説明の技術といった、コミュニケーションの上達に焦点を当てた書籍やセミナーは枚挙にいとまが無い

人間が、集団の中で生きる個人としての生き物(社会の中で自己を生存させる)である以上、良く聞けて、良く話せるのは、必須条件であるにちがいない

しかし、ではなぜこれほどまでに重要度が社会全体で子供から老人にまで広く認知されているにも関わらず、下手な人、足りない人がいるのか

量と質に分けていえば、私は質の方にかなりの比重が傾くのではないかと考えている

量には、圧倒的な差をつけている様な人たちは、あまりに少ない人もあまりに多い人も、ほぼいないのではないかと思うからだ

質の面では、先ず人生で一番初めの対話の相手であろう両親がどの様な言語で、どの様な話し方で、どの様な内容の会話をしてきたかが、幼少期における脳(コミュニケーションの能力の優劣を司る)の発達に大きく関係していると思われる

しかし、同時にこの様な物心つくまえに勝負が決まる物でもないと思う

意識せずとも質の高い会話を聞き流していたのは、確かにアドバンテージがある

しかし、英語で今はやっているスピードラーニングのように聞き流しているだけでは、言語は発達しないのではないかと私は考えている

一つの例をあげるなら、幼い頃から洋楽をひたすら聞きまくっている人に何人もあった事があるが、聞くのと話すのは大違い
聞き流しているだけでまともな発音や、文法が出来る人にまだであった事がない

つまり、会話の技術というのは実際に口を動かす鍛錬によって磨かれて行く物だと考えている

そのコミュニケーションの、最も高度な応酬が、私は交渉であると思っている

両者の、コミュニケーションに参加する意図が明確であり、さらに違う結論を求めている両者が、妥結点を探す為に、表情、空気、間合い、思考、言語、体の全てを使って、自分が欲しい物をとってくる

その交渉のプロフェッショナルが、言っていた
彼女は、国際舞台で日本の国益を守る為に、首脳会談などで総理に付き添い、負けないコミュニケーションをするのが仕事だ
『どんな小さな会話、挨拶であったとしても、その会話のゴールをきめてそこに行くために頭をフル稼働させるの』
『到達するまでは、いつまでも粘るし、到達したらさっさと切り上げる。これをどんな時も誰とでも意識して繰り返すだけよ』

ふむ。後天的であり、かなり質を意識する事がコミュニケーションの極意である事は間違いなさそうだ