ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

ロシアの文豪

トルストイさんの歴史的名著、

 

人生論

 

 

で、私の印象に残っている箇所を、

紹介、解説しています。

 

今回で、最終回です(^^;

 

今回は、

 

「死んだ人々の生命は

どうなるのか」

 

という箇所です。

 

引用します。

 

 

わたしの兄が死んだ。

 

たしかに、

マユはからっぽになって

しまったし、

これまで見てきたような

姿の兄を見ることはない。

 

だが、

わたしの目から

兄が消えうせたことも、

兄とわたしの関係を

消滅させはしなかった。

 

わたしには、

よく言うように、

兄の思い出が

残ったのである。

 

思い出が残ったと言っても、

兄の腕や顔や目の

思い出ではなく、

兄の精神的な面影の

思い出である。

 

 

そうですね。

 

故人の姿かたちも、

もちろん記憶に残りますが、

それよりも、

精神的な面影の方が、

長く印象に残る気がします。

 

 

そして

この思い出は、

わたしの親友や兄の生命が

理性の法則に

合致していればいるほど、

そしてまたその生命が

愛のうちに

あらわれたことが

多ければ多いほど、

ますます

生き生きとしたものになる。

 

 

なるほど・・・

 

ちなみに、私は、

自分が就職した年に、

父親を亡くしたのですが、

 

いわゆる、

「昭和のオヤジ」で、

あまり器用なタイプでは

なかったですが(^^;

 

たしかに、今は、

父親のことを思い出すと、

 

「父親は、父親なりに、

精一杯、

私のことを愛してくれたんだなあ」

 

と感じることが多いです。

 

うちは、決して裕福な家庭では

なかったはずですが、

そんなことは、

子供に感じさせないように、

振る舞っていました。

 

かなり年月がたったので、

美化しているところも

多分にあると思いますが(^^;

 

 

この思い出は

ただの観念ではなく、

何か私に作用するものである。

 

それも、

地上の生存の間を通じて

兄の生命が

わたしに作用していたのと、

まったく同じように

作用するのだ。

 

 

故人の思い出が、

今、私に「作用」する。

 

「作用する」

ということ。

 

実感として、

わかる気がします。

 

ということは、

故人の精神は、

実は私の中に、

生き続けているのかもしれません。

 

 

それだけではない、

この目に見えない、

死んだ兄の生命は、

わたしに作用を

及ぼすだけでなく、

わたしの中にまで

入り込んでくる。

 

兄の独自の生きた自我、

世界と兄の関係が、

世界と私の関係に

なってくる。

 

まるで世界に対する関係を

確立するにあたって、

兄が自分ののぼった階段に

わたしを引っ張りあげようと

してくれるかのようであり、

 

わたしの独自な

生きた自我にとって、

兄がわたしの目から

姿を隠したあとも、

なおわたしを引っ張りながら、

すでに到達した次の段階が、

いっそうはっきりしてくる。

 

 

私の中まで入り込んでくる・・・

 

私を引っ張りあげようとする・・・

 

これは、

親しかった故人だけではなく、

故人が書いた本を読んだり、

その人の生き様を知ることで、

感じることがあります。

 

まさに、この本もそうですが(^^;

 

この本にも述べられていますが、

偉人といわれる人、

中でも、やはり、

イエス・キリストを思い浮かべます。

 

 

キリストは

ずっと以前に死んだ。

 

彼の肉体的生存は

短かったし、

その肉体的な個我について

われわれははっきりした

観念を持っていない。

 

だが、

彼の理性と愛の生命の力、

すなわち、

ほかのだれのでもない、

世界と彼自身の関係は、

いまだに、

世界に対する彼の関係を

受け入れて、

それによって生きている

何万人もの人々に

作用しているのである。

 

 

キリスト教に限らず、

仏教にしても、ヒンズー教にしても、

長年の間、

多くの人々に「作用」し続けている

伝統的な宗教は、

やはり、何か、

本質的なものを

含んでいるのではないかと

いう気がします。

 

私は、特に、

遠藤周作さんの描く、

イエス・キリスト像というものが、

印象深いのですが、

その存在は、心の中で、

ずっと「作用」しています。

 

遠藤周作さんの作品に関しては、

私の過去ブログで

いろいろと紹介していますので、

よかったら、覗いてみてください(^^;

 

引用、続けます。

 

 

わたしの兄の死んだのが

昨日であろうと、

千年前であろうと、

 

その一時的な

肉体の生存の力の、

目に見える中心は

わたしの視界から消えてしまった

にもかかわらず、

 

その肉体的生存の間

ずっと作用していた

生命の力そのものは、

わたしや、何百人、

何千人、何百万人という

人々のうちに、

いっそう強く作用しつづけて

いるのである。

 

 

ここでいう

「生命の力」

とは、

すなわち、

「愛」のことだと思います。

 

 

私が、私の父から受け継いだ、

生命の力・・・

 

私が、遠藤周作さんから受け継いだ、

生命の力・・・

 

私が、トルストイさんから受け継いだ、

生命の力・・・

 

リレーしているんですね。

 

もしかしたら、

皆さまにも。。

 

 

 

-----------------------------------------------

 

 

 

以上、

4回にわたって、

ロシアの文豪、トルストイさんの名著、

 

人生論

 

 

を紹介、解説してきました。

 

内容的にはすごく深いので、

私の理解力、力量では、

なかなか本質が捉えられず、

うまく伝えられなかったかもしれません(^^;

 

本書は、

けっして平易な内容ではありませんが、

文章自体は、

それほど難解ではありませんので、

ご自身で、ご一読されることをオススメします。

 

何だか、少し、

精神的に高みに登れたような

感覚になりますよ(^^)

 

理屈っぽい文章に抵抗がある方は、

物語(民話)でも味わえます。

 

 

人はなんで生きるか 他四篇(民話集)

 

イワンのばか 他八篇(民話集)

 

短編で、平易な文章で書かれているので、

気軽に読めます(^^)

 

私は、

「ああ、心が汚れちまった・・・」

と感じる時、

たまに、読み返します。

 

ロシアの民衆の

素朴な愛を感じられますよ😊

 

過去ブログでも、少し取り上げました。

 

 

よかったら、ご覧ください(^^;

 

 

今回も、

最後までお読みくださいまして、

有り難うございました。

 

次回は、

別の本を紹介します。

 

 

 

-----------------------------------------------

 

 

 

 

 

ぼくも、リレーしてるのかな・・・💤

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

ロシアの文豪

トルストイさんの古典的名作、

人生論

 

 

から、私の印象に残った箇所を、

紹介・解説しています。

 

今回で3回目です(^^;

 

この本は、

「生命と幸福論」

的な色合いが濃い

「人生論」なのですが、

 

「愛」

 

に関しても、

かなり詳しく述べられています。

 

「愛」とは、

単なる「気分」によるものではなく、

理性(意志)によるものだと、

述べられているのですが、

 

では、

「気分」によるものとは、

どういったことなのでしょうか。

 

トルストイさんは、

それを「動物的個我」

という言葉で表しているのですが、

たとえば、

 

 

(中略)

 

一人の母親が

わが子の幸せのため、

別のひもじい子供から

母親の乳を奪って、

育児の首尾を案じて

思い悩むような感情となる。

 

父親が

わが子に

ひもじい思いをさせぬため、

心を鬼にして、

飢えている人たちから

最後の一片のパンを

奪い取る時の感情である。

 

女を愛した男が

その愛に苦しみ、

女を誘惑して、

女をも苦しませたり、

 

嫉妬のあまり

自分も女も

滅ぼしたりする時の

感情である。

 

 

う~ん、

 

後半の男はともかく、

前半の母親と、父親の行動は、

やむを得ないところも

あるような気がしますが(^^;

 

 

人々が

愛する祖国に対する侮辱に

耐えきれなくなり、

戦場を敵味方の死傷者で

うずめつくす時の感情である。

 

 

・・・この感情は、

たしかに、祖国愛、

というよりも、

「怖れ」

からくるものだと思います。

 

 

人は

自分の赤ん坊や、

友人や、妻や、

子供や、祖国などを、

 

よその子供や、

妻や、子供や、

祖国などよりも

好ましく思い、

その感情を愛と名づける。

 

 

う~ん、

自分に関係するものほど

大切に思うのが、

「人情」というものですが、

 

たしかに、

「愛」そのものでは

ないのかもしれない・・・

 

では、

こういう場合は、

どうなのでしょうか。

 

 

今、

わたしがいくらか

好意を持っている

飢えた老人がやってきて、

私の愛する子供たちの

夜食用にとってある

食物をねだるとする。

 

わたしとしては、

現在の

やや弱い愛の欲求と、

もっと強い

愛の未来の欲求とを、

どう秤にかけたら

いいのだろう?

 

 

う~ん、

迷いますが・・・

 

私は、子どもたちを、

すなわち、

「愛の未来の欲求」

を優先するかもしれません。

 

 

わたしの

ねだられている服を、

やがていつか

わたしの子供たちに

必要になるだろう

という理由で、

凍えた赤ん坊に

着せてやらなくともよいと

認めるなら、

・・・

 

 

う~ん、

これは迷います・・・

 

これは、

凍えた(他人の)赤ん坊に

着せてあげるかもしれない・・・

 

 

このように、

「愛」の優先順位って、

なかなか難しいですよね(^^;

 

もちろん、

その時、その時の状況で判断して、

最善だと思う選択を

していくしかないのですが、

 

それが果たして正解なのかは、

わからない。

 

(あとで、

後悔することもありそうです)

 

で、この本では、

答えといえるものが

掲示されています。

 

それはいったい?

 

 

将来の愛などというものは

ありえない。

 

愛はもっぱら

現在における活動である。

 

現在において

愛をあらわさぬ人は、

愛を持たないのである。

 

 

将来の愛などというものは、ない。

 

愛は、もっぱら、

現在における活動である。

 

なるほど・・・

 

優先順位をつけたり、

損得勘定で考えたり、

出し惜しみしたりせずに、

 

今、目の前の人にできる愛を、

とにかく、実践する。

 

それが、

「気分」による愛、

「動物的個我」による愛ではなく、

 

「理性」(意志)による愛、

「人間としての」愛だというのですね。

 

この思想は,

過去ブログ、

 

 

でも取り上げましたが、
トルストイさんの小説の中に
たびたび出てくるモチーフです。
 
この本の中の短編、
では、
主人公のセミョーンが、
怪しい裸の男を、
見て見ぬふりをして、
通り過ぎますが、
「良心」の声を聴いて、
引きかえすんですね。
 
この「良心」の声とは、
この人生論でいう、
「理性」(意志)による愛
のことだと考えますが、
 
「理性」(意志)による愛、
というよりも、
で紹介しましたが、
 

物乞いの老女から、

「25セントください」

と乞われる話があります。

 

そこで、述べられている、

考え方も、

 

「直感」や「良心の声」

を聞いたら、衝動に従い、

考える前に「行動」する。

 

ということです。

 

あれこれ考えずに、

衝動に従い、今、行動する。

 

そして、

与えることができれば、

それは、すなわち、

 

「私は持っている」

「私は豊かである」

 

ということの証明になるので、

ますます豊かになる。

 

ということなんですね。

 

まずは、

理性を使って、

「ありたい姿」

すなわち、

「私は豊かである」

と定義をする。

 

そのうえで、

「直感」や「良心の声」

を聞いたら、

あれこれ考えずに、

即座に行動する。

 

出し惜しみをせずに、

今、与える。

 

そして、

与えることのできる、

自分自身の「豊かさ」に、

感謝をする。

 

そうすれば、

ますます豊かになる・・・

 

すぐれた自己啓発書の

源流にもなっている、

考え方ですね。

 

もちろん、それには、

ちょっと勇気が必要ですし、

将来の備えも、

もちろん必要なので、

現実的な判断も生じるのですが、

 

出し惜しみせずに、

「今、与える」こと

 

出来る範囲で、

実践していきたいです(^^;

 

 

 

----------------------------------------------------

 

 

 

今回も、最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

次回も、

この本の紹介を続けます(^^;

 

 

 

 

----------------------------------------------------

 

 

 

 

 

 

 

最近の私のお気に入りスポット、

葉山の森戸神社先から

 

曇っていて、

富士山は見えませんでしたが、

 

黄金風景・・・

(勝手に撮らせていただきました(^^;)

 

・・・先のほうに、

鳥居が海に浮かんでいます⛩

 

 

太宰治さんの名作短編、

黄金風景

ここ↑クリックするとすぐ読めます。

(青空文庫さん、有り難うございます)

 

私の大好きな短編、

とってもあたたかい気持ちになれますよ😊

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

前回から、

ロシアの文豪

トルストイさんの古典的名作、

人生論

 

 
を紹介しています。
 
この本の中で、
私が、とても印象に残っている
箇所があるんです(^^;
 
少し要約すると・・・
 
人類は、何千年も前から、
ずっと望んでいることがあるが、
どんなに科学が進歩しても、
それを実現させることができない。
 
まだ未解決のままである。
 
その、
ずっと望んでいることとは・・・
 
「幸せになりたい」
ということ。
 
そのためには、
 
「他人が、私のことを、
何よりも愛してくれる」
ことが必要である。
 
しかし、
 
「他人は、皆、
自分自身のことを
何よりも愛している」
 
だから、
 
「人は、皆、
幸せになれない」
 
ということなんです。
 
たしかに、
これでは、
他人から愛されることは
難しいですよね。
 
皆、自分自身のことを、
何よりも愛しているわけですから(^^;
 
堂々巡りです。
 
プログラミングされた
AIロボットなら、
私を無条件に
愛してくれるかもしれませんが、
それは、ちょっと違うし・・・(^^;
 
 
しかし、
この謎解きは、
実は、
とうの昔に解決しているというのです。
 
しかも、
解決方法は、
いたって簡単だという・・・
 
どういうことなのでしょうか。
 
 
お前は、
みながお前のために
生きることを
望んでいるのか、
 
みんなが自分より
おまえを愛するように
なってもらいたいのか?
 
お前のその望みが
かなえられる状態は、
一つだけある。
 
 
一つだけある・・・?
 
ええっ、
 
それはいったい
どんな状態なのでしょうか?
 
 
 
それは、
あらゆる存在が
他人の幸福のために生き、
おのれ自身よりも
他の存在を愛するような
状態だ。
 
そういう場合にのみ、
お前も他のすべての存在も、
みなに愛されるようになるし、
お前もその一人として、
望み通りの幸福を
さずかることだろう。
 
お前にとって
幸福の可能なのは、
あらゆる存在が
自分よりも他を愛するように
なる時だけだとしたら、
 
お前も、
一個の生ある存在として、
自分自身よりも
他の存在を愛さなければ
ならない。
 
 
この条件のもとでのみ、
人間の幸福と生命は
可能となり、
 
この条件のもとでのみ、
人間の生命を
毒してきたものが消滅する。
 
存在同士の闘争も、
苦痛の切なさも、
死の恐怖も
消滅するのである。
 
 
・・・
 
いかがでしょうか。
 
「な~んだ、そんなことか」
 
と思われた方も
いらっしゃると思います(^^;
 
「そりゃあ、あたりまえじゃないか」
と。
 
しかし、
よくよく考えて見ると、
これは、コペルニクス的転回というか、
この世界のしくみの真実を突いた、
トルストイさんの
深遠なる思想だと思います。
 
繰り返します。
 
 
それは、
あらゆる存在が
他人の幸福のために生き、
おのれ自身よりも
他の存在を愛するような
状態だ。
 
そういう場合にのみ、
お前も他のすべての存在も、
みなに愛されるようになるし、
お前もその一人として、
望み通りの幸福を
さずかることだろう。

 

 
たしかに、
私も、他のすべての存在も、
皆から愛されるように
なるためには、
 
あらゆる存在が、
他人の幸福のために生き、
自分自身よりも、
他の存在を愛するようになれば、
 

それは実現するのです。

 
実際に、
 
今、この瞬間に、
全世界の人々が、
もれなく、
 
「いっせいの、せ~!」
 
で、他人の幸福のために生き、
自分自身よりも、
他の存在を愛すようにすれば、
 
たちどころに、
世界は平和になる。
 
争いは収まり、
すべての人類が幸福になる・・・
 
 
理論上は、です。
 
もちろん、
現実的には、難しい。
 
まず、必ず、
抜け駆けする輩が出てきそうです(^^;
 
「私くらいは、いいかも」
と相変わらず、
自分のエゴ第一で生きる。
(・・・私のこと?)
 
そうすると、
「あいつだけずるい!」
ということになり、
どんどん崩れてしまう(^^;
 
それに、
(発達)心理学の観点から考えても、
無理があります。
 
人は、程度の差こそあれ、
(ネガティブなところや
抑圧している影の部分も含めた)
ありのままの自分自身を、
ある程度、
愛することができるようにならないと、
他人のことを、ほんとうの意味で
愛することはできません。
 
では、この世界、
ありのままの自分を愛せている人が、
はたして、どれくらいいるのか。
(私も、まだまだ不完全です・・・)
 
その状態で、
無理して、すべての他人を愛そうとしても、
ほころびが出てしまう。
 
やはり、
自分を愛せない人は、
他人を愛せない。
 
まずは、
ありのままの自分を
ある程度は、
愛せるようになることが、
先決なのではないか・・・
 
 
そう考えると、
トルストイのこの思想は、
今の人類のレベルでは、
実現するのはかなり難しい。
 
少なくとも、
(根拠はありませんが)
あと、数百年くらいは、
難しいのではないかという気もします。
 
 
・・・しかし、
 
理論上は、可能なのです。
 
仮に、人類すべてが、
本気で腹をくくって、
今、この瞬間に、
 
「いっせいの、せ~!」
 
で、他人の幸福のために生き、
自分自身よりも、
他の存在を愛すように心がけるだけで、
 
少なくとも、
世界は平和に近づく。
 
争いは収まり、
すべての人類が幸福に近づくのです。
 
 
引用、繰り返します。
 
 
お前にとって
幸福の可能なのは、
あらゆる存在が
自分よりも他を愛するように
なる時だけだとしたら、
 
お前も、
一個の生ある存在として、
自分自身よりも
他の存在を愛さなければ
ならない。
 
 
この条件のもとでのみ、
人間の幸福と生命は
可能となり、
 
この条件のもとでのみ、
人間の生命を
毒してきたものが消滅する。
 
存在同士の闘争も、
苦痛の切なさも、
死の恐怖も
消滅するのである。
 
 
現実的には難しくとも、
私たち人類は、
そのような「選択肢」を持っている。
 
それは、
「不可能」では、決してない。
 
なぜなら、
 
私たちは、本来、
自分も、他者もなく、
「ひとつ」の存在なのだから・・・
 
 
・・・忘れずにいたいです。
 
 
 
-----------------------------------------
 
 
 
今回も最後までお読みくださいまして、
有り難うございました😊
 
次回も、この本の、
別の箇所を紹介します。
 
 
 
 
-----------------------------------------
 
 
 
 
おまけです(^^;
 
 
暖かくなってきたせいか、
「おっぴろげ」
が多くなってきました😸
 
 
 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

最近、近所でよくウグイスの鳴き声を

よく耳にするようになりました♪

 

今回から、

ロシアの文豪

トルストイさんの古典的名作、

人生論

 

 

を紹介します(^^)

 

この本、

私が、たしか30代の頃、

はじめて読みました。

 

「人生論」

というよりも、

「生命と幸福論」

的な内容なのですが、

端的にいえば、

 

「自己の動物的個我を

理性的意識(愛)に従属させて生きる」

(抽象的ですみません・・・(^^;)

 

ということが、

いろいろな切り口で述べられている

エッセーというか

論文のようなものです。

 

トルストイさんなので、

やはり、

キリスト教的なエッセンスも

入っています。

 

その中で、

今でも、私の心の中に

深く印象に残っている、

「ある箇所」があります。

 

ちなみに、

その箇所は、

直木賞作家、白石一文さんの小説、

 

僕のなかの壊れていない部分

 

※写真はハードカバー、今は文庫あり。

 

(この小説は、

後味は決してすっきりとしたものでは

ありませんが、

とても引き込まれ、

考えさせられる小説です)

 

のさわりの部分でも、

効果的に引用されています。

 

では、その

「ある箇所」とは、

どんなところか?

 

人生論

その箇所の、

少し前の部分から、

引用しますね。

 

 

動物的個我で

生きている人は、

 

「自分だけの幸福」

 

という、

ありえない幸福の願望だけで

生きているといいます。

 

 

(中略)

 

そういう人は、

自分一人が

幸せになるために生き、

行動している。

 

自分一人が幸せで、

楽しくあり、

自分には苦しみや死が

ないようにするために、

すべての人や

あらゆる存在が

生きて活動してくれるように、

望んでいるのである。

 

 

自分一人の幸せのために、

すべての人が活動をしてくれる・・・?

 

そりゃあ、

そうなれば最高ですが(^^;

 

王様でない限り、

そんなことを望んでも、

無理ですよね(^^;

 

 

あきれた話ではないか。

 

自分の経験も、

周囲のすべての人々の

生命に対する観察も、

理性もが、

そんなことの

不可能さを各人に示してくれ、

他のあらゆる生物に

おのれ自身を

愛するのをやめて、

この自分だけを

愛させるようにすることなど

不可能だと

教えてくれているにも

かかわらず、

 

それでもなお、

人間ひとりひとりの生命は、

富とか、権力とか、

名誉とか、栄光とか、

追従とか、欺瞞とかによって、

 

なんとかして、

他の存在が

おのれ自身のためにではなく、

彼一人のために

生きるようにさせ、

 

他の存在が

おのれ自身をではなく、

彼一人を愛するように

させることで

成り立っているのである。

 

 

つまり、

 

人が、

富、権力、名誉、栄光を手に入れたり、

または、

追従、欺瞞といった行為をするのは、

 

他人が自分に対して、

尽くし、愛してほしいからであるが、

 

そもそも、

すべての人が、心の底では

そのように思っているとしたら、

 

たとえば、

王様はもちろんのこと、

家来や民衆も・・・

 

すなわち、

ホンネでは、皆が、

 

「わたしだけに尽くして!」

「わたしだけを愛して!」

 

他人が自分一人に対して、

尽くし、愛するように

望んでいるとしたら、

 

(逆にいえば、

自分が他人に対して、

尽くし、愛することは

したくないとしたら)

 

いわば、皆のベクトルが

自分にしか向かないので、

けっして、それは実現しないのです(^^;

 

何とかして、

富とか、権力とか・・・

を手に入れて、

それが実現したように見えても、

 

無理矢理、

他人のホンネを

力で抑え込んでいるだけであって、

長くは続かない、

 

いわゆる、

「金の切れ目が、縁の切れ目」

 

ということかと思います。

 

 

(中略)

 

「俺にとって

幸福が可能なのは、

他の存在が

自分自身よりも

この俺を愛してくれる場合

だけなのに、

他の存在はみんな、

自分だけを愛している。

 

つまり、

俺を愛させようとして

俺がやっていることは、

すべてむだなわけだ。

 

むだではあるけど、

俺にはほかのことは

何一つできない」

 

 

う~ん、

なるほど・・・

 

 

何世紀もたって、

人々は今や、

天体からの距離を知り、

その重さを測定し、

太陽や星の成分を

知っているのに、

 

個人の幸福の要求と、

その幸福の可能性を排除する

世界の生命を

どのように調和させるか

という問題は、

大多数の人にとって、

五千年前の人にとってと同様、

いまだに未解決のまま

残されている。

 

 

・・・何か、

 

ポルノグラフティの

「アポロ」

という曲の歌詞を連想しましたが(^^;

 

 

 

(もしかしたら、

この本から着想を得たのかも

しれませんね)

 

 

・・・話がそれましたが(^^;

 

どんなに科学技術が進歩しても、

五千年前からずっと未解決なことを、

人類は、

解決できていないということですね。

 

 

理性的な意識は

各人にこう告げる。

 

そう、

お前は幸福になれる、

だがそれは、

みんなが自分自身よりも

お前を愛するように

なる場合だけだ、

と。

 

そして、

同じその理性的な意識が、

 

そんなことはありえない、

なぜならだれでもみんな

自分だけが可愛いからだ、

 

と人に告げるのである。

 

それゆえ、

理性的な意識によって

人間に開き示される

唯一の幸福は、

ふたたび隠されてしまう。

 

 

そうですね・・・

 

 

何世紀が過ぎても、

人間の生命の幸福という謎は、

大多数の人にとって、

やはり未解決の謎で

ありつづける。

 

にもかかわらず、

謎はもうとうの昔に

解かれていたのである。

 

 

えっ・・・

 

謎は、

とっくの昔に解かれていた!?

 

 

その謎解きに気づく人は

みな常に、

どうして自分で

解けなかったのか、

ふしぎに思うし、

もうとうの昔から

知っていたのに

度忘れしただけだ

という気がする。

 

われわれの世界の

誤った教えの間では

あれほどむずかしく思われた

謎の解決が、

実はいたって簡単で、

ひとりでに思いつくのである。

 

 

とっくの昔知っていたのに、

度忘れしただけ・・・?

 

実はいたって簡単で、

ひとりでに思いつく?

 

謎解き、

すなわち、

 

「どういう状態になれば、

みながお前のために生きるのか」

 

皆さん、わかりますか???

 

 

 

シンキング、タ~イム・・・(^^;

 

 

 

   ・

 

   ・

 

   ・

 

   ・

 

   ・

 

   ・

 

 

 

その回答は・・・

 

次回にしますね(^^;

 

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

 

 

 

 

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おまけです。

 

 

ここにいたか😸

 

 

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

100年前・・・

ヨーロッパを旅した、

南の島サモアの族長(酋長)

「ツイアビ」さんが、

鋭い視点で文明批評する本、

 

パパラギ

 

 

を、紹介・解説しています(^^;

 

パパラギは、

文庫本でも出版されていますが、

こちらは、イラストが多い

絵本テイストの新版ですので、

小学高学年くらいから、

読めると思います(^^)

 

ちなみに、

パパラギとは、白人を差しますが、

文明人という意味では、

私たち現代の日本人も同じですね。

 

本書から引用します。

 

 

パパラギの国には、

私たちの島の

椰子の木よりも

たくさんの人間がいるが、

彼らの顔は灰のように暗い。

 

仕事が楽しくないからだ。

 

職業が彼らの喜びを

食いつぶしてしまったからだ。

 

この人たちの心の中には、

鎖でつながれ、

逃げたくても逃げられない

獣がいる。

 

すべての人々が

おたがいに職業をくらべ合い、

他人をうらやんで生きている。

 

ひとつのことだけしかない

職業とは、

おかしなものだ。

 

人間は、

手だけでもなく、

頭だけでもない。

 

体も、心も、

全部がいっしょに働いて、

はじめて人間は喜びを感じる。

 

一部分だけ生きるのなら、

ほかのところは死んで、

人間はめちゃくちゃに

なってしまう。

 

それと同じように、

職業のために

パパラギはめちゃくちゃに

なっているのだ。

 

 

100年前のヨーロッパ、

産業革命後の工業化社会。

 

単純労働する人が

多かったのでしょうか。

 

ひとつの職業に固執して、

優劣を比較し合う。

 

たとえば、

年収がどうかとか、

業界で何位だとか・・・

 

今の日本も変わらないですね(^^;

 

仕事だけに自分を限定して、

他の価値観や生きがい、

たとえば、

趣味を大切にしていない、

 

理性ばかりで、

感性をおろそかにしている、

 

とも読み取れるような気がします。

 

本来、人間の中には、

さまざまなキャラクターや感情が、

眠っています。

 

喜怒哀楽・・・

 

大切にしたいです(^^)

 

 

人々がまだ寝ているころ、

紙の束は配られる。

 

朝、パパラギが

最初にすることは、

それを手に取ることだ。

 

そして読む。

穴のあくほど見る。

 

すべてのパパラギが

同じことをする。

 

起こったこと、

人のしたこと、

しなかったこと、

何でも伝えられる。

 

どんなに悲しく、

普通の人間なら

すぐに忘れてしまいたい

ことでも。

 

 

新聞ですね(^^;

 

100年前のヨーロッパでは、

多くの人が、読んでいた。

 

今の日本では、

若い世代を中心に、

購読者数はかなり減ってきていまして、

通勤電車でも、

読んでいる人は、

あまり見かけなくなりましたが(^^;

(スマホの影響ですね)

 

ちなみに、

私は、購読していますが、

平日の朝はなかなかが余裕ないので、

昼休みか、帰宅後に

ざっと読む感じですね。

(朝刊の意味がない・・・(^^;)

 

 

よくないこと、

人を悲しませるようなことが、

どんなにいいことよりも

ずっとくわしく伝えられる。

 

いいことより

悪いことのほうが

ずっと大切で、

うれしいことでも

あるかのように。

 

 

そうですね・・・

 

たしかに、新聞に限らず、

ニュースも含めて、

よくないこと、人を悲しませることを、

詳しく伝えることが多いですね。

 

それが、

私たちの不安を刺激する・・・

 

いかに、

世の中が、

「不安」を原動力として、

回っているのかの

証明かもしれません。

 

(冷静に考えて見たら、

おかしなことですね)

 

 

 

パパラギの生きかたは、

サバイ島まで船で行くとき、

岸を離れてからすぐ、

時間はどのくらいかかるのかと

考える男に似ている。

 

船旅のあいだ

彼はずっと考え続け、

まわりに広がる美しい景色を

見ようとしない。

 

 

どきっ、

これは、私のことかも(^^;

 

仕事の出張時はともかく、

プライベートの旅行でも、

私は時間ばかり気にしてしまい、

そのことで、

妻とケンカになったりします(^^;

 

 

左に山があれば、

あの山の裏側には

何があるのだろう、

 

入江かな、

それは深いのかな、

浅いのかな、

と考える。

 

山と入江が見えなくなると、

また新しい考えが

彼を悩ませる。

 

「嵐がくるんじゃないかと」

と。

 

彼は青空に黒雲をさがす。

 

嵐は来ず、

無事サバイ島に着く。

 

これでは旅をしなかったのと

同じだ。

 

彼の心は、

船を離れて

遠くにあったのだから。

 

小屋で寝ていたのと

変わりがない。

 

考えるというのは、

病気と同じようなものである。

 

 

「病気と同じ」とは、

辛辣ですが(^^;

 

たしかに、

「感じる」

ことをおろそかにして、

「考える」

ことばかりというのは、

一種の文明病かもしれません。

 

まずは、頭ではなく、

五感を通じて、

「感じて」「味わう」心、

 

大切にしたいですね。

 

その場の風景を、

「感じて」「味わう」こと。

 

私は、よく、

すばらしい風景に遭遇すると、

写真に撮りたくなります!

 

もちろん、

写真に撮れば、

あとで、感動を振り返ることができますし、

今の時代は、

人とも簡単に共有することができますので、

とても有益なのですが、

 

しかし、

写真を撮ることに気を取られて、

その場の風景を、肌で、

「感じて」「味わう」

ことがおろそかになってしまっては、

本末転倒です(^^;

 

まずは、自分が、

いま、ここで、

「感じて」「味わう」こと。

 

忘れないようにしたいです(^^;

 

 

この本の最後ですが、

なかなか深い文章で

締められています。

 

 

熟せば、ヤシは、

葉も実も落とす。

 

パパラギの生き方は、

未熟なヤシが、

葉も実もしっかり

抱え込んでいるようなもの。

 

「それは私のだ!

持っていっちゃいけない。

食べちゃいけない!」

 

実が落ちなければ、

どうやって新しい実がなる?

 

ヤシの木のほうが、

パパラギよりも

ずっと賢い。

 

 

なるほど・・・

 

「実が落ちなければ

どうやって新しい実がなる?」

 

そうですね、

 

ずっと抱え込んでいたら、

新しい実がならない。

 

実を与えれば、

新しい実が自然になる。

 

それが、自然界の法則。

 

いや、人間の世界も、

同じかもしれません。

 

人間も、

自然の一部なのですから。

 

誰かに、

「実」を「贈与」すれば、

その分、

また新たな「実」が生まれる。

 

もしくは、

誰かから、

「贈与」される。

 

ということかも

しれませんね(^^)

 

もちろん、

「モノ」だけでなく、

「気持ち」や「行為」も含めて。

 

 

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以上、

2回にわたって、

 

パパラギ

 

 

から、

私の印象に残ったところを、

紹介・解説してきました。

 

南の島の族長の視点で、

文明社会を見ることで、

現代人の私たちが、

 

「はっ・・・」

 

とさせられることも、

多いと思います。

 

ほんとうに大切なものは

何なのか。

 

視野を広げる意味でも、

ご一読をオススメします(^^)

 

この本は、

絵本テイストなので、

イラストがとても素敵で、

子どもでも読みやすいです。

 

廉価な文庫版も出ています。

パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集 (SB文庫)

 

今回も、最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

次回は、別の本を、

紹介します。

 

 

 

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おまけです(^^;

 

 

神奈川県藤沢市の遊行寺です。

(箱根駅伝でも有名ですね)

門構えが、かっこいい!

 

 

 

時宗の総本山、けっこう大きな境内です。

散策楽しめます!

 

 

 

時宗の宗祖、踊念仏の一遍上人。

「なむあみだ佛はうれしきか」

 

 

 

こちらは、江ノ島手前、

日蓮宗の瀧口寺

 

 

 

立派な五重塔があります!

 

 

 

江ノ島まで足を運びました(^^)

 

 

 

曇ってきて富士山は見えませんでしたが、

海風を感じながら、岩の上に座り、

しばらく瞑想・・・

 

気持ちよかったです😊

 

 

・・・えっ、

写真もいいけど、

 

「いま」「ここ」が大切、

でしたね(笑)