(劇評)「最後に残ったものの変容をこそ」ぽんた | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2015年10月24日(土)19:00開演の劇団ドリームチョップ「教授とその弟子」についての劇評です。

 2001年に第1回公演をおこなった井口時次郎(今回は作・演出を担当)率いる劇団ドリームチョップの芝居である。舞台上には、机と椅子、戸棚の置かれた教授室が設えられている。照明は現実の場面では教授室全体を照らし、回想シーンなどでは部分的に人物に光を当てる。
 芝居は表面から深部へと三つの層に分かれる。一層目は、文学部の縮小・廃止の圧力にさらされている文学部教授笠原純太郎を巡るあれやこれや。大学改革に積極的な准教授奥泉志帆、笠原の助手の坂井笑子、理工学部の学生であるにもかかわらずモグリで笠原の講義を受講している学生木戸亘。四人の登場人物の立ち位置は明確である。二層目は男女関係。笠原と坂井の関係が一つの基準線になるのだが、そこに残りの登場人物や笠原の妻(二年前に亡くなったという)の妹(舞台には登場しない)が絡んでくる。こんなかわいらしげな助手が目の前にいたら、なにはともあれ事態は進展していくのではないかとつい期待していたのだが、そうでもなくてもどかしい。
三層目は、普遍的なテーマについての言及である。ここで中心になるのが「ひょろり男」の話である。ひょろり男とは笠原が講義で取り上げている小説の主人公であり、以前海でおぼれたことがあるという。その話も謎めいているのだが、その他に気を引くフレイズが笠原の口から続々と出てくる。「波は繰り返し打ち寄せるがひとつとして同じ波はない」、「文学は人を傷つけることもあるし、人を救うこともある」、「(木戸を評して)彼は賢くて危うい」、「何かが見えていることそれができることとそれをすることとは違うことだ」、「大切なものは目に見えない」、……。ひとつのフレイズを聞くと、様々な連想が喚起され頭の中にイメージが広がっていくのだが、そのイメージは置き去りにされたままで、ストーリーは進み、そのうちに次のフレイズが現れる。
後半で四人が回転するライトの中で位置を転換しながら独白を繰り返す場面がある。三つの層がいよいよ重ね合わせられるのか、喚起力をもった様々なフレイズがぶつかり火花を散らすのか、と期待をしたのだが、化学反応は生じず、芝居は淡々と進行していった。
いろいろなことを詰め込みすぎなのだ。もっと様々な要素を捨てて中心を絞り込む。そこに最後に残ったものが化学反応を起こすのを待ってもよかったのではないか。とりわけひょろり男の存在は、「大学改革」の短絡的側面の対極にあると捉えることができて魅力的だ。その存在をもう少し展開できればこの芝居の中心が定まったのではないか。また、登場人物は若干類型的ではあるもののそれぞれの立ち位置で確立しているのだから、もう少しそれぞれの人物の多様な面が表面に表れれば化学反応も生じやすかったのではないか。化学反応によって起こる変容で何が出現するか、それをこそ井口時次郎のつくり出す芝居で観てみたい。