初夏の香りが漂い始めた7月末。その日は朝から曇り空だった。前日であれば夕方六時以降も暑さを感じる日差しがまだ差し込んでいたが、夏特有の厚い雲が日光を遮り、薄暗い家路になっていただろう。

 警察に少女の帰宅が遅いと一報があったのが夜九時。夏といえども真っ暗な時間だった。行方不明になったのは中学一年生の少女で、塾から出たところで消息が分からなくなっている。今時には珍しい真面目な少女だった。たとえ飲み物を買うためにコンビニ寄ったとしても必ず両親に連絡をしていたらしい。そんな少女が普段の帰宅時間である七時をまわっても連絡一つなく帰ってこないということで両親が通報した。

 駆け付けた警察官曰く、父親は見るからに狼狽えて話にならないのに対して、母親は冷静に対応してくれていたらしい。娘と同じく母親もまめな性格らしく、その日の娘の服装から、塾の帰り道、学校と塾での交友関係まで必要な情報を警官が来るまでにまとめていてくれたらしい。

 だが、そんな母親の努力もむなしく、警察が二百人規模で捜索に当たってくれたが少女が見つかったのは行方不明になってから三日後の事だった。

 しかも、最悪の状態で……

「……こちらになります」

 白い布を被されていたのは、二人がこの三日間ずっと会いたいと願っていた人物と同じ背格好をしていた。

「ご確認をお願いします」

 そう言って案内してくれた婦警が顔の布をあげてくれる。だが、そこにあったのは自分たちが探し求めていた顔と全く違っていた。

「……うそだろ」

 父親の絶望した声がポツリと零される。母親も確認するように婦警を見た。

 まだ三十手前だろう若い警察官は瞳を濡らし、涙を我慢しながら一生懸命伝えた。

DNAの結果……ほぼ、間違いないだろうとのことです」

 父親にも、母親にも見覚えのない顔があった。赤黒く腫れあがった顔は元の輪郭が分からない。DNAなんて目に見えないところを言われても実感がわかなかった。

 母親は膨れ上がった顔を撫で、体をゆっくりと辿り、右腕で止まった。顔と同じく、肌は変色していて所々切り傷のようなものもある。そのため普段は薄っすらとしか見えなかった傷跡が白く浮き上がっていた。

「お父さん……この子は、カエよ」

 母親に言われて父親も右腕の傷を見る。娘が小学校一年生の頃、初めての夏休みに一緒に作った工作で誤って付けてしまった傷跡だ。忘れるわけがない。白い腕から血を流してワンワン泣く我が子を急いで病院に運んだ。

 小さな怪我でも泣いていた子供だった。

「カエーーーーーーー!!!」

 どうして助けてあげられなかったのか。きっと大声で泣いていたに違いない。

 父親の後悔と悲しみが娘の名前にのって部屋中に響いた。

 いつも冷静に対処していた母親も、この日ばかりは唇を血で滲ませて静かに泣いていた。

「……絶対に、ゆるさない」

 その震えた重い言葉を共にいた婦警は忘れられないという。

 

 

 それから一か月ほど経ち、犯人が判明した。

 五人組の少年グループによる犯行だったらしい。全員十五歳以下の未成年だったそうだ。

「どうしてだ!カエは死んだのに!殺されたのに!!」

「…………」

 五人は裁判の結果、五年から八年の懲役が科せられた。

 二人の娘が奪われたのはその先にあっただろう数十年分の人生だ。それに対して五年という判決に両親は納得できるわけがない。

父親は娘の遺影の前で泣き崩れた。母親はその様子を静かに見ている。

(有期刑……仮釈放されるのは三年後くらいかしら……)

 少年たちの更正を期待された少年法による減刑のためによる判決だった。検察、警察からは同情と共にこれが最重度の判決だと二人は説明された。

 更正のため。

 その言葉を母親は何度も頭の中で繰り返す。

「……あなた。話があるの」

 悲しみで衰え弱った父親は、妻を振り返る。同じように疲れ切った顔色は少し彼女を以前より老けさせていた。だが瞳は強い光を放っている。彼女が何か強い覚悟をしたときに見せる表情だった。カエを身籠って婚約指輪を差し出してきたときを思い出す。

 自分が断っても産む覚悟を彼女はしてくれていた。今回も、自分は頷くことしかできないだろうことを感じながら、父親も覚悟をもって話を聞いた。

 その日の彼女の言葉を、彼は一生忘れない。そして、止められなかった……止めなかった後悔がその後の人生を大きく左右することにもなる。

 

 

 中学一年女学生の暴行殺人事件が裁判も終わり一段落してから三年が経った。そんな事件があったことなど当事者以外は忘れていたのだが、まだ終わっていなかったことを知らせる事件が発生する。

 当時十五歳だった少年たちは十八歳になっていた。事件が殺人だっただけに、少年たちの更正を願って社会は彼らの経歴を目隠しすることにした。それを利用した少年たちは出所後数か月もしないうちに再び事件を起こす。

 高校二年の女子学生が行方不明になったというニュースは、いまだ心に傷を残す者たちの脳裏に腫れあがった女子学生の顔を思い出させた。警察はすぐに出所した少年たちの行方を確かめる。五人の少年たちが前日から戻っていないと聞き、彼らの再犯が確実視された翌日、なんと少女が保護されたのだ。目隠しをされて縛られていた彼女は、少々暴行された痕があるものの心身ともに正常な状態で発見された。そこで世間へのニュースは終わった。

 それから数日後に、五人の少年の遺体が発見されたことは報道されぬまま幕が閉じたのだ。

 

 

  被告人 佐々木 恵美(ささき めぐみ)

  罪状 殺人

 

 彼女は明かりが乏しい薄暗い廊下を歩かされていた。廊下には恵美と、恵美の腰に繋がる紐を持つ警察官との二人しかいない。

(そんなもんよね)

 法廷へ続く道を歩く恵美の心は凪いでいた。彼女はこれから始まる裁判の判決を予測できていたし、その通りの結果になっても悔いはない。自分の罪の重さを理解しているし、その行為にまったく後悔はないし、捕まったことも彼女の意思だからだ。

 恵美は十八歳の少年を五人も殺した。三年前、恵美の一人娘は同じ五人の少年によって強姦殺害されている。そのとき捕まった彼らは未成年という理由で、その悪質極まる殺害状況にもかかわらず三年で社会に復帰してきた。娘は二度と戻ってこれないのにだ。

 恵美は彼らの判決を聞いたときに決意した。少年法は彼らの更正を願っての法律だ。だったら彼らが釈放された後、もし、再び罪を犯したら……彼らは更正できる人間ではなかったのだから、そのときは、自分が、判決を下そう、と。

 そして彼らは恵美の予想通り罪を犯した。しかも恵美の娘にしたことと同じ罪を重ねようとしたのだ。少年たちを殺すのに躊躇いはなかった。

「止まれ」

 後ろからの声に従い、恵美は足を止める。目の前には木製の少し立派な扉があった。

 ずっと斜め後ろを歩いていた警察官が前に出て扉を三回叩く。すると中から扉が開けられ二人のサングラスをかけた黒スーツの男が現れた。警察官は向かって右側の男に持っていた紐を渡す。どちらも似たような背格好の男たちだったため、恵美には彼らの区別がつかない。あえて違いを言うなら右側の方が若干焼けた肌色をしているような気がするくらいだ。

 警察官の仕事はここまでだったらしく、男が紐を受け取ると敬礼をして下がっていった。すれ違いざまに覗き見た彼の顔は若干緊張しているように恵美には見えた。黒サングラスとスーツはもしかしたら裁判所内でも上の位の人たちがする格好なのかもしれない。そう勝手に解釈して恵美はもう二人への興味を無くした。

 なんて言ったって自分はこれから死刑になるのだ。そんなどうでもいい知識など必要ない。恵美は男たちに連れられるまま法廷へと足を進めた。

 ここで初めて彼女は違和感を覚えた。法廷内にはまだ誰もいなかったのだ。

(テレビだけなのかしら……裁判官も検察官もいない……)

 ドラマなどだと全員揃った最後に被告人は入場していた。一番に入ることもあるのだろうか。チラリとみた傍聴席も空っぽだった。そっち側は電気すら点けられていない。

 そこで二度目の違和感に気が付く。法廷内が薄暗いのだ。上を見るとほとんどの電気が消されていた。まるで必要ないみたいに、検察側も弁護側の席の上も消されている。点いているのは証言台の上と裁判官席の所だけだ。

(どういうこと……私の裁判にはもう必要ないってことなのかしら……?)

 だがテレビのニュースでは、恵美の事件よりも重罪(だと思う)な無差別殺人犯だって裁判の様子が流れていた。

(未成年だから……)

 もしそれが理由であるなら悔しい。恵美にとって『未成年だから』という理由で引かれる一線は憎しみの象徴だ。三年前の法廷を思い起こさせる。

「ここに立て」

 男は恵美を証言台に立たせた。

 言われた通り台の前に立つと、男たちは恵美の両脇に控えるように腰辺りで手を組んで立っている。紐と手錠はいまだ外されていない。

 三人はじっとその場に立ち続けた。どのぐらい経ったろうか。変化のない空間に居心地が悪く感じ始めた時、裁判官席の方からガチャリと音がした。

 恵美はハッと顔を上げて正面を見た。左手の方から壮年の男が一人、黒い服に身を包んで堂々と入ってくる。男は恵美の正面で足を止めた。

 男と目が合い、恵美は捕まってから初めて緊張を感じた。じっと見つめてくるその視線に心の隅まで覗かれているような力を感じたのだ。眼を離してはいけないと、警告が聞こえた気がした。恵美は冷たいのに熱を放つ男の眼を見つめ続けた。

 しばらく沈黙の睨み合いが続き、男は重い口をゆっくりと動かした。

「被告人。己の罪は自覚しているか?」

「……はい」

 想像通りの低い重圧の感じる声に、恵美は答えた。思っていたより声は出なかったが男には届いたようで、恵美の返答に一つ頷く。

「よろしい。被告人は六人の少年の命を奪った」

「…………はい」

 少し違うが恵美は指摘しなかった。その違いで罪の重さが変わるわけではないからだ。

「少年たちは更正を願い、少年法に基づき正式な手続きの元裁かれた少年たちだった」

「……はい」

「その判決に異論はなかったはずだ」

 なかったわけではない。恵美はただ『チャンスを与えたい』という政府の意を汲んであげようと思っただけだ。

「……はい」

 だがそんなこともこの裁判では関係ない。重要なのは、恵美が、複数の少年を、殺したこと、だけだ。

「だが、被告人は仮釈放された少年たちを殺した。その理由はなんだ?」

「!?……それは……彼らが更正することなく、同じ罪を重ねることが許せなかったからです」

 そんなことを聞かれるとは思っていなかったため少し反応に遅れたが、恵美はスラスラと答えることができた。少年たちへの判決が下されたその日に彼女はそのことを胸に刻んで、何度も唱えて生きてきた事だからだ。

 恵美にとってこれは復讐であってはいけないという想いがあった。その想いがあったからこそ、三年もの間を鬼となることなく耐えぬくことができたのだ。

「うむ。彼らは同じ罪を重ねようとした。それは現場検証をした警察資料からも十分推察される。少女を無事に保護してくれたことに感謝する」

「……え?」

 『感謝』という言葉が聞こえたが、気のせいかと恵美は自分の耳を疑った。だが呆けている恵美を置いて男はさらに場にそぐわない言葉を重ねる。

「彼らは更正プログラムを確かに真面目にこなしていたが、生活態度は一向に改善された見込みがなかった。彼らに更正する意思がなかったのは明らかだ。よって我々は処刑猶予期間を与えることにした」

「しょ、しょけいゆうよ?きかん?」

「十分な証拠が揃わず有期刑になった犯罪者や、今回のような未成年の凶悪犯罪者に用いる処置だ。処刑猶予期間中にもし対象者が重犯罪を犯した場合、その場で処刑を執行することができる」

「!?」

 恵美はあまりの衝撃に声を出すことができなかった。

 まさか平和大国と言われる日本でそんなことが行われているなんて誰も想像できないだろう。だが事実、男は国の施設である裁判所で浪々と語っている。

 果たしてそんなことがあって本当にいのだろうか?もしこの事が国民の耳に入ることがあれば政府は大ブーイングを浴びるに違いない。

「勿論このことは一般人には極秘事項になる」

「……じゃ、なんで、わたし、に?」

 なぜその一般人の一人であるはずの恵美に極秘事項を話すのだろう。訳が分からない恵美の問いかけに、男は更に予想外な答えを返した。

「この任務には、処刑執行部が当たることになっている。被告人には本日からその処刑執行部の職員となってもらう」

「え!!?」

 恵美は男の言葉に大きな声を出していた。こんなに声を出したのはカエを失ってから初めてのことである。そのぐらい衝撃的だった。

「それを拒否する場合、秘密を知ってしまった君は死刑となる」

「は!?」

 勝手に話しといてそんな風に言われてしまえば、たとえ死刑を覚悟していてもそう声を出してしまうだろう。恵美は出してしまった。

 死刑だろうとは思っていたが、これでは理由があまりにもあんまりじゃないだろうか。罪に対してではなく、秘密を聞いたから死刑なんて納得できるはずがない。しかも望んでもいないのに一方的に不意打ちで聞かせてきたくせにだ。

「憎んでいるはずの少年たちを君は苦しめることなく一撃で処刑している。個の感情を抜いて刑を執行できるその精神力を評価し、是非処刑執行部で働いてもらいたい」

「…………」

 相手は最初から少年を想定していた。恵美には娘を殺した相手だとしても子供が苦しむ顔を見ていられるとは思えなかった。だから一撃で殺せるようにこの三年の間に自主トレーニングしてきただけだ。別に精神力が強かったわけじゃない。

「できないのであれば死刑だ」

 何の感情もなさそうな声で男は繰り返す。

「…………」

 恵美は悩んだ。処刑執行部に行くということは、処刑を行うということだ。それはつまり、人を殺し続けるということだ。

 罪を重ねるか、死刑か。

(……これ以上は、カエに合わせる顔がなくなるわね)

 恵美は決心しようとしたとき、男はまるで彼女の考えが解っているかのように言葉を重ねた。

「自分の罪は果たして己の死だけで消せる罪か。そこも考えてみたまえ。被告人は六人もの命を奪っている」

「!?それは……」

「例え罪人の命でも、奪えば罪となる。処刑執行部の者たちは、全員が誰かを殺したことがある者たちだ。彼らは執行部にいることで罪を償う」

「……でも、処刑執行は罪を重ねることじゃないですか?」

 恵美が恐る恐る零した問いに、男は眼をスッと細めて今までで一番低い声で答えた。

「命を奪うということは一生消えぬ罪。罪を償いながら重ね、処刑執行部は死ぬまでその任を解かれることはない。そして極秘任務故、表の社会との繋がりも一切遮断しなければならない」

 頭を金棒で叩かれたような気がした。なんて甘いことを考えていたのかと、恵美は慙愧に耐えなかった。

 自分の罪から逃げない。それは恵美のたてた誓いの一つでもある。だから死刑も受ける気でここにいたのだ。

「……裁判官」

 恵美はまっすぐに男の眼を見た。

 自分の答えは、三年前から決まっていたのだ。

 どんな刑罰でも受け入れる。己の行いに対する責任を取るために。

 同情などいらない。慈悲もいらない。これが罰というならば受けるだけだ。

 

「処刑執行部に入ります」

 

 恵美の明朗な声が法廷に響き渡った。

 

END