて、

結果的に、

全員裏切ったんです。

 

イエスが、逮捕された時・・・

 

 

弟子たちは恐怖に駆られ、

オリーブ林の中を

四散しました。

 

(中略)

 

二時間前には、

「師よ、私はあなたと共に

牢獄にも死にも

至る覚悟です」

と叫んだペテロも、

その他の弟子と同じように、

イエスを見捨てて

逃げたわけです。

 

 

その後、

(形だけの)裁判でも・・・

 

 

ペテロは

ほかの弟子たちの

代表者として、

この裁判を

イエスとともに受けたのです。

 

そして、

彼は司祭たちの前で、

イエスを否認することを

「烈(はげ)しく誓った」

のです。

 

イエスを否認することを、

烈しく誓ったために、

ユダヤ教の主流派と、

弟子グループとの妥協は

成立しました。

 

弟子たちの罪は

すべて不問に付され、

彼らはその後の追求を

免れえたのです。

 

いわばイエスは、

全員の罪を

いっさい背負わされる

生贄の子羊とさせられた

わけです。

 

 

「主はふりむいて

ペトロを見つめられた。

 

その時、ペテロは・・・・・

主の言葉を思い出し、

外に出て烈しく泣いた」

(ルカ伝)

 

 

否認しなければ、

自分たちも殺されるわけですから、

無理もない気がしますが・・・

 

ただ、自分たちの保身のために、

大切な人を裏切ったのは、

事実です。

 

キリシタン弾圧時代の

「踏み絵」を想起しますが、

「踏み絵」どころではありません。

 

イエス本人が、

目の前にいるのです。

 

たとえ、世俗的な動機であれ、

自分が信じた人を、

目の前で裏切った

ペテロをはじめとした、弟子たち。

 

ああ、自己嫌悪、

いかばかりかと・・・

 

 

このように、

自分の弱さから、

イエスを裏切った弟子たちですが、

イエスの死後は、

なぜか、

目が醒めたように変わります。

 

あらゆる迫害にも耐え、

信念を曲げることなく、

最終的には、ペテロをはじめ

多くの弟子は殉教しています。

 

いったんは、保身のため、

イエスを見捨てた彼らが、

 

私たちと同じように、

俗物で、卑怯で、小心者だった弟子たちが、

イエスの死後、

なぜ、殉教するほどまでに、

強くなったのか?

 

遠藤周作さん流に言えば、

なぜ、

「弱虫」から「強虫」に変貌したのか?

 

 

次回に続きますね(^^;

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊