大坂幕末散歩3 夕陽丘 ~伊達家・陸奥家墓所跡と夕陽丘命名の地~ | 京一花日記帳

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大坂幕末散歩3です。 

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大阪城を後にして、夕陽丘(ゆうひがおか)へやってきました。



このエリアでは、たくさんの幕末史跡と出会うことができます。

まずは、「稱念寺(しょうねんじ)
そこは、伊達家・陸奥家の墓所があった場所でした。
陸奥家墓所といえば、坂本龍馬氏の盟友、陸奥宗光(陽之助)氏が埋葬されたお墓です。
また、宗光氏の実父・伊達宗広氏の建てた隠居「自在庵」跡地でもあります。

<陸奥宗光(陽之助) (1844年-1897年)>
天保15年(1844年)、紀伊和歌山城下に生まれる。
紀州藩の重臣であり、国学者であった実父・伊達宗広氏の影響で、尊王攘夷思想をもつようになる。
14歳ごろ、江戸に出て、儒学者・安井 息軒(やすいそっけん)氏、水本成美氏のもとに学び、
尊王攘夷活動の中で坂本龍馬氏、桂小五郎氏、伊藤俊輔(博文)氏等と交流を深める。
20歳ごろ、勝海舟氏の弟子となり、神戸海軍塾で学ぶ。その3年後には、龍馬さんの海援隊に加わり活躍した。
その直後、龍馬さんが近江屋にて暗殺されると、その主犯者が紀州藩士・三浦休太郎氏と思い込む。
1868年1月1日、海援隊・陸援隊の隊士ら16名で、京都・天満屋に滞在中の三浦氏を襲撃、
護衛していた新選組隊士らと戦った。(天満屋事件)

維新後は、県知事や地租改正局長などを歴任するが、薩長の藩閥政府に憤慨し、和歌山へ帰る。
西南戦争時には投獄され、それが明けると、伊藤博文氏の勧めで欧州留学へ。近代社会の仕組みを猛勉強した。
2年後帰国し、外交官としての活躍が始まる。宗光氏はとくに、不平等条約の改正に力を尽くした。
明治27年(1894年)、イギリスとの間に日英通商航海条約を締結、
幕末以来ずっと日本が苦しんできた、治外法権の撤廃に成功。
その後、不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で条約改正(治外法権の撤廃)を成し遂げた。

明治30年(1897年)、肺結核のために死去。享年53歳。この、夕陽丘の地に埋葬された。
(説明書き、ウェブページを参照)



宗光氏、明治維新の前と後では、まったく別の人生を生きられたことがわかります。
明治維新は、国だけでなく、個々の人々の人生をも維新したのですね…
「外国と対等な国」日本は、この陸奥宗光氏の外交の才と、宗光氏・関係者の方々の影の血のにじむような努力のお陰で、誕生したのですね。

ではなぜ、紀伊和歌山の陸奥家のお墓が、ここ夕陽丘にあったかというのが、ちょっと面白いのです。
説明書きによると…

陸奥宗光氏の実父、伊達宗広氏は、紀州藩内で政敵により蟄居させられましたが、赦免後脱藩して(!)、おもに京都で勤王活動を行ったという、これまた志ある方でした。

そんな血気盛んなイメージの一方で、鎌倉時代初期の歌人、藤原家隆(ふじわらのいえたか)氏を敬愛するという一面もありました。
明治初期に、家隆氏の眠るこの地を訪れた宗広氏は、この地をたいそう気に入り、隠居「自在庵」を建てました。
そして、今後、伊達・陸奥家一族の墓地はここだ!と定めたのだそうです。

※稱念寺から歩いてすぐのところにある、藤原家隆氏の眠る「家隆塚(かりゅうづか)」



<藤原家隆 (1158年-1237年)>
藤原定家と並び評される鎌倉初期の歌人で、都で活躍した。「新古今和歌集」の撰者として有名。
後鳥羽上皇に忠誠を尽くした。
嘉禎(かてい)4年(1236年)、病により出家、この地に「夕日庵(せきようあん)」を結んで余生を過ごした。

↓ 塚の頂上にある、「五輪塔(ごりんとう)」 



高さ2.5メートルもある、立派な五輪塔です。
陸奥宗光氏と懇意にしていた、原敬氏が、宗光氏に頼まれ、ここに設置したといわれているそうです。

伊達宗広氏、自分の尊敬する歌人を追いかけていって、その方の墓地のある場所に家を建て、
その方のお墓のある地を、「一族」の墓所と決めるなんて…すごすぎませんか… (笑) 
息子の陸奥宗光氏はじめ、一族の方々はどう思ったんでしょうね。

「え、私はそこまで興味はないんやけど…これからお墓そこになるの!!?」みたいなことにはならなかったんでしょうか。

しかし、宗広氏の願いは長くは続かず、この伊達家・陸奥家のお墓は、昭和28年(1953年)に、お孫さんによって、鎌倉市の寿福寺に改葬されました。


ではなぜ、お孫さんは、わざわざお墓を、これまた縁のない「鎌倉」へ改葬したのか…?そこには、大きなドラマがあることがわかりましたが、また別の機会に。

宗広氏は、自在庵で隠居生活を始めましたが、明治5年(1872年)に体調を崩して東京に移り住みます。
息子・宗光氏は、明治10年(1877年)に宗広氏が東京で亡くなると、本人の遺言通り、夕陽丘の、この自在庵にお墓を建てました。
また、そのお墓の傍らに、宗広氏の生涯と事績を顕彰する漢文を書いた碑「夕陽岡阡表(ゆうひがおかせんぴょう)」も建てました。

その後、お墓は鎌倉に移されましたが、「夕陽丘阡表」、またその他お墓の傍に建てられたものは、そのままここに残りました。
そして、お墓の鎌倉改葬の少し前にこの地に移転してきた「稱念寺」によって守られてきましたが、平成元年(1989年)、外からでも見られるようにと、道に面する場所に移されたのだそうです。



●向かって右・・・「夕陽丘阡表
●向かって左・・・宗光氏の死後、原敬氏が、宗光氏の10年忌に彼を偲んで建てた碑。
原敬氏は、宗光氏が外務大臣の折、外務次官を務めていました。原氏が宗光氏を敬愛していたことがよくわかります。
●真ん中・・・「清地蔵(さやじぞう)」
宗光氏の愛娘・清子さんは、わずか二十歳でこの世を去りました。
宗光氏が彼女の死を悼み、等身大の地蔵を墓前に建てたのが、この清地蔵なのだそうです。

そして、これらのお隣には、



「夕陽岡(夕陽丘)命名の地」石碑、があります。

「夕陽岡」という地名は、伊達宗広氏が、敬愛する家隆氏の和歌にちなんでつけたのだそうです。
※現代では「夕陽丘」という字が使われています。
そのもととなった家隆氏の和歌が、家隆塚に飾られていました。



~ 契りあれば なにわの里に宿り来て  波の入日を 拝みつるかな ~

建物が立ち並ぶ現代では想像しがたいのですが、かつてこのあたりは、大阪湾に落ちる夕日を眺める絶好の地であったそうです。
家隆氏も、海に落ちる夕日を見て、この歌を詠まれたのですね。


*おまけ*
この地から見える夕日が本当に美しかったことを示す?ことが、もうひとつ…
この地には、もと薩摩藩家老であり、維新の十傑の一人、小松帯刀氏もまた、埋葬されていました。

<小松帯刀 (1835年-1870年)> 
薩摩に生まれ、21歳の時、薩摩国吉利領主であった小松家の養子となり、家督を継ぐ。
病弱でありながら、人柄・頭脳・柔軟な思考、そのすべてを持ち合わせていた帯刀氏は、
藩主島津久光公の側近に取り上げられ、弱冠27歳にして、家老に昇格。
人望の厚い帯刀氏は、藩主と、西郷隆盛氏や大久保利通氏らとのパイプ役を果たす。
元治元年(1864年)には、幕府の神戸海軍操練所が解散になり、塾生30余名を大阪の薩摩藩邸に引き取った際、塾生の一人であった龍馬さんと出会い、親友となる。
慶応2年(1866年)の薩長同盟は、京都の帯刀氏屋敷において、帯刀氏と龍馬さんの立会いのもとで成立している。
明治になり、要職に就くが、わずか3年後の1870年、参与として在勤していた大阪で、皆に惜しまれながら病死。享年36歳。(書籍・ウェブページ参照)



これだけでも、帯刀氏が、薩長土肥、さまざまな立場の人々に、深く信頼されていたことがわかりました。
薩摩藩の西郷氏・大久保氏、ましてや浪人に過ぎなかった龍馬さんが、幕末史にここまで大きな功績を残せたのは、その陰で、薩摩藩家老という身分を持った小松帯刀氏の支え・協力があったからこそ…
明治維新は、帯刀氏の存在抜きではありえませんでした。
(ちなみに、帯刀氏と龍馬さんは同い年)


帯刀氏は、没後、まさにこの、伊達家・陸奥家墓所のあった場所の近くに、埋葬されたのだそうです。
説明書きによると、薩摩藩士の一人が、大久保利通氏に、
「(帯刀氏の)墓陵は天王寺村之内家隆塚有之夕陽の岡ト申ス所、摂海見はらし至極眺望宜敷所二御座候(略)」と書いて送った書簡が残っているということです。
それを受けて、大久保氏、五代友厚氏らが、お墓詣りにこの夕陽丘を訪ねています。

この地への埋葬は、ご本人の希望であったのでしょうか…?
そうでなければ、帯刀氏のような方を埋葬するに相応しい場所を、関係者の方々は頭を悩ませて考えたはず…

それで最終的にこの地を選ばれたとしたら、やはり書簡にあるように、夕日の綺麗なこの場所で眠っていただきたいという、お心遣いがあったのでしょうか。
そうだとすると、当時この地から見える夕日は、本当に素晴らしかったのでしょうね…!

もともと病弱でありながら、新しい日本のために命を削って活躍された帯刀氏…
この地での時間が、心安らかなものでありましたように。
数年後の明治9年(1868年)、帯刀氏のお墓は、地元鹿児島県に改葬されました。