思い出のプロ野球選手、今回は藤原満選手です。
 

 

1970年代を中心に南海一筋で名三塁手として鳴らし、また1kg近くもある重い「つちのこバット」を本格的に使ってヒットを量産した選手です。

 

【藤原 満(ふじわら・みつる)】

生年月日:1946(昭和21)年9月18日

入団:南海('68・ドラフト4位)
経歴:松山商高-近大-南海('69~'82)

通算成績:1,354試合 打率.278 1,334安打 65本塁打 413打点 195盗塁

タイトル:最多安打 2回('76、'81) ※当時連盟表彰なし

表彰:ベストナイン 1回('76)、Gグラブ賞 2回('76、'81)

節目の記録:試合-1,000試合出場('80.4.28)

      安打-1,000本安打('80.8.13)

オールスター出場 5回('75、'76、'78、'79、'81)

 

 

●個人的印象

南海のベテラン内野手、です。

当時、背番号「7」といえば阪急・福本豊選手や巨人・柴田勲選手ら「足が速い」イメージが強く、この藤原選手にもそんな「足の速い背番号7」のイメージを持っていました。

 

●プロ入りまで

愛媛の名門・松山商の出身ですが、残念ながら甲子園には縁がなかったようです。

大学は近畿大学へ進学し、有藤通世選手と三遊間を組み、当初三塁手でしたが、有藤選手が三塁手になると、藤原選手は遊撃へ回りました。

大学での活躍は評価されましたが、数多くのスター選手が誕生したこの大豊作ドラフトで、南海ホークスからの指名は4位という下位指名でした。

この時の南海の1位指名は、前回記事の富田勝選手で「法大三羽烏」として山本浩二田淵幸一選手らと並び称されるほどの選手なので、彼が1位なのは仕方がないとしても、4位とは随分差が開いたなという印象で、またこんな下位指名だったとは…ここで調べて知るまで予想だにしませんでした。

 

●伸び悩んだ若手時代

南海に入団した藤原選手、しかし当初は主に打撃面で伸び悩みました。

現役全キャリアを見ていても、前半が小さな数字で後半が大きな数字なのが明らかで、30歳を過ぎてから充実したままで現役を終わった、そんなん感じがします。

1年目1969(昭和44)年は、55試合と半分にも満たない出場で、22安打で打率.193、2本塁打11打点という成績でした。

3年目1971(昭和46)年こそ、47安打で打率が初めて2割を越えた.267で9本塁打25打点を記録していますが、2年目1970(昭和45)年や4年目1972(昭和47)年など、ほとんど出番がなく10本前後のヒットを打つ程度の成績に終わっていました。

 

●5年目でブレイク

同級生でライバルともいえる富田勝選手が巨人へ移籍した1973(昭和48)年、それまで苦手としていたショートから本職のサードへコンバートされ守備面の負担が軽減し、ここからブレイクして初めて規定打席に到達し、それまで最多で47安打だったのがこのシーズンで113安打を放ち、打率.263でしたが、10本塁打44打点と初めて本塁打も2ケタにのせました。ちなみに本塁打2ケタはこの年のみで、最高が10本とホームランの少ない選手で通算でも65本でした。

 

この年は南海として最後に優勝した年でもあり、これがホークス一筋だった現役生活最初で最後の優勝経験でもありました。巨人との日本シリーズには敗れ、巨人が最長不倒のV9を達成することとなりました。

 

翌1974(昭和49)年は再び期待打席割れになりますが、この年は新星の柏原純一選手が台頭してきたことによるもので、当時の野村新監督に親い柏原選手と併用された格好でした。

 

●30代で花開く

1975(昭和50)年は29歳と20代最後のシーズンでしたが、ここで初めてオールスターゲームに出場しました。

この年は初めて130試合フル出場を果たし、134安打で打率.281、本塁打こそ4本でしたが40打点を挙げ、特筆すべきは29盗塁をマークしています。それまで最高が4盗塁で、足の速い選手は出番が少なくても盗塁は多かったりすることがよくありますが、彼の場合はそれまでほとんど盗塁がなく、いきなりこの年に目覚めた感じです。

盗塁数を見るとこの年までの20代で44個に対して、翌年からの30代で151個と3倍以上マークしており、盗塁数が30代で急増した選手というのは大変珍しいのではないでしょうか。厳密には1976年は29歳が大半でシーズン末期に30歳になっていますが…。

またこの1975年から引退する1982(昭和57)年まで8年連続で100安打越えをマークし、また盗塁も1981(昭和56)年まで7年連続で2ケタ盗塁をマークしています。個人的にこの時期の活躍が目立っていて、あまり見ない南海の選手でも、昔からすごい実績を持った選手なんだろう、と勝手に思っていました。

また、彼の代名詞ともいえる「つちのこバット」と呼ばれる重さ1kg以上あるというグリップの太いすりこぎバットを使うようになったのは、この時期からと言われています。元はこの年で引退したヤクルトの武上四郎選手が使っていたバットを大学の後輩である高畠導宏コーチが譲り受け、藤原選手に使わせたといいます。他へも波及し、ヤクルト・若松勉選手、阪急・福本豊選手など、同世代で1番を打つ俊足の選手が使うアイテムとして認知されていたことがありました。

高畠コーチは後に高校教員となり、教諭を経て高校野球の監督を目指しながら志半ばで亡くなり、その姿はNHKの「フルスイング」という連続ドラマで高橋克実さんが演じる姿を通して描かれました。

 

そして彼自身のキャリア的に最良の年となったのが1976(昭和51)年でした。

2年連続でオールスターに出場し、ベストナインとGグラブ賞のダブル受賞と、意外にも打撃タイトルはひとつも獲っていませんが、打率は初の3割.302をマークし、当初の苦労が嘘のように打撃開眼ともいえる活躍ぶりで、安打数は159とキャリアハイをマークしています。

そして盗塁はナント50個!盗塁王を獲っていてもおかしくない数字です。しかし時期が悪く、この時代のパ・リーグは福本豊選手の全盛期で13年連続盗塁王を獲っていた真っ只中で、福本選手が63個で盗塁王を獲得しています。

「打率」と「盗塁」で共に2位の成績で、打率.302で首位打者は難しいですが、この年の首位打者は太平洋・吉岡悟選手の.309で、そんな大きく開いてはおらず、また吉岡選手は規定ギリギリに対して藤原選手は567もの打席に立ち、リーグ最多安打も記録しています。(当時の打撃タイトルに無かった為、無冠の扱いになっています)

 

1977(昭和52)年も打率.300で2年連続3割を達成、すっかり3割打者となりました。

盗塁は15と激減しますが、30代でも毎年コンスタントに2ケタをマークし続けます。この年の特筆事項は441打席に立ちながら、三振がわずか19個という少なさでした。元々三振の少ない打者で、最多が1973年の39個という少なさでミート力には定評がありました。

 

1978(昭和53)年は99試合に終わり、なんとか規定打席に届きギリギリ100安打を記録し、打率は.253と急降下しましたが、1979(昭和54)年から3年間は.295、.300、.300と安定した打率をマークし、南海不動のリードオフマンであり続けました。

 

1980(昭和55)年は節目の記録に次々と到達し、通算1,000試合出場と通算1,000本安打を記録しています。

また1981(昭和56)年は最後となる5回目のオールスターに出場し、打率.300で4度目の3割となり、2度目のGグラブ賞を受賞し、更には2度目の最多安打(当時表彰なし)を記録しています。

 

●突然の引退

1982(昭和57)年は打率こそ.262でしたが122安打で、盗塁は10は切ってしまったものの8個を記録していました。規定打席にも勿論到達し524打席にも立って普通にレギュラーとして活躍していましたが、シーズン終了後36歳で突然引退しました。

 

これは当時、翌年就任する穴吹義雄新監督がチーム再建を目指して藤原選手に引退勧告をしてコーチにさせた、と言われていますが、藤原選手自身もそれまでのような、内野と外野の間に落ちる自分らしいヒットが出なくなり、フライになってしまう、という事もあり引退を決断したといいます。

シーズン122安打での引退は、最後までレギュラーであり続けた長嶋茂雄、王貞治、山本浩二といった偉大なる選手たちのラストシーズン安打数よりも多く、控えや代打の切り札など含めて正直あと3年はやれただろうと思いますが、その3年後のシーズンが、この下の選手名鑑のものです。

 

1985(昭和60)年の選手名鑑より

現役引退後3年目のシーズンで、39歳になる年でヘッドコーチを(前年から)務めていました。現役引退後2年目でヘッドコーチはかなりの厚遇で、しかも他のコーチの多くは年上という状況で、監督に一番近い立場にいました。南海がダイエーに変わらなかったら監督をしていたとも言われています。

 

もっと実績の凄い選手かと思っていましたが、初期に足踏みしたことと早めの引退もあり、通算1,334安打でした。しかし1975年までの20代のシーズンでは389安打に対して、以後の30代のシーズンでは945安打と、2.5倍程度多く、やはり30歳を過ぎての活躍ぶりは見事なものでした。

 

その後、彼の跡を継いで背番号7をつけたのが一回り年下の久保寺雄二選手で、将来を大いに嘱望されましたが、上の選手名鑑の1985年シーズンを迎える直前に26歳の若さで急死してしまい、南海は以後三塁手に苦労することとなります。

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村