思い出のプロ野球選手、今回は「柴田勲」選手です。

 

前回が張本勲選手で、同じ「勲」繋がりですが、V9時代の巨人のリードオフマン、自分はリアルではV9時代は知りませんが、その後の70年代末期になっても、トップバッターで活躍を続け、巨人生え抜きで2,000本安打を達成した数少ない選手(他に川上哲治、長嶋茂雄、王貞治、坂本勇人の4人だけ)です。

 

【柴田勲】

生年月日:1944年2月8日生

経歴:法政二-巨人('62~'81)

通算成績:2,208試合 打率.267 2,018安打 194本塁打 708打点 579盗塁

タイトル:盗塁王 6回('66、'67、'69、'72、'77、'78)、

ベストナイン 4回('67、'71~'73) Gグラブ賞 5回('72~'74、'76、'77)

 

 

自分にとって「背番号7」といえば、この人と福本豊選手です。

 

同時に背番号7といえば「足が速い」のイメージでした。そしてセンターの守備位置に就く姿をよく見ましたが「センターといえば」もやはりこの人と福本選手のイメージが強いです。Gグラブ賞が導入された1972(昭和47)年に外野手部門で受賞しており、栄えある初受賞者のひとりに名を連ねています。

 

日本における「スイッチヒッター」の草分け的存在で、この言葉も彼がやっていた事から覚えました。平たく言えば「両打ち」ですね。

スイッチヒッターでの2,000本安打達成は、彼と松井稼頭央選手のたった2人だけです。そもそも最近のプロ野球ではスイッチヒッターの選手っていないそうですね。

 

盗塁はNPB歴代3位の579盗塁で、歴代3位ですが、今のブロ野球選手がとても達成できそうにない記録です。

 

2,000本以上の安打を記録しながら、3割到達が一度もなく、また打撃タイトルも一度もなく、盗塁王だけという記録の持ち主で、その盗塁王は6度獲得と、これはセ・リーグ記録です。'78年には34歳で開幕を迎えて盗塁王を記録し、これはリーグ最年長記録です。この写真でもそうですが、赤手袋が似合ってて、そしてこの顔立ち、とにかくカッコよすぎました。

 

ハンサム的な尺度でいうと、当時の巨人では随一だったと思います。甘い感じだと小林繫投手がいましたが、柴田選手は渋い系でした。

 

年度別成績は下表のようなものでした。

 

意外にも、入団時は投手だったのですね。

一軍公式戦にも登板しており、6試合登板の0勝2敗、防御率9.82の記録が残っていますが、高卒1年目で残したこの記録を最後に、わずか1年で投手失格の烙印を押され、野手へ転向したといいます。

 

翌年、野手に転向すると、高卒2年目からバリバリのレギュラーだったんですね。時々規定打席に足りない年がありますが、いずれもわずかに足りない程度でした。

1979(昭和54)年まではほぼレギュラーでしたが、この頃から衰えが目立ち、80年代に入ってからは出番が減るようになり、当初は2,000本安打を達成した1980(昭和55)年限りでの引退を決意したそうですが、長嶋監督から藤田監督へバトンタッチの際に、コーチ兼任で現役を続ける事となり、1981(昭和56)年に37歳で引退、巨人一筋20年間の現役生活でした。

 

盗塁王を6度も記録し、通算579盗塁していますが、ものすごく多いというイメージはなく、1967(昭和42)年の70盗塁は傑出していますが、これ以外は50盗塁以下です。タイトルも大体35~45個程度で獲っています。セ・リーグには福本豊選手や広瀬叔功選手がいなかったので、ものすごい強敵がなかったというところでしょうか。

 

意外なのは、1968(昭和43)年に106三振とリーグ最多を記録している点です。そんなに三振が多いイメージがなかったんですが…。それと3割が一度もないというのも意外でした。足が速いだけあって、シーズンでリーグ最多三塁打を3回も記録しています。

 

実質的に1980年に引退したようなものでしたが、この年の巨人は長嶋監督の解任、王選手の電撃引退など、時代の変遷が印象的な年でしたが、自分の中ではそれと同じぐらい、高田繁選手の引退と、彼の実質的な引退と、この時期のチームの変遷をすごく感じたものでした。

 

成績も良かったわけですが、物腰がカッコ良くて印象的な選手でした。背番号7がピッタリすぎて、7という数字が好きになった一因でもありました。

 

 

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