レスリー・チャン(張國榮・張国栄・Leslie Cheung)スマイル -200ページ目

レスリー・チャン(張國榮)テレサ・テン合唱曲「Greatest Love Of All」1986

↓前記事の曲名がわからなかった

レスリー・チャン(張國榮)とテレサ・テン・ジョージ・ラムのYoutubeの英語曲の歌は、

http://ameblo.jp/lcing/entry-10033350561.html

ホイットニー・ヒューストンの「Greatest Love Of All」85年だったです。

1986年白金巨星耀保良で歌っていたものでした。


ホイットニーは、やっぱり上手い!聞きほれちゃった。
↓Whitney Houston 「Greatest Love Of All」
http://www.youtube.com/watch?v=YqMJuWkY7ag


この曲の詩は、とっても素敵なんですね。
題名から想像したのは、恋愛の甘い曲なのかと思っていたら全然違ったぁ。
曲は良く聴く曲だったけど、こんな詩だったなんてはじめて知りました。


自分を信じて1人で立って、自分を愛して生きよう!という自分への応援歌みたいな歌だったんだぁー。
こんな素敵な歌だから長くリクエストがあるんだろうな~!

ホイットニー・ヒューストンは、今ちょっと人気が落ちてヒット曲もないけど、また、この歌みたいに、ホイットニーには歌でがんばってもらいたい!!


If I fail, if I succeed At least I live as I believe
失敗しようと成功しようと自分の信じたとおりに生きよう


The greatest love of all
Is easy to achieve
Learning to love yourself
It is the greatest love of all
最上の愛 それを手にするのは簡単
ただ自分を愛することを学ぶだけ
自分自身を愛することが至高の愛につながるのだから


And if by chance, that special place
That you've been dreaming of
Leads you to a lonely place
Find your strength in love

もしも、夢に描いて掴んだ栄光の場所が
あなたを孤独の境地に導くものだったとしても
愛の中に自分の本当の強さをみつけて。


↑もう、この詩は、レスリー・チャン(張國榮)、あんたに良く読めって言いたいよ~。

テレサ・テン、ジョージラムと一緒にこの曲を歌ってたのにぃ~!


詩は↓のサイトさんから転記してちょっと解釈をいれてます。

英詩・英詞の森
http://poetic.exblog.jp
http://poetic.exblog.jp/m2006-10-01/#4706200

独自に和訳した英語の歌詞を対訳の形で掲載 (C)Haruhi Omori/大森 春日
by haruhiomori さんのサイトからです。

リクエスト募集中だそうです。

詩を日本語に訳してくださる方のサイトがあるなんて知りませんでした。
翻訳のお仕事の勉強のためもあるそうですが、ありがたいなぁ~。


○最上の愛 :: ホイットニー・ヒューストン
○Greatest Love Of All :: Whitney Houston


 私は信じている 子どもは私たちの未来だと
 彼らによく教え聞かせ 導いて
 そして示して 美しさは心の中にあると
 そう信じるのも 誇りがあれば容易くなると
 子どもたちの笑い声に
 私たちもそうだったことを思い出して

 誰もがヒーローを探している
 皆 尊敬できる人が必要なの
 私は望みどおりの人を見つけられなかった(私を導いてくれる人は誰もいなかった)
 孤独に取り残され寂しく一人ぼっち
 だから 自分に頼ることを学んだ(頼れるのは自分だけだと気づいた)

**
 ずっと前に決めたこと
 それは 他人の影を歩かないこと(他人を当てにして生きないこと)
 失敗しようと 成功しようと
 私は自分の信じるように生きる
 私から何かが奪われようとも
 私の尊厳だけは 決して奪うことはできない
 私は 最上の愛に包まれているから
 最上の愛
 それが私の中にあることに気付いたの
 (私の中に今までにない大きな愛があることに気付いたの)
 最上の愛 それを手にするのは簡単
 ただ自分を愛することを学ぶだけ
 それこそが 最上の愛

*Ref
**Ref

 偶然にも
 思いがけない特別な時間が
 あなたを一人ぼっちにするかもしれない
 そこで愛が持つ自分の強さを見つけて

レスリー(張國榮)友人フェイ・オン(王菲)とリー・ヤーポン(李亜鵬)「嫣然天使基金」

○フェイ・ウォンの娘の手術が成功、言葉も話し始める
新華芸能:「もうママって言えるんだよ」。李亜鵬(リー・ヤーポン)はこのほど、娘の李嫣ちゃんが言葉を話し始めた、と嬉しそうに伝えた。
王菲(フェイ・ウォン)とリー・ヤーポンは2005年に結婚。06年に娘の李嫣ちゃんが生まれたが、唇顎裂だった。二人は米国での手術費用を工面するため基金を設立、自らもディナーショーを行い費用を作った。07年3月、王菲は娘と再び渡米し、2回目の手術を受け無事成功した。リー・ヤーポンは言う。「医者が娘を検査したとき、突然大声で泣き出したんだ。僕は彼女の小さな手足を握りながら、心の中で『アメリカで治療することを決めたのは、正しかったんだろうか?』って考えた。涙がこぼれたよ」。
全ての手術は終わり、これからは回復への道のりが待っている。今は自分の仕事が忙しくて、娘はほとんど妻の王菲にまかせっきりだという。来年には一家三人で台湾で行われる基金のチャリティイベントに出席したいと希望を語った。【翻訳編集:JCBB(O.T)/ G-SEARCH】
http://news.livedoor.com/article/detail/3150610/


よく人生の運ってみんな公平にあるって言われるじゃないですか、良いことも、悪いこともあるけれど、それをプラスマイナスで照らし合わせたら、人間の運はみんな同じだって・・。
フェイ・オン(王菲)の子供のことを思うと、そういうこともあるんだろうな・・と、思ってしまいます。。。
一般人は、人気運がゼロのぶんだけ、何も心配のない家族で、地位も名誉も健康もお金あって幸せな人が沢山いるのでしょうけど・・。

フェイ・オンの人気運が子供の唇顎裂と引き換えになるならば、喜んでその運を差し出すだろうにね・・。歌は上手で才能もありヒットもあって、評価されて、カッコイイ人気者の旦那さんと子持ち再婚もして・・。何もかも持っている美男美女カップルだと言われた両親二人から産まれた女の子が、唇顎裂だったなんてね・・・。
何もかもあって世間からも恵まれているけど、その代わりの代償が子供に来たんだろうな・・。

芸能界では特別ランクで、怖いものなしの天下無敵のフェイ・オン(王菲)をもってしても、すべてが望みどおりになんていかないのが人生ですなぁ・・・。


香港の新聞にも頻繁に唇顎裂の病院の宣伝が乗っているくらいだから、中華圏でも手術できる病院が沢山あるのに、子供によくある「みつくち」なんでしょうけど、わざわざアメリカまで行って2回も唇顎裂の手術をしなければいけないのは、軽傷じゃないんだろうと推測できますが、手術をすれば直る病気ですし、今は医術が発達していて、大きくなれば目立つような傷は残らないですから、手術が成功したのならもう安心でしょう。親はそれでも女の子だから心配だろうけどね・・・。


でも、ちょっとこれ違うんじゃないのかな?↓
>二人は米国での手術費用を工面するため基金を設立、自らもディナーショーを行い費用を作った。

リー・ヤーポン(李亜鵬)がディナーショーをやったのは本当だろうけど、手術費用のためなのか?設立した基金から、ショーのお金を他の貧しい唇顎裂患者さんに渡すためなんじゃないの?
自分達用の手術費用ってのは、違うんじゃないのか?フェイ・オン(王菲)リー・ヤーポン(李亜鵬)夫婦ならアメリカに行って手術するのに他人のお金あてにしないでしょう。山ほどお金は持っているだろうに?北京に2軒豪邸持っているし、香港にも豪邸住んで、遊びに行く時の飛行機もファーストクラスなのに?わざわざ費用を工面するほど、唇顎裂の手術にお金はかからないでしょう。アメリカだからって少々費用がかかっても長者番付に乗るような億単位で稼いでいるフェイ・オン(王菲)には、はした金じゃないのか?

フェイ・オンとリー・ヤーポンと娘の基金が「嫣然天使基金」です。

レスリー・チャン(張國榮)とテレサ・テンの合唱英語曲 youtube

経典英文歌曲
テレサ・テン、レスリー・チャン(張國榮)、ジョージ・ラム(林子祥)が一緒に英語の曲を歌っています。

えーなんだっけこの英語曲の題名?
日本でも聞いたことある曲なので世界的にヒットした曲ですよね。
メロディはわかるけど、題名がわからないな?
曲の題名を教えてください~。

↓経典英文歌曲
http://www.youtube.com/watch?v=FTDxoCHPohc


テレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」の中国語バージョン
日本の歌の中国語バージョンは、かなり昔に聞いたくらいです。
日本のテレビの特集でも中国語では、まったく曲がかからないですね。

http://www.youtube.com/watch?v=N72dsXD2GdM



保存方法は↓を参考

レスリー・チャン(張國榮)のYoutube動画を簡単保存するソフト avi mpeg保存方法
http://ameblo.jp/lcing/entry-10028414735.html

レスリー(張國榮)「男達の挽歌」ジョン・ウー新作「赤壁」撮影中 金城武の諸葛孔明

金城武の撮影している撮影所は、レスリー・チャン(張國榮)は、ここには撮影に行ったことがないので、レスリーファンには関係ないけれど、ものすごーく余裕があったらちょっと行ってみたいな~。




金城武は、それなりになってるわー


金城武の隣は、魯粛の侯勇(ホウ・ヨン)


↓前記事 北京記者会見
http://ameblo.jp/lcing/entry-10033313345.html
http://ameblo.jp/lcing/entry-10033313720.html

レスリー・チャン(張國榮)「男達の挽歌」ジョンウー新作「赤壁」撮影

金城武、孔明役に意欲…ジョン・ウー新作発表 
中国三国志史上最大の決戦である赤壁の戦いを描く映画「RED CLIFF」(ジョン・ウー監督)の製作発表会見が10日、中国・北京市内で行われた。製作費約90億円の大作で4月14日にクランクイン。ジョン・ウー監督(61)は「歴史だけでなくヒューマンドラマ。友情、勇気、団結力をテーマにして撮影しています」とあいさつ。諸葛亮孔明役の金城武(33)は「小さいころから漫画を読み、ゲームをやって伝記を読んできた。ジョン・ウーと話して役をつくっていきたい」と抱負。2部作の予定で第1部は08年、第2部は09年公開予定。
(2007年5月11日06時00分 スポーツ報知)

http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20070511-OHT1T00042.htm

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金城武90億円映画で孔明演じる
 俳優の金城武(33)が日中などによる合作映画「RED CLIFF」(監督ジョン・ウー監督)に出演することになり10日、中国・北京で行われた製作発表に主演のトニー・レオン(44)らと出席した。三国志最大の決戦とされる「赤壁の戦い」を、アジア映画史上最大の7500万ドル(約90億円)をかけて描く。蜀の軍略家、諸葛亮孔明役の金城は「小さいころから三国志の漫画やゲームに触れてきた。有名すぎる孔明をどう演じるか、監督と話し合って作っていきたい」。2部作で、第1部は中国で08年7月、日本で同年公開を予定。
2007年05月11日付スポーツニッポン07年5月11日

http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2007/05/11/09.html


↓北京記者会見
http://ameblo.jp/lcing/entry-10033313345.html

ジョン・ウー監督「赤壁」製作発表 金城武 トニー・レオン 張震 チャン・フォンイー 胡軍

日本の記事では、金城武が主役ですね。
一応、主役は、ユンファと交代したトニー・レオン(梁朝偉)のはずでは?
もしかしたら、日本のスポンサーとの関係で、脚本をちょい変えて金城武中心にしたのかしら?
あいかわらず、金城武はかっこいいです~。

金城武→諸葛亮孔明、
トニー・レオン(梁朝偉)→周瑜
リン・チーリン(林志玲)→周瑜の奥さん
チャン・チェン(張震)→孫権
チャン・フォンイー(張豊毅)→曹操
ヴィッキー・チャオ(趙薇)→孫尚香 劉備の奥さん
フー・ジュン(胡軍)→趙雲
ヨウ・ヨン(尤勇)→劉備玄徳
ホウ・ヨン(侯勇)→魯粛











林志玲(リン・チーリン)のパンツ見えた写真に映っている。
曹操のチャン・フォンイー(張豊毅)とのギャップがぁ(笑


金城武の撮影している撮影所はレスリー・チャン(張國榮)は、ここに撮影には行ったことないので、レスリーファンには関係ないけど、ものすごーく余裕があったらちょっと行ってみたいな~。

レスリー・チャン(張國榮)の思い出とテレサ・テン「月亮代表我的心」

テレサ・テンの思い出の曲のエピソードには、レスリー・チャン(張國榮)が歌った「月亮代表我的心」への思い出が書かれていました。

レスリー・チャン(張國榮)の97年来日コンサートに行った人には、思い出深い曲でしたからね・・。
コンサート会場では、日本人はほとんどが一緒に歌えてなかったもんな~(笑初めて聞いた人達が多くて、それだけ中華の曲は、日本人に浸透してなかったんですよね。それは今も同じかぁ~。


中華映画には、いつも印象的にテレサ・テンの曲が使われていました。

レオン・ライ(黎明)とマギー・チャンの「ラブソング」は、そのまま原題も「甜蜜蜜」でテレサ・テンが印象的に使われた映画だったな~。


↓テレビ朝日テレサ・テンの思い出の曲のエピソード
http://www.tv-asahi.co.jp/teresa/

↓前記事
http://ameblo.jp/lcing/entry-10031724198.html
http://ameblo.jp/lcing/entry-10033306759.html

レスリー・チャン(張國榮)が影響された。テレサ・テンの5月8日

5月8日はテレサ・テン [登β]麗君の命日でしたね・・。

テレサ・テンは、いいなぁー立派なお墓があって。
お母さんがファンの為にも・・って、素晴らしいお墓を建ててくれたんですよね・・・。
毎年、命日にはファンが集えるよりどころがあるっていうのは違うだろうな。


お墓もなくて、香港ファン達が喧嘩して、分裂してイベントするしかなくなるのも、レスリー・チャン(張國榮)の人徳のなさ(笑)からくることなんだろうか~?。
人徳のない明星には、人徳のないファン達が集まるのだろうか(笑
私も人徳のない一人に入るんだけど~(笑


テレサ・テンの最後の担当ディレクターが本を出していました。
身近にいた女性なら、中国からテレサを見ている有田さんよりも生身のテレサのことを書いているのかな?と思います。
内容は、著者が8年間テレサ・テンを担当していた時のことようですが、死後の自伝だとしても、自伝は、こういう実際に本人と触れ合っていた人が書くのが一番良いような気がします。芸能人のインタビューじゃ、繕って本当の本心は言わないだろうし・・生身に触れていた人のほうが違いがわかるような気がします。

有田さんのように大局から見ることも大切だとは思うけど、明星に興味があるようなファンは、その人の実際の人となりが知りたい人の方が多いように思います。

有田芳生さん原作のドラマ化「テレサ・テン物語 [登β]麗君物語」は07年6月2日(土)にテレビ朝日放送されます。

台湾同時放送なんですよね。
中国でも放送されるようだし、桂林には、テレサ・テン公演まで出来るらしい。


●「純情歌姫―テレサ・テン最後の八年間 」(単行本)
鈴木 章代 (著) 価格: ¥ 1,890 (税込)

単行本: 254ページ
出版社: 角川書店 (2007/04)
ISBN-10: 4048839454
ISBN-13: 978-4048839457

1995年5月、42歳の若さでその生涯を閉じたアジアの歌姫・テレサ・テン。彼女が亡くなるまでの8年間を妹として交流してきた著者が綴る感動の記録。優しくて、純粋で、ひたむきな愛を捧げるテレサの姿が感動を呼ぶ!

[目次]
プロローグ 私たちの八年間;第1章 出会い1987;第2章 妹になるまで;第3章 思いやり、すれちがい;第4章 悲しい涙、さようなら;第5章 パリ日記;第6章 ふたりのテレサ;第7章 嘘がひとつ、悲しみがひとつ;第8章 お別れ1995;エピローグ 十年目の告白

さらに詳しく
四十二歳の若さでその生涯を閉じたテレサ・テン。最後の担当ディレクターとして、彼女の素顔にふれてきた著者がいま明かす “アジアの歌姫”知られざる衝撃の真相。

テレサさん、あのときそばにいられなくてごめんなさい――

テレサの墓前に参れるようになるまで、私には十年が必要でした。――中略―― 「テレサさん……」私は、テレサに話しかけました。十年目にして、初めて言えることや、どうしても訊きたかったこと、そして、謝らなければならないことの数々を、です。(本文より)
歌手として、チャイニーズとして、そして、ひとりの女として。
四十二年間の生涯をかけぬけたアジアの歌姫。
深い感動をよぶ愛と悲しみの回想録、ついに刊行!

言いたい放題です~レスリー・チャン(張國榮)と映画「コンフェッション」について

うーん、映画のあらすじや書評を読んでみて、今回見ようと思ってやっぱりやめたのは、
面白くなさそうだったから・・・。何これ?って感じです~。


レスリー・チャン(張國榮)が2003年3月20日にアドミラリティの映画館金鐘UAで見た映画が「コンフェッション」

↓前記事あらすじ
http://ameblo.jp/lcing/entry-10033124586.html
↓前記事週刊書評
http://ameblo.jp/lcing/entry-10033125149.html



>ポストモダンの「危険な精神」を見事に造形
> ポストモダンとは、テレビや映像だけが現実と錯覚され、
>その背後には何もないように感じられる状況を指した語である。
> 人格とは元来、表面と裏面が合体して一体となったものであるのに、
>両者が分離され、個々人が自分の表面と裏面を見失う──
>このこと自体が、今日的人格崩壊の本質なのである。

>バリスは自分の映像化された「表面」を憎悪する。
>テレビの人気者になった自分の成功を、成功と感じられない。
>それどころか、そんな自分をカスだと感じる。

↑なんかこの解説を読んでもういいやって思ったです。
まあ、本当はレスリー・チャン(張國榮)ファンなら見るべきだと思いますけど・・。この映画は、映画祭で賞を受賞しているんですよね。
脚本家「エリン・ブロコビッチ」の力もあってか、ジョージ・クルーニーの初監督作品としては、評価されているようです。

しかしね・・こういう映画を03年3月20日当時、鬱病だったレスリー・チャン(張國榮)に見せるって・・なんというか・・どういう気だったのでしょう?溜息だな・・。
レスリー・チャン(張國榮)本人がこの映画を見たいって言ったから見せました。

が回答なんでしょうけどねぇ。

鬱病の人間が見たいと言えば、何でもホイホイと映画を見ることをOKしちゃうもんなのかねぇ~?


原作の題名「Confessions of a Dangerous Mind」を「コンフェッション/人でも殺したい気分」と日本では翻訳しているが、映画の原題『Confessions of a Dangerous Mind 』を直訳すると「ある危険な精神の告白」


鬱病の人へは、この原作題名からしてまずいと思わないのか?
まずいと思った題名なら鬱病患者に見せる前に内容のチェックくらいしないのか?


アメリカの低俗テレビ番組で高視聴率プロデューサーとして活躍した、チャック・バリスの自伝が原作です。
表は、売れっ子TVプロデューサー、裏はCIA工作員暗殺者として暗躍したというお話。彼はなんと33人の暗殺に関与したと自伝で告白しているのですが・・嘘でしょう。落ち目になった芸能人のあがきと芸能界の裏話的なお話だそうです。結局、人気が落ちて這い上がれずにそのまま引退した人だそうで
「残したものは視聴率と死体」
というコピーがついて公開されています。

自伝なのに、書いた本人がCIA暗殺者だという荒唐無稽な嘘を書いてたら、自伝でも相手にされないわね~。当時は原作にある二面性の面白さよりも、低俗番組のプロデューサーが売れ線をねらって、また大衆に盛り上がりそうな嘘を書いたって捉えられていただけのようです。もう一旗あげようと再起を狙っての話題作りのためには、生い立ち説明のような自伝ではなく、センセーショナルな内容がないと浮上できない!と思って「実は暗殺者だ」という嘘を組みこんで書いたのでしょう。
芸能人チャック・バリス自体が世間から忘れられた今のほうが、フィクションの小説として面白く読めるようになっているようです。

テレビの高視聴率男だった司会者が今は映画がオオコケして、話題作りで取り上げられたいと思って自伝を書いて、その人の自伝からの映画・・。


レスリー・チャン(張國榮)もアイドル時代は、大もり上がりの同じように視聴率男だったでしょうけど、03年当時のレスリー・チャン(張國榮)は、出演した映画は、どれも興行成績がパッとしなくて、この伝記のチャック・バリスのように、一般から見た印象は、落ち目の芸能人だったわけです。日本人ファンは支持していたので、面子は保っていましたけれど、アイドル時代のようなCDや映画のヒットなんかはもうなかったわけです。

お金ではない良い作品に出演をしたいと思って映画に出ても、映画は、珠玉の作品・良い作品ではありますが、レスリー・チャン(張國榮)本人の演技は、映画賞への評価もされないという状況で・・。

この作者のチャック・バリスと同じように「過去の人になりつつある」実情でレスリー・チャン(張國榮)は、いろいろともがいていたのに、同じような状況の芸能人をあつかった内容の、こういう映画を見せてどうなのかしら?


専門家でないのでわかりませんが・・救いようがない隠隠滅滅の映画ではないとしてもですよ、この映画って、レスリーのことのみから考えたら、鬱病が悪くなるだろうと推測はできても、鬱病が良くなるような映画だとは、とっても思えないんですけどねぇ・・?


レスリー・チャン(張國榮)の病気は、精神的なことにかかわる病気だったんだから、回りにいる人が、新作映画で見る映画がどういう内容の映画なのかくらい、さらっとチェックしないんだろうか? 愛情無いよなぁ・・。
特にチャック・バリスの自伝が原作ならば、その本そのももを事前に読めるし、本の解説だけでも、読んでみてもいいわけで・・。どういう映画なのかが、わかるだろうに・・そういうこともしないわけなの?レスリーのことは、回りの人間は、その程度しか気にかけてなかったってことの表れなんだろうけどね・・。

鬱で具合悪い具合悪いが、日常になっているんなら、もう回りの人間もそういう日常鬱で具合悪いレスリーに飽き飽きしてたというか、慢性化してきていて、それが普通の毎日になってたんだろうとは思うけどね。普通の毎日だったから気にしなかったんでしょう。

この映画を見たからレスリー・チャン(張國榮)の病気が悪化して死んだとは思いませんし、そこまで短絡的に何か直結することだったとは思いませんが、この映画をレスリー・チャン(張國榮)に見せて、鬱病の病状が回復するだろうと思うレスリーファンがいるとは思わないんですけどね~。


友人の精神科で働いたことある看護婦さんに「鬱病患者が見たいなら何の内容の映画でも、前向きの意見ということで映画は見せるものなの?」か聞いてみた。
鬱病患者が、何かこうしたいという願いことを聞くのはOKだけど、内容がちょっとまずいような映画なら、その後の患者へのフォローアップができる体制がないならお勧めしないってことを言っていました。
お勧めできないような内容の映画でも、患者の意思としては、見たい映画なので、そこから良い方向に向かう場合もあるけれど、見たくて見た映画でも、そういう映画を見て、反対にダウンの精神の方向に向かう場合もあるわけです。映画を見た後に、もし、悪い方向に向かった時のフロー体制がきちんと出来ていないなら、もう少し違う映画にしたほうがいいんじゃないか?というアドバイスを患者にするのが妥当じゃないか?という話でした。

レスリー・チャン(張國榮)の回りの人間はフォロー体制が出来ていると思っていたんですかね・・?苦笑

病気も毎日過ごしていることだから日常として麻痺してたんだろうけどさぁ。


たぶん、レスリー・チャン(張國榮)がこの映画を見たいと思ったのは、理由としては、俳優から監督の初監督作品がどんなものか?ってことが興味あったのかな?と思います。監督がジョージ・クルーニー、製作総指揮:スティーヴン・ソダーバーグですが、監督のジョージ・クルーニーは、俳優だけど、この作品が初監督作品、おまけに映画賞まで受賞しているわけで。
レスリー・チャン(張國榮)も俳優から監督になりたいと長年言っていましたが(足掛け20年くらいですかね・・?)、ジョージ・クルーニーは、俳優から監督に早々となることが出来た人なわけです。そういう人の初監督作品を、レスリー・チャン(張國榮)も映画館で実際に見て観客の反応とかも知りたかったのだろうし、俳優が監督をするということに対して、どのくらいの技量が必要なのか腕を見たかったのかな・・?と思います。

本当は、ジョージ・クルーニーがプロデューサーで関わっていて監督降板で、仕方なく監督をすることになったようですが。
プロデューサーで関わっていたからか、後輩や友人をゲストで出演してもらっているので、ちょい役でゲスト出演している人も多いようです。レスリーも自分が監督で映画を撮る時は、ゲスト出演してもらいたい人のことも色々と考えていたのでしょうしね・・。どんな風にゲストを出すとかも参考になったのかもしれないし・・。


スティーブン・ソダーバーグは、『セックスと嘘とビデオテープ』『エリン・ブロコビッチ』『オーシャンズ11』の監督だけど、「愛の神エロス・2004年公開」でウォン・カーウァイ監督と一緒の仕事が決まっていたことからも、こっちにも興味があったのかしら?

当時は、03年20日が映画のオープニングだったから、芸能人がちらほら来ているので、レスリー・チャン(張國榮)と唐さんも宣伝用に招待券を貰って無料で行ったのだと思います。
ドケチのレスリーにはタダってことも、とっても重要な要素だったのでしょう(笑


こんなもん見ないで、ディズニーの「ファイティングニモ」でも見せろよ~と思ったっす。


どなたか、映画を見た人いますでしょうか?レスリーの鬱病という観点からの感想で教えてください。

多様な意見を聞いてみたいです。他力本願だな~。


映画を見てない私が言いたい放題ですみません。

レスリー(張國榮)が亡くなる前に映画館で見た「Confessions」原作

レスリー・チャン(張國榮)が2003年3月20日にアドミラリティの映画館金鐘UAで見た映画が「コンフェッション」です。

週刊書評から原作の書評も読んでみた。


『コンフェッション』/人でも殺したい気分 の原作の書評
↓これ
『コンフェッション』チャック・バリス・著
雨海弘美・訳 角川文庫 2003年7月25日刊
本体価格 705円+税ISBN:4-04-291901-4

『コンフェッション』/人でも殺したい気分

並木士郎

 チャック・バリスは1960年代~70年代にアメリカのテレビ界で活躍したプロデューサー&タレント。彼がテレビ界を実質的に引退する間際に出版した自伝がこれである。
 彼はまず、日本の『パンチDEデート』や『新婚さんいらっしゃい!』といったテレビ番組の元ネタでもある『デート・ゲーム』『新婚ゲーム』などのゲーム番組の企画で、プロデューサーとして業界に名を知られるようになった。順調に成功を続けて、人気番組『ゴング・ショー』では自ら司会もつとめ、タレントとしても抜群の知名度を得るにいたりテレビ界の寵児となった。
 調子に乗って1979年には『ゴング・ショー・ザ・ムービー』で映画にも進出。しかしこれは大いにコケた。続いて53歳で自伝(本書)の執筆にとりかかり、出版したが、はかばかしい反応は得られなかった。
 80年代半ば、実質的に本業を引退し、南仏で隠居生活を送るようになる。

 さて問題のこの自伝だが、有名タレントの自伝に期待される要素(番組製作の裏話、テレビ業界の実態、女性関係の告白)を満たしているにもかかわらず、出版当時、不当にも世の評判を得られなかったのは、とても事実とは思えないおふざけにページが割かれているためだということらしい。すなわち、無名時代にバリスはCIAに雇われており、テレビ界で華やかに成功していく裏で、秘密工作員として数々の要人暗殺を手がけてきたという「事実」が、他の事実と同じかそれ以上にくわしく記述されているせいである。
 CIAの工作員だったという「事実」の記述が本当なのか嘘なのかをめぐって、世間に激しい論議がまきおこることはなかった。はなからおふざけと決めつけられて書評にもまともに取り上げられず、本自体がそもそも売れなかったからだという。チャック・バリスが手がけたテレビ番組はいわゆる「低俗番組」で、大いに人気を得た反面、彼は低俗タレントの代名詞の扱いを受けるようになっていた。『ゴング・ショー・ザ・ムービー』のプレミア時もそうだったというが、当時の「映画評論家」や「書評家」からまともに相手にされる人物ではなかったのである。CIA当局もバリスが書いた「事実」を「馬鹿馬鹿しい」と一笑に付したという(もっとも、どのみち当局はどんな「事実」でも否定するに決まっているが)。
 時代はくだり、出版当時はまったく評判にならなかったバリスの自伝が今になって話題になり、こうして日本でも出版されるようになったのは、チャーリー・カウフマン(『マルコヴィッチの穴』で注目されたシナリオ作家)の脚本によって映画化されたためである。俳優のジョージ・クルーニーが初の監督をつとめることでも話題となった映画(本書と同題の『コンフェッション』)の撮影には、70歳をすぎたバリス本人も顧問の名目で参加したという。

 長い年月をへて陽の目を見ることになった直接のきっかけは映画化だとしても、ただ話題映画の原作というだけではなしに、バリスの自伝は今読んでこそ面白いと考えられる理由がある。
 この本の冒頭は、50歳になったバリスが自分を鏡に映し、肉体の衰えを嘆く場面である。腹立ちまぎれに彼は部屋にあった植木鉢にドロップキックをくらわす。次々と植木鉢をキックしていく。その一つがちょうど部屋に入ってきた家政婦の顔面にヒット。家政婦、即死。呆然とするバリス。
 と、ここで目が覚める。
 夢から覚めたバリスの現実はといえば、仕事と人生に疲れ、すっかり世間嫌いになっている世捨て人である。


評論家ども――見ず知らずの他人ども――は私と私が手がけたテレビ番組を、大衆のよこしまな欲望を煽るとしてたたきのめした。人様の恥を食い物にし、人間の心を手玉に取っていると痛罵した。

果てしない非難の嵐に、私はどう対処しただろう? 偏執症になった。これが私の対処法だった。慢性的な妄想に悩まされた結果、家に引きこもった。外に出るときは、かならず変装するようになった。

内向的で怒りっぽく、修道士のように暮らし、いつもふさぎ込んでいる世捨て人。

 バリスは家を出る準備をする。ホテルに行ってなじみのタクシー運転手をみつける。タクシーが発進すると、運転手が指令を出す。今からニューヨークへ飛び、モレッティという男を殺せ。

 空港に着いたバリスはチェックインカウンターへ。


「ニューヨーク行きのチケットが前払いで用意されてるはずなんだが」
「お客様の名前は?」
「サニー・シックスキラーだ」
  *引用者註:「サニー・シックスキラー」はバリスのCIA工作員としてのコードネーム

 ここまでが序章にあたる部分、文庫本で約20ページの分量。
 夢、愚痴、通俗スパイ小説風の展開――支離滅裂である。有名人の自伝だからというので実録的記述を期待した読者は、この20ページほどでもう嫌になるだろう。いっぽうチャッキー・ベイビー(バリスの愛称)の楽しい本を期待した読者は、陰気な愚痴だらけの文章に失望してさっさと投げ出すに違いない。
 けれども年月をへて、チャック・バリスの名はすっかり過去のものになった。著者のバリスにとってそれは不幸なことかもしれないが、書かれた本にとってはさいわいなことだ。年月はこの本からタレント本の先入観を洗い落とした。今やチャック・バリスの名を聞いたことすらない若い読者も多い。かつて世に知られすぎていた著者のイメージは薄れて、読者を本そのものへ純粋に向かわせることが可能になったのである。
 とりわけ、もとからバリスの知名度がほとんどない日本では、30年前にアメリカで人気者だったという主人公が実在の人物であろうと架空の人物であろうと、気にする必要もない。自伝なのか自伝を装った空想小説なのか、書かれている内容が本当なのか嘘なのか、そういったことを真剣に気にする者はまずいない。愚痴と妄想と事実が入り混じったこの本が単純に面白いかどうか、楽しめるかどうか、読者が気にするのはそれだけである。
 これが年月の効用というものである。

 内容を一読して感じられるのは、コンセプトが徹底してテレビ的だということだ。
 大きくいって内容は三つの部分から成り立っている。本業のテレビ番組製作の現場、裏稼業の暗殺工作員としての活躍、それにプライベートな女性関係である。これらが短く区切った(あたかもCMを入れやすいような)章立てで、並行してカットバック的に書かれていく。
 構成的には、ある部分を強調するためにある部分を抑制するといった配慮は行われていない。たとえば、テレビ業界をコミカルに描き暗殺場面をシリアスに描くといった、明暗強調のコントラストを意識した書き方はされていない。どの部分も同じようにシリアスであると同時にコミカルであり、番組製作のトラブルと暗殺工作のトラブルと女性関係のトラブルは等しい重要度でバリスを悩ませ、平等なペース配分で記述されていく。これはちょうど、視聴者を飽きさせないため(チャンネルを変えさせないため)細切れの見せ場の連続になるように編集した結果、全体としては奥行きのメリハリがないべったりした印象になるテレビのバラエティ番組の作り方とよく似ている。
 終盤にはちょっとしたクライマックスのような場面も用意されているのだが、それはいわばそこまで付き合ってくれた読者へのサービスみたいなもので、なくても別に全体への影響は大してありはしないというのも、テレビ番組の作り方と同じである。テレビの場合、作り手が気にかけるのは、番組を構成するエピソード群の一つ一つがその場限りで視聴者を引きつけるかどうかであり、意識的にかどうか、バリスの本も同じような書き方になっている。全体を貫くストーリーはあってないようなものだ。
 しかし、このような構成は逆にバリスという人間を浮彫りにしているようにみえてくる。表稼業と裏稼業とプライベート生活がまったく同じ調子で書かれているために、いったいバリスの「本当の顔」がどこにあるのかわからなくなるからである。
「本当の顔」などないのかもしれない。その場その場の細切れの反応の連続で上滑り的に生きてきたのがバリスという人間なのかもしれない。読者はそう思わせられる。これが書き手の狙いかもしれない。俺の人生はこうだった、まるでテレビの馬鹿騒ぎと同じだ、奥行きがない薄っぺらな人間なんだ、と。そう著者は暗に訴えているようにみえる。そこで、そもそも彼がなぜこの本を書こうと思ったのかがみえてくる。

 映画を監督したジョージ・クルーニーは、バリスが本当にCIAの殺し屋だったのかどうかについて、「わからない。でも、一つ確かなのは、彼はあの本を書いたとき、人を殺したい気分だったということだ」と言ったという(町山智浩の解説より)。まったくその通りだと思う。長年にわたり、番組の企画を売り込むのにも、女の子をデートに誘うのにも、その場その場の状況に応じ行き当たりばったりな選択を数限りなく重ねてきた結果、気がついてみると、バリスは慢性的な妄想に悩まされる偏執狂になっていた。誰がそこまで追い詰めたのか? 冒頭で触れられている「評論家」がバリスを追い詰めた張本人ならば、むしろ話は簡単だ。そいつらをやっつければすむ話だから。しかし「評論家」は手頃な対象として適当に引き合いに出されただけであって、長年にわたり彼の精神をじわじわ追い詰めてきた張本人ではない。
 バリスが捉われたのは、行き当たりばったりの結果だけを綱渡りのようにたどって生きてきた者がいだく実存的恐怖である。どこで間違ったのか、とか、どうすれば良かったのか、という問い自体が彼には成立しない。いわば台本なしのアドリブだけで生きてきた人生であり、修正しようにも元になる台本がはなから存在しないからである。
 直すべき台本もなく、歯向かうべき黒幕もなく、しかし現に追い詰められた自分がここにいる。加害者はどこにもいないのに被害者だけがいる。それを被害妄想と名付けたところで事が解決するわけでもなく、ストレスは限界に達する。いっそ、いっこうに具体像を結ばない復讐対象のかわりに、漠然と世間一般を敵と決めつけて、無差別にターゲットを狙う通り魔殺人なりバスジャックなりを決行する手もあるだろう。しかし、バリスが決行したのは自伝を書くことだった。通り魔にくらべればスマートなやり方であるが、ようするに、ブチキレたのである。誰でもいいから人を殺しまくって、自分も死んでやる。本の中で。
 自虐と殺意の詰まったブチキレの書、それが本書である。ただ惜しむらくは、バリスは狂気の人ではなかった。低俗タレントと呼ばれながらも根は善良な人であり、さらに根っからのテレビ人であった。それがわざわい(?)して、本書は一見、いたずら小僧が書いたエンターテインメントの仕上がりになった。俺は本気で怒ってるんだぞというバリスの叫びは、自ら施したショーアップ演出のせいで、誰の耳にも届かなかったのである。テレビ人の悲しい性というべきなのだろうか。
 もっとも、テレビの仕事を通じて大衆というものを知り尽くしていたバリスは、はなから世間の連中には何も期待していなかったようでもある。本書のラストは、まるでジェイン・オースティンの小説のラストのように結婚式のシーンである。未来に薔薇色の生活が待っているはずもないことはもちろん承知の上、このハッピーエンドには、否定も肯定ものりこえた不可知論者のあきらめが漂っている。

 最後に一言。本書の帯には「全てのマスコミ人に是非読んで貰いたい一冊だ」というテリー伊藤の言葉が載っている。なるほどマスコミ人が読めばそれなりの感慨があるかもしれないが、この本が暗に訴えている精神状況はマスコミ人だけに限定されたものではなく、もっと普遍的なものである。また、この本に書かれているテレビ現場の裏側は、今のテレビ視聴者ならすでに知っているか、でなくても容易に想像がつくていどのものなので、スキャンダラスな暴露話を期待する人はもっと実録的な本を探したほうがよいかもしれない。むしろ、テレビよりも小説が好きな人にこそ読んでほしいと思う。


週刊書評↓
http://www.so-net.ne.jp/e-novels/hyoron/syohyo/193.html