ご訪問くださいまして、
有り難うございます。
れっつごうです(^^)
私は、無性に、
遠藤周作さんの作品を
読み返したくなる時があるのですが、
今回は、久しぶりに、
を読み返してみました。
タイトルこそ、
「侍」ですが、
いわゆる時代小説ではありません(^^;
仙台藩伊達政宗の家臣、
をモデルに描いた小説(純文学)です。
もう一人の主人公は、
野心的な宣教師のべラスコ
(史実ではソテロ)
なのですが、
彼は、藩を利用して、
自分の野望を実現しようとします。
藩には別の思惑もあり、
ペラスコや侍の長谷倉(支倉常長)
ら一行は、
ローマ法王への親書を携えて、
大海原に旅立つことになるのですが、
この旅が、なかなかすごいんですね。
仙台藩から、
太平洋を越えてメキシコを横断、
さらに、大西洋を越えてスペイン、
最終的には、
なんとローマにまで行きつくのです。
(史実です)
帆船で、太平洋、大西洋を越えて、
はるかローマまで!
想像を絶する船旅ですね。
(ちなみに、
作者のフランス留学の船旅体験が、
投影されているようです)
冒頭の部分は
少し退屈な感じがするのですが、
出航してからは、
遠藤周作さんの筆力で、
ぐいぐい引き込まれます!
嵐にあったり、
インディオに襲われたり・・・
まるで一緒に旅をしている感覚に
なりますよ。
ただ、
侍の長谷倉自身は、
決してこの旅に
乗り気だったわけではないのです。
旧領に配置換えをしてもらえるかも
という、
一縷の望みを抱いて、
家老の命に従うのですが、
これは、
自分のためというよりも、
家(一族)のため、
藩(主君)のためなんですね。
一方で、
烈しい男、宣教師のべラスコは、
自分の布教欲、出世欲のために、
日本人を騙しながら、旅を続けます。
その対比も、
なかなかおもしろいです。
ということで、
ストーリーのネタバレに注意しながら、
私が印象に残った箇所を、
紹介、解説していきたいと思います。
宣教師のべラスコが、
こう述懐します。
日本での長い生活で、
私はいかに日本人が
宗教のなかにさえ
現世の利益を求めるかを
この眼で見てきた。
つまり
現世の利益を
より多く獲得するために
彼らのいう信心がある
と言ってもよいほどだった。
病気や災害から逃れるために
彼らは神仏を拝む。
領主たちは
戦いの勝利を得たいために
神社や仏閣に
寄進を約束する。
坊主たちも
それをよく心得ていて、
薬よりも
もっと効きめのある
薬師如来という
悪魔の像を信者たちに
拝ませているが、
この如来ほど
日本人に崇められている
仏像はないのだ。
そして
病気や災害から逃れる
ためだけではない。
日本人の宗教には富をふやし
財産をまもってくれると
称する邪宗も多く、
それにはあまたの
信者が集まっている。
「薬師如来」
が悪魔の像というのは、
ちょっと笑えますが(^^;
特にこの時代の宣教師から見たら、
日本人は、
現世利益だけのためだけに、
神仏を敬うというふうに、
見えたのかもしれません。
たしかに、
私の中にも、
その気持ちはあります。
やっぱり、
ご利益は欲しいですし(^^;
(ここ近年は、
なるべく感謝の気持ちのみを
捧げるようにしていますが)
でも、
それだけではないですよね。
よく、遠藤周作さんが
述べていることですが、
欧米のような、
厳格なキリスト教とはちがった意味で、
私たち日本人にも、
イエス・キリストのような存在を
求める気持ちがあります。
一行は、旅の途中、
メキシコの地でインディオと暮らす、
日本人の元修道士と出会います。
この元修道士、
戦災孤児で、
日本で神父に拾われたんですね。
マニラの神学校に入れられたが、
聖職者たちに嫌気が差し、
ノベスパニア(メキシコ)に来たが、
ここでも神父たちになじめず、
インディオと暮らすようになる。
そんな元修道士が、
侍の質問に対して、
こう答えます。
「切支丹は捨てたのであろう」
「いえ、いえ。
やはり切支丹でございます。
ただ・・・」
「ただ・・・
私はパードレさまの説く
切支丹は信じておりませぬ」
「なぜ」
「パードレさまたちが
ノベスパ二ヤに来られる前に、
この国にはむごい事が
ございました」
(中略)
スペイン人が、
インディオたちの住む土地を
略奪、征服したことですね。
「遅れてこの国に参った
パードレさまたちが、
それら多くのインディオの
苦患(くげん)を忘れ・・・
いや、
忘れているのではない。
あの方たちは
素知らぬ顔をされているのだ。
素知らぬ顔をされて
まことありげな口振りで
神の慈悲、神の愛を
説かれるのに、
ほとほと嫌気がさしました。
この国の
パードレさまたちの唇からは
いつも美しい言葉だけが出る。
パードレさまたちの手は
いつも泥に汚れは
いたしませぬ」
そうですね・・・
たしかに、
この時代の聖職者には、
このような
偽善も感じます。
「それゆえ、
切支丹を棄てたのか、お前は」
「いえ、いえ」
(中略)
「パードレさまたちが
どうであろうと、
私は私のイエスを
信じております。
そのイエスは
あの金殿玉楼のような
教会におられるのではなく、
このみじめな
インディオのなかに
生きておられる―
そう思うております」
インディオの中にも、
日本人の中にも、
いや、全人類の中に、
この元修道士のいう、
イエスは生きているのだと思います。
人の痛み、苦しみ、弱さに、
ただただ、
寄り添ってくれる存在ですね。
神仏に現世利益を求めがちな、
日本人にも、
このような存在を求める心は、
あると思います。
今も昔も。
ということで、
次回、このテーマを、
もう少し掘り下げてみたいと思いますが(^^;
ちなみに、
遠藤周作さんのファンの方なら、
この元修道士のような人物が、
他の小説にも出てくることに
気づかれると思います。
私が、まず想起したのは、
深い河に出てくる、
大津さんですね。
過去ブログでも紹介しました。
よかったらご覧ください。
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今回も最後までお読みくださいまして、
有り難うございました😊
次回も
この本の紹介を続けます(^^;











