この世に生を受けて、10年後、私は他人に期待することを辞めた。
そうすることで寂しさを受け入れた。
怒りも哀しみも無くなった。
それは「エライね!」「スゴイね!」「優しいね」と、周りに好感を与えるため人生で不利になることは一切なかった。
「ただいまー」
仕事帰りの玄関は暗闇で、いつもの返事は一切ない。
旦那はもう帰ってきているはずだ。
思春期の息子もなんだかんだで夕飯の時間には帰ってくる。
ガタッ……
返事はないのに聞こえてきた物音に、私はそっと近づいた。
「被告人。前へ」
呼ばれて、女性は椅子から立ち上がり、証言台へ向かう。その間に手錠の外された手首をラジオ体操のように振っていた。
(そんなことしたら陪審員への印象が悪くなるだろ~!)
彼女の弁護士になったことを後悔する気持ちがまた湧いてきた。
今日だけじゃない。彼女と話をするたびに思っている。
名前は斉藤栞。36歳。仕事は補助食品のテレアポと主婦。子供は1人いて、中学二年生の男の子。旦那は一部上場企業の課長さん。
家庭は息子さんが反抗期なこと以外は普通だった。周囲の人も息子はヤンチャだが立派なご両親だと言っている。栞さんの評判はさらに良い。学校でも、職場でも、問題となる言動は無かった。
それなのに彼女は旦那と息子を殺し、今裁判にかけられている。僕の仕事は国選弁護士として彼女の罪を少しでも軽くすることなんだけど……
「……以上のように、被告人は夫である斉藤啓介氏を殺害した後、帰宅した自身の息子である徹君を殺害したことを認めますね?」
「はい」
(っ~~!!そんな即答したら反省してるって陪審員へアピールできないでしょ!!)
彼女は全く僕のアドバイスを聞いてくれない。罪を認める姿勢は良いんだけど、それ以外は全然ダメだ。一度も謝罪の言葉はないし、悪びれる様子も見せない。旦那を殺したときの話なんて、
「周囲からは円満な夫婦と言われていたようですが、本当はそれほど良好な関係では無かったんじゃないんですか?」
っていう検事の嫌な感じの質問にも「はい、そうです」とあっさり応えた。
「夫は職場や周囲には家庭を一番に考える良き夫を演じていました。しかし本当は全くの無関心で、息子の反抗期について相談しても私に任せるばかりで何もしてくれなかったんです。あの日も……息子の帰りが遅くて夫に心配だから連絡して欲しいとお願いしました。私の電話には出てくれないので。それなのに、夫は不満ばかりいってなかなか電話をかけてくれないんです。それで腹が立って……」
「喧嘩になり、包丁で刺した」
「はい」
夫への怒りばかりで反省の色がまるで無い。
息子に関する供述も同じだ。
「息子の徹さんはなぜ殺害したんですか?」
「帰ってきた息子が喚くんです。何やってんだ、人殺し、悪魔って。誰のせいでこうなったんだよ。そう思ったら体が勝手に動いてました」
だーかーらー!涙の一つくらい流せよ!!ってこっちはイライラすることになった。
そんな感じで、彼女は罪を認めてはいるが反省はしていない。今日が最後の弁護になるというのに、何も変わってはいない。
(でも、今日はそうはいかないぞ。すごい証人を連れてきたんだからな)
勝負はこっちの証人尋問だ。あっちの証人には興味ない。夫の友人とかが来て、彼女が暴力的でうんたら、彼は本当に家庭を大切にかんたら言っている。とりあえず彼女が昔から夫を殺そうとしていたなんてぶっ飛んだ推論だけ異議として流した。
そしてとうとうこっちの証人が登場する番だ。
「続いての証人は……津島本子さん」
「!?」
栞さんが驚いた表情でこっちを見た。そりゃあ彼女の態度を変えさせるための秘策だ。伝えているわけがない。
「弁護人。尋問をお願いします」
「はい」
証言台に立つのは少しふくよかな体型をした普通のおばさんだ。おばさんは気になるのか度々後ろを振り返って娘の顔を見ようとしている。
「津島本子さんですね」
「……はい」
「被告人、斉藤栞さんのお母様でいらっしゃいますね」
会場に小さな波が立つ。記者たちの倒していたペンが紙の上で仕事を始める音が聞こえた。
「はい。……栞の母です」
そう言って後ろを見るが、栞さんからは視線を返ってこなかった。
「率直な意見を聞かせて下さい。彼女は、旦那様と息子さんを殺したと思いますか?」
法廷が鎮まる。こんな緊張感が今回の裁判で訪れることは今までなかった。
母親は少し考える素振りを見せながらも、僕と打ち合わせした通りの答えを返してくれた。
「……正直、信じられません。娘は正義感の強い子でした。それは頑固ともとれるのですが……」
本子さんは、栞さんの子供時代から現在までの歴史を語ってくれた。友達が多く、人望もあり、高校の頃は3年間クラス委員に選ばれていたこと。大学でも成績は優秀で、初任給で家族旅行を計画してくれたこと。結婚後もよく帰省して孫の顔を見せに来てくれたこと。
「家族3人で仲良くやっているようでした。少し、徹のことで悩んでましたが、2人とも反抗期は仕方ないから見守っていこうと前向きに話していました」
本子さんが話している間、栞さんはずっと俯いていた。不貞腐れていたような図太い彼女の態度が変わっている。母親を呼んで正解だ。そろそろ本題に入ろう。
「ありがとうございます。栞さんはとても前向きな性格の人物なんですね?」
「はい。仕事の愚痴を言っても、まあ他人だからしょうがないと、切り替えていました」
「それは家族にも言えることなんでしょうか?」
「ええ。旦那さんは気が利かない!と言うことがありましたが、言わなきゃ伝わらないんだから言わない自分も悪いんだと」
「つまり、一方的に相手を責めるような事はしない人だということですね」
「そう思います。相手の意見も聞いて、その上で自分は正しいのかと、考えられる子です」
「じゃあ突発的に旦那さんを殺すなんて考えられないということですか?」
「異議あり!!」
良いところで検事の手が上がる。予想はしていたけどやな感じだ。
「個人的意見を聞こうとしています」
「異議を認めます。弁護人、別の質問をお願いします」
片手を挙げて承諾し、再び本子さんに向き直る。とりあえず笑顔で彼女の緊張をほぐして、質問を続けた。
「すみません。では、別の質問です。旦那さんである、啓介さんが内弁慶であったということなんですが、その事についてはどうでしょうか?」
「……いいえ。気が利かないとは言っていましたが、その内容は何もしないって意味じゃなくて、見当違いなことをするって意味で……具体的な話だと、啓介さんは栞のために部屋の掃除をするんですが、洗濯仕立ての服を箪笥に戻す前にやりだすから埃が付く!という感じです。寧ろ娘が尻に敷いていたような印象でした」
「なるほど。子供についてはどうですか?」
「徹の反抗期は2人とも楽観的でした。どちらかという啓介さんは栞の心配をしてました」
「というと?」
「栞に暴力が向かないかって心配です。物を蹴ったりしていたみたいなんで……」
「ほう。つまり、啓介さんの方が深刻に受け止めていたわけですね?」
「はい」
「ありがとうございます」
これで彼女の出番は終わりだ。
次が本命になる。本子さんの話が本当なら、栞さんは彼女の前で正気ではいられないはずだ。
「続いて、斉藤鈴香さん。お願いします」
「えっ……」
法廷を去る母の姿は見ようとしなかったのに、次に現れた女性には身を乗り出して確かめようとした。
殺害された旦那、斉藤啓介さんの母親だ。
「斉藤鈴香さんでお間違いないですね?」
「はい。斉藤啓介の母です」
栞さんは顔を上げて鈴香さんの横顔を見ていた。まるで今にも泣き出しそうな子供のような表情だ。なにを我慢しているんだろう。その言葉を聞きたいが、残念ながら今は彼女に発言権はない。
対する鈴香さんの表情は厳しいものだ。栞さんが憎いのだろう。全く被告人の方を見ようとしない。
栞さんも諦めたようにまた下を向いた。
「鈴香さん。啓介さんの人柄を話していただけないでしょうか」
「はい。啓介は自慢の息子でした。優しくて、明るくて、たくさんの友達がいました」
つらつらと語られる啓介さんの人物像は、一般的な「良い人」という感じだ。悪いことは親の目のないところですることだから、母親の主張が裁判官たちの心を動かすことはないだろう。だが、狙いはそこじゃない。
「ありがとうございます。それでは、家族のことをどのように彼はあなたに語っていましたか?」
「息子は……啓介は、徹くんの反抗期を見て、自分も迷惑をかけたねと、謝ってきました。全然そんなことはなかったのに……っ……だから、自分も、徹が、道を……踏み外さないようにっ……支えるっていってたんです!」
泣きながら啓介さんは決して子供に無関心などでは無かったと語る。彼女につられて、陪審員の1人が涙を溜めていた。そして、もう1人、栞さんもだ。
「栞さんのことも素敵で知的な妻だと言ってたんですよ!!なのに!なんであなたは啓介を貶めることばかり言うのよ!!ウソつき!!訂正しなさい!!!」
「お、おかあさん!?」
突然、鈴香さんが栞さんに掴みかかった。両隣にいる警察官を押しのけて手を伸ばす姿は野獣だ。傍聴席も騒ぎ出す。
「静粛に!!!」
カンカンとなる木槌の音も聞こえないのか、鈴香さんの暴走は止まらない。
どうしようもないと判断した裁判長が休廷を宣言したと同時に、僕は被告人を部屋から脱出させた。
閉まる扉の向こうから鈴香さんの罵声が聞こえる。
「大丈夫かい?」
「……なんで、あの二人を?あなたは私の味方でしょう?」
ギロリと効果音が付きそうな鋭い目で栞さんに睨まれる。確かに。鈴香さんを呼ぶのはむしろ検事側の仕事だ。栞さんの心象を悪くして罪を重くするのにうってつけの人材だろう。
「僕には僕の考えがあって呼んだんだ」
「考え?」
僕は廊下にある長椅子に彼女を座らせる。
「ああ。君は頑として僕の言うことを聞かないだろ?罪は認めてるのに謝らないし、反省の態度も見せない。彼女を前にしたら変わると思ってね」
本子さんの言う通り優しい人なら、涙を流す鈴香さんに謝らずにはいられないはずだ。それとも自分の母親を嘘つきにするのか?
「卑怯者」
「……それが僕の仕事だよ」
少しでも君の罪を軽くする。それが出来らたらいい。
「彼女にくらい謝りなよ」
「……何をよ……」
「旦那さんを殺したことをだろう?」
それ以外に何があるんだ。
「バカじゃないの。義母さんが謝って欲しいのはそっちじゃない。でも、それは謝れない……」
小さくなる言葉には、さっきまでの怒りや憎しみはなくなっていた。
震える喉が飲み込んだ叫びは聞こえないがこっちの胸をチクチクと刺してくる。
「……お願い。謝れないけど、謝れない理由を義母さんに伝えて」
「わ、わかった」
俺はポケットに手を入れ、取り出したハンカチを渡す。
「本当は……啓介さんを殺したのは私じゃないの」
彼女の発言は今までの時間を無にする衝撃的な内容だった。
事件の晩、彼女は予定より遅く帰宅した。部屋の中は静かで、おかしいと思ったらしい。
そんな静かな部屋でガタっと物音がした。
音のしたリビングに向かうと、そこには上半身を真っ赤に染めた夫の死体と、震える息子の姿があったという。
「なに?……どういうこと?……啓介さん?」
話しかけても夫はピクリとも動かない。駆け寄って身体を揺すっても同様だった。
やっと夫の死を理解したとき、振り返ると血だらけの包丁を持った息子が立っていた。
「……とおる」
「あんたのせいだ!!あんたが……あんたが俺を見ないから!!」
「なにを言ってるの?」
「あんたも死ねよ!そいつみたいに!!殺して!俺も死んでやる!!」
「やめなさい!!!」
突進してくる息子を避けて説得を試みようとしたが興奮状態の彼を止めることはできなかった。そして、不幸にも、抵抗した彼女は息子を刺してしまった。
腕の中で冷たくなる息子と動かない夫。妻は一人、冷たい部屋で考えた。
自分はどうすべきか……そして導き出した答えが……
(悪いのは私。息子は、被害者。夫も、被害者)
この罪に相応しい罰を与えて欲しい。とびっきり重い罰。愛する2人の命を守れなかった。世界でたった一つの宝物を壊してしまった。
徹は私が見てくれないからと言った。そうね。期待してもなるようになるんだからって、何も期待しなかった。徹にしたら無関心と変わらなかったのかもね。
全部、私が悪いの。
(ごめんね。お母さん、義母さん……)
傍聴席から見える2人に直接謝ることはできない。でも、間接的に伝えたい。夫は間違ってなかったと……弁護士さんに託したメッセージを受け取って欲しい。
「それでは最終陳述に入ります。弁護人、何かありますか?」
「はい」
弁護士さんは用意していた紙を読み上げる。
「このように、留置所でも大人しく、粛々と過ごしています。また、これは本日手に入れたデータですので証拠品としては提出できませんが、彼女の反省の旨が述べられています」
そう言って弁護士さんはポケットからボイスレコーダーを取り出した。
録音データの始まりは鼻をすする音だ。
(?彼の前で泣いたのなんて……!?)
弁護士がアレを取り出したのはどっちのポケットだった?ハンカチが入ってた方じゃないか?
(まさか!!!?)
『本当は……啓介さんを殺したのは私じゃないの』
流れる音声はまさについさっき彼に託した伝言だった。
「やめて!!!」
両隣の刑事に捕らえられて動けない。
「うわあああああああああああああああああ!!!!」
法廷を震わせる絶叫で音をかき消そうとするが、懺悔の声は止まらない。
最後まで流れたあとの法廷は静まりかえっていた。
「陪審員の方たちには、彼女の事情を加味してご判決をお願いしたいです」
そう静かに締めくくった男の顔は晴れやかだった。
その意味はすぐわかった。
あいつの仕事の成果は判決なんだ。
「被告人は、何かありますか?」
「……このクソ野郎」
そうして、その裁判は幕を閉じた。
判決は有罪。懲役15年。死刑を求刑されていたが、大幅に減刑となった判決だった。
END