徳川家歴代将軍1~5、6~1011~15

初代・徳川家康(トクがはいへやす、1542~1616、在職1603~05、大御所1605~15)
江戸幕府(1603~1867)の初代将軍。幼名は竹千代。
たった2年で将軍職を息子の秀忠に譲ったが、大御所として権力は続き、本土に来た琉球王を相手にして偉そうにしていた。
徳川家康は陰暦で1542年末、陽暦で1543年初めに生まれたようだ。

 

第2代・徳川秀忠(~ひでただ、1579~1632、在職1605~23、大御所1623~32)
1579年生まれとの記述もある。
家康と家光に挟まれて影が薄いようだが、20年近く将軍を勤めたのは秀忠が最初である。とはいえ、将軍になっても大御所・家康の影響力が強かったようで、名実ともに天下人(てんかびと)となったのは家康の死後ではなかろうか。
時代劇では事実上、1615年の大坂(>大阪)夏の陣までが戦国時代のように扱われる。
柳生一族の陰謀』では元和9年(1623年)に死去したことになっている。

 

第3代・徳川家光(~いへみつ、1604~1651、在職1623~51)
家康と秀忠が戦国武将であったのに対し、家光は江戸時代に生まれた将軍の第1号。
武家諸法度、参勤交代など、幕政の基礎を築いた(『大辞泉』より)。
『将軍、家光忍び旅』によると1634年に上洛しており、そのとき、影武者をカゴに乗せて、自らは素浪人に化けて徒歩で歩いていた。江戸に戻っても町中に出る癖はなかなか抜けなかったようだ。
庶民の味方のようであったが1637年の島原の乱を境にキリシタンを弾圧。『大奥』ではキリシタン関係者から命を狙われたこともある。
家光の晩年には弟の梓右近や甥の松平長七郎が江戸城下で生活していたようである。
└→補足

 

第4代・徳川家綱(~いへつな、1641~1680、在職1651~80)
この将軍の時代、江戸に影の軍団が出現し、背後に家光の正室だった千愁尼(本理院孝子)がいたらしい。
家光から家綱の時代、松平長七郎が江戸で、悪人を斬りまくっていた。忍び旅をしていた家光から影響されたか。この傾向は光圀、続いて吉宗に受け継がれる。

 

第5代・徳川綱吉(~つなよし、1646~1709、在職1680~1709)
『水戸黄門』では綱吉が光圀に何度も全国行脚をさせていたが、何度やっても各地で問題が生じていたところを観ると、世直し旅は根本的な解決になっておらず、光圀と対立していた柳沢吉保は光圀の没後も健在だった。光圀の漫遊は綱吉と吉保が光圀を江戸から離しておくための工作であった可能性もある。
└→補足

 

 

 

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