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【前編】
36年前、19才でバプテスマを受けました。
元々神様の存在は信じておらず、英会話が始まりだったので、レッスンには興味がありませんでした。

でも宣教師のお人柄と目の美しさに惹かれ、レッスンのお誘いを断ることが出来ませんでした。

最初の示現を教えていただいた時はおとぎ話のように感じてしまい、このままレッスンが続いてしまうことに困惑したりしましたが、やはり宣教師のお人柄が素晴らしいため、断れませんでした。
 

モルモン書を読んでもさっぱり理解できず、

どうしたものかと思っていたところ、

ある日のレッスンで姉妹宣教師から東京神殿の写真を見せていただき、

「ここで家族の永遠の結び固めが出来る」と聞いた時、

胸の内側がガーっと熱くなり、当時は訳がわかりませんでしたが、

(後々生まれてはじめて御霊を感じたとわかり)レッスンを今は信じられなくても、

宣教師のように信じられるようになれたらいいかも・・と徐々に思えるようになっていきました。


とはいえ、戒めを聞いた時も多少の窮屈さは感じていましたし、

バプテスマを受けられるほどの信仰を自分の中で感じることが出来ず、

レッスンが終了して6ヶ月になる頃、私はまだ宣教師が困るようなロジカルな質問を疑問として投げかけていました。

 

ところがある日、いつもと同じように教会のお部屋で姉妹宣教師とお話をしていて色々な疑問を吐露していたところ、姉妹宣教師が霊感を受けて、
「姉妹、大丈夫です。姉妹は神様にとって大切な娘さんだと思います。」と私に伝えたのです。

 

それを聞くやいなや、非常に熱い霊的な存在(御霊)が私の胸の内側をズドーンと勢い強く貫いていきました。

そこから私は、(今はわからなくても)

神様がいらっしゃるなら知るようになりたいという希望のみでバプテスマを受けました。
 

その後、あれだけ読んでも理解し難かったモルモン書が少しずつ

(バプテスマを受けたあと聖霊の賜物を受けたおかげだと私は思っているのですが)わかるようになっていきました。

新会員の時にモルモン書のインスティテュートを受けたことも幸いし、リーハイの木の示現の解き明かしを学んだ時はモルモン書を読むことが楽しくなっていったことを覚えています。


求道者がどうやって戒めのハードルを克服できるかとありましたが、

私の場合、モルモン書を理解できるようになった経緯と同じように、徐々に戒めを理解できるようになっていった印象です。

御霊なしでは厳しいのではと思われます。

また、個人の祈りや聖典学習はもちろんのこと、教会の集会、インスティテュート、総大会で学んでいくごとに、徐々に信仰が強められて戒めを理解していったように思います。

 

今の世の中を見ていると、

主の戒めは世の中を最強に平和にするものであり、

人を真の幸せに導くものであるとわかります。
 



 

先日、

 

またいつものごとく、うちの長男(中2)が、

友達関係のことで悩んでいた。汗

 

 

 

小学校では、

思う存分、自分のキャラを出してて

伸び伸びできていたのに、

 

中学校ではそうはいかず、

自分のキャラが上手く出せなくなり、

ときどき、自分がどういうキャラなのか

わからなくなっているという。

 

 

 

 

私たち親は、

いつも同じようなことをアドバイスしている。

 

ありのままでいいこと

カッコつけないこと

嫌われてもいいい 

と思って自分を出すこと。

 

 

 

カウンセリングしたあとは、しばらく

彼も納得して、元気が出るのだが、

数日経つと、、

 

また、同じことで悩むのだ。

 

 

 

 

 

:「お祈りしたのかな?」

 

息子:「したよ、それでも変わらない。

アドバイス通りやってみたけど、

何も変わらない。」

 

と、これはよくある会話の風景。

 

 

 

 

 

今回も、

 

いろいろ話を聞いていました。

 

 

 

 

そして、夜遅く、

 

さあ「家庭の夕べ」の時間だな、と

思っていると

 

彼が

めずらしく、自分から聖典を片手に

リビングへ入ってきて、

 

涙を流しているではないですか。。あせる

 

 

 

 

しばらくそっとしておこうと思ったが、

次男が、「みたま感じてるんじゃない?」と、

ストレートに言うので、

 

私も、「そうだったら教えて」

と言いました。

 

 

 

 

すると、彼は、

 

 

「とても苦しかったから、、

心から祈ったんだ。。

 

とても苦しいので、どうか、僕に今

必要な聖句を教えてくださいって。

 

そして、モルモン書を、

パッと、開いたら、

そこに、俺に必要な言葉があって。。」

 

 

 

 

そのあとは、リアホナを使って、

家庭の夕べをしました。

 

今月号、42ぺージ『よく耐え忍ぶ』です。

 

彼は、終始、みたまを感じて

話を聞いていました。

 

 

 

 

また、証が増えたね。

 

悩みって、悪いものではなく、

成長するために、必要なんだよね。

 

 

 

 

悩みや、大変なこと、問題、

この世にいるかぎり、

一生なくならないけど

 

どんな問題があるかは

あまり重要ではなくて

 

その問題にたいして、

どういう対処して、

どういう心でいるかのほうが

大切なのよね。

 

 

 

 

「もう、明日から生まれ変わる、

新しい俺になる。」

 

と言った息子。

 

 

また同じことで悩んでも、

また相談にのるからねチューリップオレンジ

 





 




アルマ36章の見出しを読むたび、


大事なことを学ぶことができるひらめき電球




「アルマ、自分が天使によって改心に

導かれたことをヒラマンに証する。


アルマが罰の定めを受けた者の苦痛を経験し、

イエスの名を呼び、神から生まれたこと。


快い喜びに満たされたこと。・・・・・」




アルマは、息子ヒラマンに、


神の教会を滅ぼそうとしていた罪悪、

そのために地獄の苦しみを味わったことなど、


自分が神に逆らったことをも息子に告白している。




そして、


死ぬほどの悔い改めをし、

イエス様の贖いを信じることで救われ、

非常な喜びを味わった証を伝えている。





日本の教会員の親御さんたちは、


子供達に戒めをよく伝えていると思う。

教会へ集うことの大切さもよく伝えていると思う。




では、



はどうだろうか。。


自分(親)の失敗談も話してあげてるだろうか。。





子供は、

人生の経験値が、親より絶対的に乏しいため、

また、親はいつも子供に偉そうに躾するため、


「親は完璧でなくてはならない」と刷り込まれている場合がある。




それだと、あとあと親のほうも大変になるので、


自分の失敗談は、(時と場合を選び)

子供にきちんと伝えてあげたほうがいいと思う。




そして、を伝えてあげる。





そうすることで、

子供は親を身近に感じ、親を信頼するようになる。




家庭の夕べなどで、


福音を子供に教えるとき、

自分のちょっとした失敗談や、を、3つセットにして

伝えるのがいいと思うひらめき電球




そういえば、


私も最近、息子に証してない。。




伝えなきゃ伝わらないから、


伝えようチューリップ赤







 

アルマ34章では、

 

「祈り」について有名な聖句があるひらめき電球

 

 

 

「いつでもどこでも、このような態度で祈ればいいんだ」って、

新会員のとき、本当に助けとなった聖句であるビックリマーク


 

 

でも、この聖句は、
新会員向けだけの聖句ではない、ということが、

最近わかった。

 

 

 

 

・アルマ34章18-27

 

 

「まことに、神に憐れみを

叫び求めなさい。

なぜなら、神は人を救う力を備えておられるからである。

 

まことに、へりくだって、

神に祈り続けなさい。

 

牧場にいるときには、まことに、

すべての家畜の群れについて神に

叫び求めなさい。

 

家にいるときには、まことに、

あなたがたの家のすべての者について、

朝も昼も晩も神に叫び求めなさい。

 

まことに、敵の力を防ぐことができるように、

神に叫び求めなさい。

 

まことに、あらゆる義の敵である悪魔を

防ぐことができるように、

神に叫び求めなさい。

 

あなたがたの畑の収穫が豊かであるように、

作物について神に叫び求めなさい。

 

あなたがたの牧場の家畜が増えるように、

家畜の群れについて叫び求めなさい。

 

しかし、これだけではない。

あなたがたは、自分の部屋でも、

人目に触れない場所でも、荒れ野でも、

あなたがたの心を注ぎださなければならない。

 

また、声にだして主に叫び求めないときでも、

あなたがたの幸いと、あなたがたの周りの人々への

幸いを気遣う気持ちを心に満たし、

それが絶えず主への祈りになるようにしなさい。」

 

 

 

よくよく読んでみると、

 

ここまで毎日、丁寧に祈ってない自分に気づく。。

 

 

 

 

そして、

 

 

 

28節~

 

 

「・・・これですべてであると思ってはならない。

これらのことをすべて行っても、

もし乏しい人や着る物のない人を追い払ったり、

病気の人や苦しんでいる人を見舞わなかったり、

自分には持ち物がありながら、

それを必要としている人々に分け与えなかったりするばらば、

・・・・見よ、あなたがたの祈りはむなしく、

何の役にも立たない。

あなたがたは信仰を否定する偽善者と同じである。

 

したがって、もし愛を示すことを覚えていなければ、

あなたがたは精錬する者たちが

(価値のないものとして)捨てて、

人が足で踏みつけるかすのようなものである。」

 

 

 

 

どのような熱心な祈りであっても、

 

 

人にをもたなければ、

人にを示さなければ、

人に親切にしなければ

人に奉仕しなければ、

 

苦しんでる人や病気の人を見舞わなければ、

 

 

その祈りはむなしいものである、と。。汗

 

 

 

 

「行いが伴わない信仰は死んでいる」

 

という聖句を思い出す。

 

 

 

そして、最後39節

 

 

「祈りに心を配ることを、あなたがたに勧める。」

 

 

 

「心を配る」キラキラ

 

 

 

心を配る人でありたいチューリップオレンジ





 




信じるって、どういうことだろう。。



信仰って、どういうことだろう。。




以前、何度もこう考えたことがある。

いや、

現在も、考えることがあると思う。



理屈・理論は、わかっているつもりなのだが。。




あるとき、



なんだか、妙に、


なぜか、妙に、気になり、惹き付けられた聖典の話があるひらめき電球




そして、今でも、その話を聞くと、


なぜか、うっすらと鳥肌が立つかのような気持ちになる。。




それは、



『青銅の蛇』 の話。




やばい、


、『青銅の蛇』と書いただけでも、

特別な気持ちを感じてしまう。




『青銅の蛇』については、

旧約聖書の民数記21章4-9節に書いてある。


モーセとイスラエルの民とのやりとり。毒蛇。

そして、主とモーセのやりとり。主の約束。





・アルマ書33章19-21節 には、こう書いてある。



「見よ、モーセも神の御子について述べた。

荒れ野で一つの予型が掲げられ、

それを仰ぎ見ようとした者はだれでも、

生き延びられるようにされた。


そして、多くの人がそれを見て生き延びた。


しかし、そのことの意味を理解した人はわずかであった。

彼らの心がかたくなであったからである。

そして、予型を見ようともしないほどかたくなな人が大勢おり、

彼らは死んでしまった。

彼らが見ようとしなかったのは、

それで自分が癒されるとは信じなかったからである。


おお、わたしの同胞よ、

もしあなたがたが癒しを得るために、

目を向けるだけでよいとしたら、

あなたがたはすぐにも見ようとはしないだろうか。


それとも、不信仰のままで心をかたくなにし、

怠けて目を向けようとしないで

死ぬことを望むだろうか。」




『青銅の蛇』の蛇は、イエス様のこと。


毒蛇は、疑う、かたくなな心、不信仰、不従順にも

たとえることが出来ると思う。




『青銅の蛇』を見あげるだけで救われると、

毎週教会に通っていても、

真底信じてない時がある。


頭では信じているのだが、行動が伴っていない。




『青銅の蛇』


簡単な短い話だが、その奥義は深い。


時々、思い出そうチューリップオレンジ