(劇評)「味気ないスコアレスなゲーム」山下大輔 | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
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この文章は、2015年10月24日(土)19:00開演の劇団ドリームチョップ「教授とその弟子」についての劇評です。

停滞したフットボール(サッカー)の試合。リズムはいっこうに変わらず、ついには残りわずかとなった時間も経過してゲームは両チームに点数が入らない「スコアレスドロー」で終了する――。10月24日、金沢市民芸術村ドラマ工房で上演された劇団ドリームチョップ「教授とその弟子」を観た印象だ。

劇団ドリームチョップは、2000年に旗揚げされたカンパニー。主宰の井口時次郎氏が脚本・演出を担当し、これまでに会話を中心とした現代劇を上演している。今回の作品は、ある大学で文学部の教授を務める男が、女性助手のサポートを受けながらも、大学の構造改革には抗えず、ついには大切にしていた文学小説の講義を廃止にされてしまう内容。その間、教授の講義を受講しに来た理工学部の男子学生と、改革推進派で文学部の女性准教授も絡んでくる。
劇中の小説に登場する世捨て人のような人物になぞらえ、教授の何にでも達観したようで諦めの境地とでもいうような、言動やそぶりが続く。この小説とリンクするようにストーリーは展開され、冒頭に出てきた小説の「文学は人を傷つけもするが、人を救うこともできる」といったフレーズがラストシーンにも繰り返され、終演する。

この上演作品には、舞台の空気を変えようと、テンポを切り替えて積極的に行動を起こす俳優(プレーヤー)はいなかった。終始、自分の言葉や動きだけにしがみついていた印象を受ける。
劇中、灯台のサーチライトのような照明に4人の俳優が照らされ、心の内側を吐露するというシーンがあった。各役の内面が一気に外に溢れ出すという、とても感情的な場面だったはずだ。しかし、一人ずつ台詞を言うという機械的なリズムのせいで、必死に叫ぶ声もどこか嘘っぽく聞こえてしまう。リアリティーが感じられない。誰かが変化を起こすために動いてくれていれば、と思う。
例えばこのシーンで、他者の台詞に被せるように言葉を発していたとしたら。そうして、その変化に別の俳優が呼応する。最後には4人の言葉が重なるように舞台に広がり、巨大な圧力(エネルギー)となって客席に迫ってくるといった風に。

演劇とフットボールには通じるところがある。ある空間の中で、相手の言葉や動きなどにコンマ数秒の間に反応し、数ある選択肢の中から最も良いと思える次の行動を決める。そこには、常に人間同士が緊張感を孕んで対峙する姿がある。フットボールには、ドリブルで守備者をかわす時の駆け引きがある。PKの場面でのキッカーとゴールキーパーとの目に見えない戦いがある。そんな一瞬一瞬が自然とドラマを生み出す。今、その場所でしか絶対に起こり得ない生の時間を共有したいからこそ、観る者は劇場(スタジアム)に足を踏み入れるのではないだろうか。
生の時間があるということは、当然、俳優たちが舞台上で役を生きていなければ嘘になる。上演時間の間、俳優自身が脚本上の登場人物を懸命に生きることが大前提としてある。登場人物として生きる俳優一人ひとりがストーリーに添って行う会話のやり取りに、興味が沸く。ストーリーそれ自体は二の次で、俳優たちがどう反応し、どのように内面が変化していくのかを探るのが面白いのだ。

今回の作品では、生の反応を大切にして舞台で生きる俳優たちは残念ながら存在しなかった。このことが、登場人物のキャラクターをぼやけさせ、上演時間75分ほどが平板に過ぎていったと感じた要因だ。