まだ🇲🇴マカオ日記の途中ではありますが……
今日はちょっと中断パー

さて、お札新札のニュースも落ち着いたところですが、
壱万円札が、渋沢栄一翁になると知った朝ポーン、とても驚きハッ
私が直ぐ一番に開いたサイトはPC、私の大好きな
🇹🇷トルコ研究家の作家✒️澁澤幸子さんのブログでした🖱️DASH!

というのも、実は澁澤幸子さんは澁澤榮一のご親戚………
というか、本当は澁澤の本家は、幸子さん達なのです✨✨

ブログでも、渋沢栄一のお孫さんの鮫島純子さんや、都内の『渋沢栄一資料館』も何度も登場しています。

が、こんなマニアックな情報(?)は、ネットニュースでも、私が探したところ、1つも見当たりませんでした💦

……今日は、いち澁澤幸子さんファンとしてマニアックな内容になります…てへぺろ💦


この数日の間に早くも澁澤栄一の家系図等もアップされていたりしますが………👨‍👧‍👦👩‍👦‍👦👨‍👩‍👦‍👦
私が見たものは何れも、幸子さんの家系は載っていませんでしたハートブレイク

また、澁澤幸子さんは🏫津田塾大学ご卒業で、津田梅子さんの新五千円札についてもお札、お祝い事なので拍手お祝いキラキラ
どんな事をブログで書いているのか知りたかったので何度も覗いたのですが💦、
新札発表の日は日記はアップされず、翌日も桜お花見の内容のみでした桜

………が、今朝🌅覗いたら、新札について書いてらっしゃいましたキラキラ

私はこれ、昨日書き始めたので✏️昨日の記事として読んでいただいたら………🙏

(先日テレビを見ていたら、元外交官の宮家邦彦氏の奥様は、お札新1,000円札の北里柴三郎氏の曾孫さんだそうで驚きましたハッ
ご本人が💬サラリと発言なさってましたが、……番組スタッフは勉強不足ですねムカムカ…?!)


私が🔰初めて澁澤幸子さんの本を買ったのは、20年近く前の📗【🇹🇷イスタンブール歴史散歩】で、その後イスタンブールシリーズを読み、その後、何年も経ってから📰📰📰📰
去年、🇨🇾キプロスに行くのに久しぶりに✒️澁澤幸子さんの本
📘「キプロス歴史散歩」を購入し、その後もブログを書くのに、頻繁に引用させて貰いました。

またその後も📺「オスマン🇹🇷帝国外伝」にはまり(笑)
その時代小説を描かれた📚渋澤作品を読み漁ったのはご存知かと思います。

でも、他にも読んだ本は何冊かあるのですが📚

一度、ブログで書こうと思っていたのが、
📙【澁澤龍彦の少年世界】(集英社)です。

以前も書きましたが、澁澤幸子さんのお兄様は、✒️小説家で🇫🇷フランス研究家だった、故澁澤龍彦氏です。
この本は、彼の没後10年くらい後に、妹から見た兄の、幼少の頃からのエピソードを書いたもので

🏫大学時代は、兄妹で🇫🇷フランス語の翻訳のバイトをしたり
(『日仏会館』も渋沢栄一創立)

戦時中は、埼玉県深谷市に疎開していた頃の話も詳しく書かれていて
中には、龍彦氏が赤ちゃん👶の頃、秋祭りの為に帰郷していた、渋沢栄一氏の膝の上でお漏らしをしたことも書いてありました(多分💦)

………札束新壱万円札の発表後、渋沢栄一が取り上げられ、改めてこの本読みたくなりましたが、
今、🇭🇰香港の日記を書くために、図書館で「🌍歩き方」を借りているので😓、今は無理かな………(笑)💦


ところで、実は私は6年前、たまたま手頃価格な物件が見付かった為🏡、深谷市に越して来ました。
家の前は深谷ネギのネギ畑が広がっています(笑)

深谷は渋沢栄一の出身地であり、

一昨年は👑天皇陛下が、渋沢栄一の生家にいらっしゃるというので、見に行きましたランニング
最後は街道沿いで、一瞬ですがぐっと近くで皇后美智子様を拝むことが出来ました、さようならキラキラバイバイキラキラ
とてもお綺麗で神々しく✨聡明なオーラが伝わってきて、感動しました~✨✨

私は深谷に引越してくるまで、『澁澤榮一』がどういった人なのかは殆ど知りませんでしたが

毎月📰市の広報や回覧板には、渋沢栄一の言葉が掲載されたり、
ちょうどその頃、🏛️富岡製糸場(群馬)が世界遺産になり、
渋沢栄一が富岡製糸場の設立にも貢献した話が説明され(初代場長は、渋沢栄一の従兄弟)
色々と興味を持ち、市内にあった関連施設に一人で行ってみたりしました。

東京駅や迎賓館などの煉瓦を作っていた
🏭日本煉瓦製造会社旧事務所は、
明治21年に建設された日本初の機械方式による
ドイツから輸入した当事最新式のホフマン輪窯を使って製造しており
当時は🇩🇪ドイツ人技師が事務所兼住居として使用し、現在(5年前)は資料館として、金曜日のみ公開

(利根川で、東京まで煉瓦を運んでいたんだそうです)

🏡こちら誠之堂は↓、
大正五年に渋沢栄一の喜寿を祝ってケーキ
当時の第一銀行所有の東京府荏原郡玉川村瀬田(現:東京都世田谷区)の清和園に建てられ
平成11年に世田谷区から渋沢栄一出身の深谷市に移築されました。

天皇皇后両陛下も、渋沢栄一の生家にいらした日に、訪れました。

その隣には、白い壁に青緑のスパニッシュ瓦屋根、五連のアーチが印象的な大正15年に建てられた南欧風建築の清風亭があります🏠

そして深谷図書館では、
『あの、大谷翔平選手や、根尾選手の愛読書「論語と算盤」』と渋沢栄一の著書が紹介されています📚


………でも私が、澁澤幸子さんが親戚だと知ったのは、半年くらい前で(笑)、幸子さんのブログを読むようになってからでした💦

それも最初は🇨🇾キプロスに関する記事や、🇹🇷トルコの記事ばかり過去に遡って読んでいましたが、
日常のブログを読んでいると、頻繁に集ってらっしゃる🍴ボスポラスハサンでの親戚の会や、お墓参りの記事を読んで

「えっ………?びっくり………えーーーーポーンポーンポーン‼️」
と驚き、
それから【澁澤龍彦の少年世界】などを読んで更に驚いた次第です。

初めて🔰渋沢栄一に興味を持ち(笑)💦、
深谷にある🏛️【澁澤榮一記念館】に行ったのも、幸子さんとの関わりを知りたくて、初めて行きましたランニングDASH!DASH!DASH!DASH!

………が、展示品の中には、残念ながら幸子さんに関するものはも見当たりませんでしたがDASH!
調べてみると、平成12年にこの記念館で講演したことがあり、 
深谷図書館では、その時の講演内容を纏めた小冊子がありました。

『澁澤龍彦の少年世界』に載っていた田舎の話とほぼ同じく、
私が数ヶ月前に読んだ中、覚えているのは、

お祖父様の家は………🏠
🛩️B29の標的になるのではないか? と村民が心配する程大きく、まるで軍艦のようで
2階は養蚕をしていたこともあり、200畳程の大きさで、大人が自転車に乗っていたとか?!🚴

土地も、現在のバス停🚏🚌3区間分くらいとあり、スケールが大きすぎて、ビックリハッ

ですが、残念ながら戦前には、既に幸子さんのお父様は東京に出てしまった為、
戦時中の疎外の後は、お盆やお正月等に帰郷するくらいになってしまい、数十年に解体されてしまったようです。

渋沢栄一の生家が「中の家」と呼ばれるのに対し、
幸子さん達のお祖父様宅は「東の家」と呼ばれていたそうで、
幸子さんの以前のブログによると

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最も財をなしたのが、私の父の生家「東の家」で、近隣では“大澁澤”と呼ばれていました。
三代目澁澤宗助の時代に、一族の「中の家」の家運が傾いたのを助けるため、宗助の弟の元助が「中の家」に婿入りし、その息子として生まれたのが澁澤栄一です。

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とあり、
兄・澁澤龍彦(龍雄)氏は「東の家」八代目

その小冊子に乗っていた家系図はこちら↓

幸子さんのご先祖様、宗助さんは(何代も続いていて誰だかわかりませんが💦)、
ヨーロッパで蚕の病気がひろがり生糸がとれなくなった慶応元年、
宗助は横浜で蚕の卵を🇫🇷フランス、🇳🇱オランダ、🇮🇹イタリアなどに輸出し、日本経済にも大いに貢献したそうです。

私は年末に横浜に行った時、「シルク博物館」を見掛けましたが、もう閉まってました。
きっと、渋沢家の事にも触れているんでしょうね?
次回横浜に行くときは、是非とも訪ねてみたいです!

もっと書きたい事もありましたが、とにかく
深谷の立派な偉人✨渋沢栄一が✨、全国区で有名になり、とても喜ばしいです。

新札発表の翌日は、各都道府県の新聞📰で
「渋沢栄一は、ここ○○県とゆかりがあり………」と報道していた程、
本当に沢山の近代化に貢献していたんですね。

彼は🇨🇳孫文と交流があったり、
あの発明王🇺🇸トーマス💡エジソンの誕生日パーティーに招かれたり…と、とにかく凄い人であります。

また、「資本主義の父」とはいえ、富が一極に集中してしまうのに反対した為、
その分私財は社会に還元したので、今までは財閥のように、あまり注目されていませんでしたが、
こういった事もきちんと、報道して欲しいです。

………と言いつつ、まだ私も渋沢栄一の著書は、読んだ事がないので(笑)
今度読んでみようと思いました💦