ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

セラピスト(カウンセラー)たちから

「匠」といわれている、

 

龍谷大学教授、

東豊(ひがしゆたか)先生の、

セラピスト誕生―面接上手になる方法

 

 

という本を紹介しています。

 

今回、3回目になります(^^;

 

この本は、

主に対人援助職や、

教育関係者向けの専門書ですが、

それ以外の方にも、

なかなか示唆に富んだ内容だと思います(^^)

 

今回は、

この本からはちょっと離れますが、

東豊先生の別の本の記述から、

 

私が、メンタルコーチ(カウンセラー)

の資格取得のために学んでいるときに

配布された資料の中から、

引用をさせていただいて、

皆さんとシェアしていきたいと思います。

 

前回、前々回で、

 

「P(ポジティブ)要素」

「N(ネガティブ)要素」

 

という考え方を

紹介させていただきましたが、

 

カウンセリングに来られる

クライアントは、

内的にも、対人的にも、

 

「N循環の中にいる人」

 

だといえます。

 

そう考えると、

セラピスト(カウンセラー)の仕事は、

 

「まずは自分とクライアントの間に

P循環を生じせしめること」

 

になるわけですが、

では、

セラピスト(カウンセラー)として、

どのような心構えが必要なのか?

 

 

クライエントに対する

セラピストの一番の仕事は、

とにもかくにも

害を与えないことであろうと

思います。

 

害を与えるとは、

すなわち、

セラピスト自身が

クライエントと

対人N循環に陥ることです。

 

クライエントに

腹を立てたり

不快な気持ちを抱いたり

することは

もちろんのこと、

クライエントを

「問題の人」

「障害のある人」

と見立てることも

実は害を与える第一歩に

なりがちです。

 

(中略)

 

実は

そのような見立て

(縛り・レッテル)こそが

「問題」であると

言えるかもしれません。

 

 

なるほど・・・

 

お互いの感情が、

「円環的に循環する」

わけですから、

ますます、

「N(ネガティブ)循環」

が深まってしまう・・・

 

 

そしてこれは

何もクライエントと

呼ばれる人に対して

だけではありません。

 

セラピストによっては、

たとえば

クライエントとしての

子どもを被害者と観て

母親を加害者であると観る

場合があるかもしれませんが、

 

この場合、

たとえ

セラピストと子どもの間に

P循環が形成されても

この効果は比較的薄いと

思われます。

 

なぜなら

セラピストと母親との間に

N循環が形成されて

しまうことで、

母親と子どもの間に

N循環が維持される可能性が

高いからです。

 

結果的に

子どもは損なわれます。

 

これは子どもの家族

だけでなく、

学校の先生や医療機関等の

専門家に向けても

同じことであると言えます。

 

子どもが大事であるなら、

親や先生を責めては

なりません。

 

 

そうですね・・・

 

私たちは、つい、

関係者の誰かを

「悪者」にすることによって、

当事者との絆を深めようとしがちですが、

それだと、

悪者にした人とのN循環が

形成されることになり、

それが、円環的に循環してしまう・・・

 

そうなると、

関係者と当事者との間の

N循環も強化されてしまうので、

けっきょく、

当事者が、

ますます困る結果になってしまう。

 

まさに悪循環ですね。

 

では、どうすればいのか?

 

 

セラピストは、

どのようなクライアント

であっても、

どのような関係者

であっても、

少なくとも

「普通の人」であると

観なければなりません。

 

どのような過去や

現在の振る舞いがあろうと、

「問題の人」

「困った人」

などとして

観てはいけません。

 

しかし、

現実に目の前に

「とんでもない」

ことが存在すれば、

これは

「言うは易し行うは難し」

となってしまいます。

 

筆者もこの点については

長年苦労しました。

 

対象者を

「問題の人」

「困った人」

と観た場合は

大概セラピーを

失敗していたのです。

 

 

「匠」といわれる東豊先生でも、

そうだったんですね・・・

 

対象者を、

「問題のある人」と観ると、

N循環が、始まってしまう。

 

そして、

アドバイスしたくなったり、

変えようとしたくなったりする・・・

 

 

しかし近年、

そのような意識は

ほとんど持たなくてすむように

なりました。

 

のけぞる人も

いるかしれませんが、

筆者の場合は、

近年目が覚めたところの

それなりの信仰心に

よるものなのです。

 

おおむね、

どんな人でも、

「仏性」

と観ることが

できるようになったおかげで、

「問題の人」

「困った人」

は存在しなくなったのです。

 

残ったものは

そのような

「縛り・レッテル」

 

言い方を変えれば

「思い」や「言葉」

によって作られた

表面的現象だけに

なりました。

 

 

「信仰心」

 

東先生の場合は、

特定の宗教の信者ではないようですが、

おおむね、

どんな人にも、

 

「仏性」

 

を観ることができるように

なったおかげで、

人を見る目が変わってきた。

 

「問題の人」

「困った人」

は存在しなくなった・・・

 

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「一切衆生悉有仏性」

(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)

 

生きとし生けるものは、

すべて生まれながらにして、

仏となりうる素質をもつということ。

(小学館デジタル大辞泉より)

 

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私も、

特定の宗教の信者ではないのですが、

この仏教の教え、

 

人の心の中には、

目には見えない

「仏性」が宿っている。

 

ということは、信じています。

 

ただし、

私の場合は、

実際には、なかなか

人の中に、

「仏性」を観ることが

できないでいることも多いのですが・・・

(まだまだ修練が足りません(^^;)

 

 

 

人は本来

水晶玉でありますが、

その上から絆創膏

(ばんそうこう)

をべたべたとはってしまうと

元の姿が見えなくなる。

 

「問題」とは、

まさにその

絆創膏(ばんそうこう)

なのであり、

人の本質ではないと

考えるわけです。

 

 

人は本来、「水晶玉」

 

素敵な言葉ですね(^^)

 

この言葉を初めて知って以来、

私の心に刻まれています。

 

そして、

 

問題とは、「絆創膏」

(ばんそうこう)

 

考えようによっては、

過去の心の傷口からの出血を、

絆創膏で止血しているともいえる。

 

そう考えると、

いわゆる、

「問題行動」も、

いってみれば、

心の「守り」なんですね。

 

もちろん、

不健全な「守り」の場合は、

他の健全な「守り」に

変えたほうがいいわけですが、

 

そもそも、

問題自体が、

すべて「悪い」というわけでは

ないかもしれない・・・

 

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私たちは、

人のことを、なかなか

「水晶玉」のように観ることは

できません(^^;

 

ついつい

「絆創膏」ばかりに

目がいってしまいがちです(^^;

 

せこい話になりますが、

私、今日、仕事で、

上司の理不尽な言動に

「ムカッ」とすることがあり、

態度にも出してしまい、

ちょっと後悔しましたが(^^;

(まだまだ修行が足りません・・・)

 

 

「どんな人にも、仏性が宿っている」

 

そして、

 

「人の本質は、水晶玉」

 

 

心の片隅に、

留めておきたい言葉ですね😊

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました。

 

次回に続きます(^^;