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かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

「かなざわリージョナルシアター」の関連事業として、今年度から実施しているのが「劇評講座」です。この講座は演劇ジャーナリストの徳永京子さんを講師にお招きし、リージョナルシアターの作品を題材に劇評を書く、というものです。

2015年6月に講座をスタートさせ、これまでに「劇評とは何か」「感想と何がちがうのか」といったレクチャーや、実際に演劇作品を観てディスカッションを行い劇評を書くというプロセスを繰り返してきました。
そしてこれまでは上演団体にのみ公開という形をとってきましたが、第4回にあたる劇団ドリームチョップ「教授とその弟子」より、ネットでの公開にシフトチェンジすることにいたしました。
ブログをお読みのみなさんから受講生の劇評に対してのコメントもお待ちしております。

「劇評」が定着することにより、これまで以上に豊かな作品がドラマ工房から生まれてくることを期待しています。どうぞご協力をよろしくお願い申し上げます。

金沢市民芸術村ドラマ工房ディレクター
「劇評講座」担当 井口時次郎


(劇団ドリームチョップ「教授とその弟子」への劇評へジャンプ)

市川幸子「教授とその弟子を見て」
大場さやか「知ってもなお、続ける理由」
ta96「匂いなき雰囲気の先に見えるものは」
原力雄「実利主義的な風潮に異議申し立て」
ぽんた「最後に残ったものの変容をこそ」
山下大輔「味気ないスコアレスなゲーム」



この文章は、2015年10月24日(土)19:00開演の劇団ドリームチョップ「教授とその弟子」についての劇評です。

停滞したフットボール(サッカー)の試合。リズムはいっこうに変わらず、ついには残りわずかとなった時間も経過してゲームは両チームに点数が入らない「スコアレスドロー」で終了する――。10月24日、金沢市民芸術村ドラマ工房で上演された劇団ドリームチョップ「教授とその弟子」を観た印象だ。

劇団ドリームチョップは、2000年に旗揚げされたカンパニー。主宰の井口時次郎氏が脚本・演出を担当し、これまでに会話を中心とした現代劇を上演している。今回の作品は、ある大学で文学部の教授を務める男が、女性助手のサポートを受けながらも、大学の構造改革には抗えず、ついには大切にしていた文学小説の講義を廃止にされてしまう内容。その間、教授の講義を受講しに来た理工学部の男子学生と、改革推進派で文学部の女性准教授も絡んでくる。
劇中の小説に登場する世捨て人のような人物になぞらえ、教授の何にでも達観したようで諦めの境地とでもいうような、言動やそぶりが続く。この小説とリンクするようにストーリーは展開され、冒頭に出てきた小説の「文学は人を傷つけもするが、人を救うこともできる」といったフレーズがラストシーンにも繰り返され、終演する。

この上演作品には、舞台の空気を変えようと、テンポを切り替えて積極的に行動を起こす俳優(プレーヤー)はいなかった。終始、自分の言葉や動きだけにしがみついていた印象を受ける。
劇中、灯台のサーチライトのような照明に4人の俳優が照らされ、心の内側を吐露するというシーンがあった。各役の内面が一気に外に溢れ出すという、とても感情的な場面だったはずだ。しかし、一人ずつ台詞を言うという機械的なリズムのせいで、必死に叫ぶ声もどこか嘘っぽく聞こえてしまう。リアリティーが感じられない。誰かが変化を起こすために動いてくれていれば、と思う。
例えばこのシーンで、他者の台詞に被せるように言葉を発していたとしたら。そうして、その変化に別の俳優が呼応する。最後には4人の言葉が重なるように舞台に広がり、巨大な圧力(エネルギー)となって客席に迫ってくるといった風に。

演劇とフットボールには通じるところがある。ある空間の中で、相手の言葉や動きなどにコンマ数秒の間に反応し、数ある選択肢の中から最も良いと思える次の行動を決める。そこには、常に人間同士が緊張感を孕んで対峙する姿がある。フットボールには、ドリブルで守備者をかわす時の駆け引きがある。PKの場面でのキッカーとゴールキーパーとの目に見えない戦いがある。そんな一瞬一瞬が自然とドラマを生み出す。今、その場所でしか絶対に起こり得ない生の時間を共有したいからこそ、観る者は劇場(スタジアム)に足を踏み入れるのではないだろうか。
生の時間があるということは、当然、俳優たちが舞台上で役を生きていなければ嘘になる。上演時間の間、俳優自身が脚本上の登場人物を懸命に生きることが大前提としてある。登場人物として生きる俳優一人ひとりがストーリーに添って行う会話のやり取りに、興味が沸く。ストーリーそれ自体は二の次で、俳優たちがどう反応し、どのように内面が変化していくのかを探るのが面白いのだ。

今回の作品では、生の反応を大切にして舞台で生きる俳優たちは残念ながら存在しなかった。このことが、登場人物のキャラクターをぼやけさせ、上演時間75分ほどが平板に過ぎていったと感じた要因だ。

この文章は、2015年10月24日(土)19:00開演の劇団ドリームチョップ「教授とその弟子」についての劇評です。

 2001年に第1回公演をおこなった井口時次郎(今回は作・演出を担当)率いる劇団ドリームチョップの芝居である。舞台上には、机と椅子、戸棚の置かれた教授室が設えられている。照明は現実の場面では教授室全体を照らし、回想シーンなどでは部分的に人物に光を当てる。
 芝居は表面から深部へと三つの層に分かれる。一層目は、文学部の縮小・廃止の圧力にさらされている文学部教授笠原純太郎を巡るあれやこれや。大学改革に積極的な准教授奥泉志帆、笠原の助手の坂井笑子、理工学部の学生であるにもかかわらずモグリで笠原の講義を受講している学生木戸亘。四人の登場人物の立ち位置は明確である。二層目は男女関係。笠原と坂井の関係が一つの基準線になるのだが、そこに残りの登場人物や笠原の妻(二年前に亡くなったという)の妹(舞台には登場しない)が絡んでくる。こんなかわいらしげな助手が目の前にいたら、なにはともあれ事態は進展していくのではないかとつい期待していたのだが、そうでもなくてもどかしい。
三層目は、普遍的なテーマについての言及である。ここで中心になるのが「ひょろり男」の話である。ひょろり男とは笠原が講義で取り上げている小説の主人公であり、以前海でおぼれたことがあるという。その話も謎めいているのだが、その他に気を引くフレイズが笠原の口から続々と出てくる。「波は繰り返し打ち寄せるがひとつとして同じ波はない」、「文学は人を傷つけることもあるし、人を救うこともある」、「(木戸を評して)彼は賢くて危うい」、「何かが見えていることそれができることとそれをすることとは違うことだ」、「大切なものは目に見えない」、……。ひとつのフレイズを聞くと、様々な連想が喚起され頭の中にイメージが広がっていくのだが、そのイメージは置き去りにされたままで、ストーリーは進み、そのうちに次のフレイズが現れる。
後半で四人が回転するライトの中で位置を転換しながら独白を繰り返す場面がある。三つの層がいよいよ重ね合わせられるのか、喚起力をもった様々なフレイズがぶつかり火花を散らすのか、と期待をしたのだが、化学反応は生じず、芝居は淡々と進行していった。
いろいろなことを詰め込みすぎなのだ。もっと様々な要素を捨てて中心を絞り込む。そこに最後に残ったものが化学反応を起こすのを待ってもよかったのではないか。とりわけひょろり男の存在は、「大学改革」の短絡的側面の対極にあると捉えることができて魅力的だ。その存在をもう少し展開できればこの芝居の中心が定まったのではないか。また、登場人物は若干類型的ではあるもののそれぞれの立ち位置で確立しているのだから、もう少しそれぞれの人物の多様な面が表面に表れれば化学反応も生じやすかったのではないか。化学反応によって起こる変容で何が出現するか、それをこそ井口時次郎のつくり出す芝居で観てみたい。

この文章は、2015年10月24日(土)19:00開演の劇団ドリームチョップ「教授とその弟子」についての劇評です。

今年、文部科学省から出された国立大学の文学部を廃止すべき(?)との通達に危機感を覚えた作品かと思われる。文学研究の必要性を問い直し、実利主義一辺倒で自縄自縛に陥っている社会風潮に対する異議申し立てとして私は受け止めた。

文学部の縮小を話し合う大学改革委員会への出席を要請されている老教授・笠原(高桑和晴)は、若くて有能な美人助手・坂井(千徳美喜)に助けられてのらりくらりと逃げ回っていた。理工学部の学生・木戸(近江亮哉)は、そんな笠原が授業で講読している小説に感激し、もぐりで聴講するようになるが、女手一つで彼を育てた母親はひたすら現実世界での立身出世を期待していた…

文化とは何か?私が思うに、世間で誤解されているような高尚な贅沢品でもなければ軽視すべき余計物でもない。文化とは、ロボットで言えばプログラムに相当するものであり、人間を動かす基本OSである。文化がなければ人間は社会的に行動できない。そして、文化が基本OSであるならば、それは外部から容易にインストール可能なことを意味する。奥泉准教授(樋口亜希代)をはじめとする大学改革委員会のメンバーたちは、効率とか実利主義とかいったプログラムを外部から強制的に上書きされたロボット的人間に見えたのである。

とすれば、文学とは何か?文化という基本OS上で動く一種のシミュレーションソフトではないか。効率最優先のプログラムを一時的に停止させ、現状とは異なる条件を設定して作動させてみる仮想的な実験の場である。そのような文学はなぜ必要か?既存のプログラムでは処理しきれない問題が発生した場合、いくつかのパラメータを変化させることで解決できる可能性(=希望)があるからだ。

この作品は日常生活を描きながらも、リアリズムとは少し違う。例えば、役者たちは能舞台のごとく直角に折れ曲がって退場する。感情に埋没しないフラットな演技と抑揚の少ない台詞回しが特徴であり、対立する2項間で緊迫したやり取りが繰り広げられるものの、本質的な衝突は回避される。そういう意味ではドラマ性よりも、あり方が問われている。硬質な論理に従って構築された様式美があり、ダメ人間な笠原にピッタリと寄り添う坂井の姿の中には存在の深淵がチラホラと垣間見えないこともない。

この文章は、2015年10月24日(土)19:00開演の劇団ドリームチョップ「教授とその弟子」についての劇評です。

「文学は時に人を傷つけ、救いもする」そんなパラドックスを含むテーゼが小説のフレーズとして何度も繰り返された。観終わった私に浮かんだのは「演劇は常に人を描く」というテーゼだった。演劇とは人を通して、人、人生を、社会を、世界を見せる。人を通す事でしか何も見えては来ない。
『教授とその弟子』は、かつて劇団110showに籍を置いた井口時次郎が2000年に旗揚げし作演出を務める劇団ドリームチョップにより、かなざわリージョナルシアターの4作品目として10月23日~25日、金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房で行われた。
とある大学を舞台に文学部教授である笠原と助手の坂井、そして文学部准教授である奥泉、笠原の講義に魅力を感じ聴講する理工学部の学生木戸の4人により、1篇の小説を軸に文学部縮小というリアルタイムな事象を背景として物語は展開する。
冒頭で教授が読む1篇の小説がこの物語と併走するように流れ、モノローグとして幾度か織り込まれる。
しかし、小説と物語、つまりモノローグとダイアローグが同調しすぎているように思えた。それは内容が同調しているという意味だけではなく、語り口の差異が小さい事もあるだろう。小説の内容が物語と別に喚起されるに至らず同一線上にあるが故に膨らみが生まれてこない。
そして、何よりも人が見えてこなかった点に問題があると言えよう。教授である笠原、そして他3人を立場の異なる弟子として配置したのだが、教授と准教授(かつての弟子)の関係性を匂わせる程度にしか活かしきれておらず、男女的意味合いで「助手(現在進行形の弟子)の勝ち」という事に収束してしまう。また、助手の抱く教授に対する思慕、体制側として現れる准教授が教授に抱く思慕など生臭いともいえる人間性も描いているのだが匂いがない。機微や心の襞というようなものが見えず記号的な印象を受けた。詳細に描かない事は観客の想像が入り込む余地ともいえるが、それには役の背骨ともいえる芯が必要になる。それぞれの背景、立ち位置、信念などの雰囲気は見えるのだが登場人物に確固とした芯が見えなかった。
文学は人を傷つける・救う、文学を学ぶ価値・文系学部の縮小など様々なテーゼが散りばめられたが、それら全て羅列であり、作品から答えや意思を感じられず態度表明すら成されなかった。それらのテーゼよりも愛の方が大切であるという答えだったのかもしれないが、それすらも曖昧であり何を中心に据えたかったのか見えてこない。
全体の印象として、抗うことなく流れに身を任せ縮小すらも仕方ないことと受け入れた教授同様、作品自体がある種の事なかれ主義の印象を受けた。当たり障り無く、見る側に訴える強さや考えさせることを促す力も不足している。これでは劇団が目指す「ひとのこころがうごく瞬間」は作れないように思えてならない。
人を描ききれていたならば全く違った印象になったであろう。人物の曖昧さと事なかれ主義的スタンスが相まって、なぜこの作品を上演しなければならなかったのか、何を描き出そうとしていたかさえもぼやけた事が残念である。