徳川家斉の将軍在職は長期政権であった。
 
前半は松平定信(1759~1829)の寛政の改革(1787~1793)がおこなわれ、フランス革命(1789年~)も日本でこの家斉将軍の時代に起きた。
1792年から93年にかけて、大黒屋光太夫の帰国とともに、日露会談。
定信は家斉の将軍就任に批判的で、寛政の改革の時代に、家斉の実父・徳川治済を「大御所」とするかどうかの問題で家斉と対立し、失脚。
定信失脚後は将軍自ら政治をしたらしい。
 
在職期間の後半は主に文化・文政時代(1804~1830)から天保初期まで。
家斉の時代、西郷隆盛(1828~1877)と大久保利通(1830~1878)が生まれた。
大目付の一色由良之助が「闇奉行」として、秘密裏に多数の「悪人」たちを斬っていた模様。闇奉行は家斉の悪政を正そうと切腹したようだが、それは聞き入れられたかどうか。
光太夫が没した1828年にシーボルト事件が起きた。
シーボルトが追放された1829年に松平定信も没した。
政権末期に天保時代に入り、天璋院篤姫(陰1835/陽1836~1883)、福澤諭吉(1835~1901)、坂本龍馬(1836~1867)が誕生。
1832年には鼠小僧次郎吉が処刑されたが、北町奉行の榊原忠之が密かに生かし、密偵にしていたという説もある。
この時代から江戸では仕掛人、仕置人、からくり人、仕事人などの闇の稼業が多数、出現することになる。幕府とこれら裏稼業の対決は、次の家慶の時代に壮絶を極めることとなる(しかし、幕府、奉行所が一部で仕事人を利用していた形跡もある)。
1837年、大塩平八郎の乱の年に将軍の座を家慶に譲った。
『八丁堀の七人』によると大塩の乱の直後、若年寄の悪政に抗議して北町奉行の与力・同心計7名が丸腰で江戸城に入った模様。その後の仔細は不明。
家斉の弟・松平右近が隠密行動をしていた。家斉のむすめに『照姫七変化』の照姫がいた。
1841年没。『必殺仕事人V風雲竜虎編』では家斉は若いころに出会った女と45年ぶりに再会。すると出会ったのは1796年だったことになる。
 
まとめると、家斉の治世の初期は松平定信が寛政の改革を進め、隠密同心を組織し、長谷川平蔵が火盗改の長官になったが、改革の行き過ぎも問題で喜多川歌麿が事件に巻き込まれた。文化・文政時代には八王子代官が不正を働き、暁蘭之介が切腹覚悟で斬り込み、小田切土佐守が助命を老中に願い出た。シーボルト来日と前後して仕置人などの裏稼業が増える。闇奉行、夢之介、家斉の弟・松平右近やむすめの照姫が悪人を成敗していたが家斉自身の悪政は続き、闇奉行は切腹。家斉隠居後、八丁堀の七人が丸腰で江戸城に乗り込む事態に發展。家斉死去当時、中村主水と影太郎、お玉が裏稼業をしており、直後に天保の改革が始まった。
 
家斉の治世は田沼時代の浪費社会への反省から松平定信による引き締め政策がおこなわれたものの、「水清くして魚住まず(白河の清きに魚も住みかねて)」が問題ということで文化・文政時代に田沼時代の「もとの濁り」が復活。これが悪性を生み裏稼業と幕臣の隠密行動が入り乱れた。家斉没後、家慶が天保の改革で3度目の引き締めをおこなったが、これも作成として描かれ、仕事人や遠山金四郎が逆風の中で抵抗。幕政の改革路線も反改革路線も効果がなく、家慶没とともに黒船が来航し、時代は幕末に移って行った。
 
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2012年9/13
 
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