(劇評)「実利主義的な風潮に異議申し立て」原力雄 | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
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この文章は、2015年10月24日(土)19:00開演の劇団ドリームチョップ「教授とその弟子」についての劇評です。

今年、文部科学省から出された国立大学の文学部を廃止すべき(?)との通達に危機感を覚えた作品かと思われる。文学研究の必要性を問い直し、実利主義一辺倒で自縄自縛に陥っている社会風潮に対する異議申し立てとして私は受け止めた。

文学部の縮小を話し合う大学改革委員会への出席を要請されている老教授・笠原(高桑和晴)は、若くて有能な美人助手・坂井(千徳美喜)に助けられてのらりくらりと逃げ回っていた。理工学部の学生・木戸(近江亮哉)は、そんな笠原が授業で講読している小説に感激し、もぐりで聴講するようになるが、女手一つで彼を育てた母親はひたすら現実世界での立身出世を期待していた…

文化とは何か?私が思うに、世間で誤解されているような高尚な贅沢品でもなければ軽視すべき余計物でもない。文化とは、ロボットで言えばプログラムに相当するものであり、人間を動かす基本OSである。文化がなければ人間は社会的に行動できない。そして、文化が基本OSであるならば、それは外部から容易にインストール可能なことを意味する。奥泉准教授(樋口亜希代)をはじめとする大学改革委員会のメンバーたちは、効率とか実利主義とかいったプログラムを外部から強制的に上書きされたロボット的人間に見えたのである。

とすれば、文学とは何か?文化という基本OS上で動く一種のシミュレーションソフトではないか。効率最優先のプログラムを一時的に停止させ、現状とは異なる条件を設定して作動させてみる仮想的な実験の場である。そのような文学はなぜ必要か?既存のプログラムでは処理しきれない問題が発生した場合、いくつかのパラメータを変化させることで解決できる可能性(=希望)があるからだ。

この作品は日常生活を描きながらも、リアリズムとは少し違う。例えば、役者たちは能舞台のごとく直角に折れ曲がって退場する。感情に埋没しないフラットな演技と抑揚の少ない台詞回しが特徴であり、対立する2項間で緊迫したやり取りが繰り広げられるものの、本質的な衝突は回避される。そういう意味ではドラマ性よりも、あり方が問われている。硬質な論理に従って構築された様式美があり、ダメ人間な笠原にピッタリと寄り添う坂井の姿の中には存在の深淵がチラホラと垣間見えないこともない。