この文章は、2015年12月19日(土)18:00開演のcoffeeジョキャニーニャ「サンタに来年の告白を」についての劇評です。
現代の小説のジャンルにライトノベルという分類がある。ラノベと呼ばれ、全体としてSF的でファンタジー性が強い作品も多く小説に比べ文学性は薄い。ストーリー性よりも登場人物のキャラクター性に比重が寄っているものが多いのも特徴だろう。挿絵が多い作品もあり10代~30代といった活字離れが進んだ世代にウケている。
多くの演劇が構造として文学であるとするならば、coffeeジョキャニーニャの作品はどこかラノベ的なのだ。
Coffeeジョキャニーニャは金沢大学演劇部の出身者を中心として2004年に旗揚げした。俳優の岡崎裕亮が代表を務め作演出を主に新津孝太が行う。そして、目指すものはコーヒーであると語る彼らは、劇団というよりもジョキャニーニャというある種の思想なのではないだろうか。「サンタに来年の告白を」はかなざわリージョナルシアターの5本目の作品、17歳の地図と銘打った通り彼らの17回目の本公演となる。
舞台はとあるペンションのロビー。そこに3組の客がやってくる。彼ら7人は前オーナーが行方不明になった5年前に宿泊しており、当時従業員であった現在のオーナーが、その時の真相を知るべく招待を出したのである。と作品はミステリーの様相を呈し展開する。
前オーナーが死体で発見されるのだが、シリアスになる事無く、自分達にも危険が及ぶにも関わらずギャグすら飛ぶ。更には死んだと思った人物が生き返る。死んだと思っていたのは夕食に幻覚性のあるキノコを食べてしまったからであり、そして5年前の真相もキノコの薬物作用を楽しんだ挙句の中毒死、死体は当時の宿泊者であり、オーナーは宿泊客と入れ替わり今も行方不明だと分かる。
作中で交わされるギャグもミステリー的なストーリーもどこか馬鹿馬鹿しさが漂う。ミステリーは表層としての構図であり、実際は登場する一組の夫婦。その夫が物語の本当の軸だったのではないだろうか。そうであるならば、伏線も笑いを狙う小ネタも、表層のストーリーとして降って湧いたような結末も、全てが馬鹿馬鹿しいと笑ってしまえるだけの落とし所を観客の中に残さなければならない。
馬鹿馬鹿しさの中に本筋を補うエッセンスを混ぜ、それらを排したところに本筋が細く見えてくる。そうか本筋はこれだったのか!と観客が後から気づく構造を成立できていたとは言えなかった。見終わった後、心に引っかかるものが弱い。落とし所の甘さに納得いかず手を叩く事を迷ったほどだ。
私の見た回だけかもしれないが、舞台に見入ってしまうだけの求心力が無かったのもあるだろう。拙い俳優が多かった事もあるが、笑いもストーリも含めた各所の詰めの甘さが大きい。実際、観客が会話をしてしまう散漫な空気が流れていた。ポップコーン付き1000円のエンタメ映画であればそれでも良いのだが劇空間では問題がある。見入るだけの力が無いだけにストーリーも流れ落ちてしまいがちだ。俳優の実力、舞台としての求心力、コメディとしての力、ストーリーなど様々な部分で物足りない感があったのは否めない。また、強度を求める観客に対し応える事が出来ていなかったのではないかと思う。
多くの演劇作品は本人達が意識していなくても強度を必要とする演劇を作っている。人物やストーリー、それらの背景と云った見えない部分も含めた世界観を通して、時代性や社会性、人間の抱える普遍的価値観などに裏打ちされた訴求力とも言えるものを舞台上に展開している。テーマ、通底する世界観といったものの太さやそれを舞台上で喚起した時に観客の中に残る強さが作品の強度になる。コメディにおいては意味や間など様々なズレや歪さなどの笑わせる構造としての強度が必要になる。
しかし、彼らは敢えて強度を薄めようとしているように思えてくる。馬鹿馬鹿しさ、コメディと言えない笑い、日常の感覚と少しズレたキャラクターたち。それらによって見せるべき本筋を敢えて暈しているのではないかと思えてしまうのだ。太さではなくキャッチーでどこか軽く、ブラックユーモアを匂わせ、シニカルに笑い飛ばす。しかし抱腹絶倒のコメディであろうともしない。そんな独特の作品は劇団の個性を感じる部分でもある。
だが、その個性を活かしたまま演劇としての強度を高める事も必要ではないだろうか。様々な要素で軽い印象を与えながらも、そこから透けて見える本筋が実は太く、肝となる「点」を観客の中に重く据えるという事は不可能でないはずだ。万人向けとは言わないが、オトナが満足するだけの太さや強さが欲しい。
独特な作風を維持しながらも構造としてもっと強固にし、見終わった観客の心に鋭く痛いトゲが確実に残る。ただ「ラノベ的」ではなく、もっと多くの層を納得させる「文学として成立したラノベ」的演劇と言いたくなるような作品。そこが彼らの次に目指すべき立ち居地ではないだろうか。
この文章は、2015年12月19日(土)18:00開演のcoffeeジョキャニーニャ「サンタに来年の告白を」についての劇評です。
クリスマスイブの晩、人里離れた山奥のペンションでは、地下室から白骨化した遺体が発見された。宿泊客たちは怯えつつも、吹雪のために戸外へ出られず、仕方なく部屋へと散って行った。しばしの静けさを取り戻したかに見える夜更け。店の従業員とバイトが戸締りにやって来るが、お客の大学教授がまだロビーにいる。もう遅いので部屋へ帰って下さいと頼むのかと思いきや、3人で一緒に座ってしまい、かといって話が弾む訳でもなく、居心地悪そうに意味のない会話をだらだらと続ける。ストレートに要望を言わず、相手の気づきを待つやり方は優しさかもしれないが、わかりにくく、これを夜遅くにやられると、不気味ですらある。ケラの芝居などではこういった場面でちよっとした言葉の端から重大な秘密が吐露されることも多いから、つい聞き耳を立てたが、特に何の展開もなく、そのまま終わってしまった。意味ありげな雰囲気で観客の好奇心はパンパンに膨らまされた挙句、見事に裏切られる。こういうストーリーに直接関係しないノイズを挟むところがいかにも新津さんらしいセンスという気がした。
本筋に入ると、山菜カレーを食べ、キノコ入りスープを飲んだ後で、教授以外の人間は気分が悪くなり、心肺停止に至る。で、死んだと思ったら、生き返る。そこで原因は毒キノコだったとわかる。5年前のイブに宿泊したサンタクロース姿の男(実は暴力団関係者)が幻覚作用のある毒キノコを服用しすぎて死亡し、それを外部に隠すために前店長の魚沼さんが衣装を借りて代わりに出て行ったまま失踪したらしい。とはいえ、複雑な事実関係を種明かしされても、特になんらかの感慨が湧くでもない。
新津氏が敬愛するアガサ・クリスティーのような緊迫したミステリーを目指しているのか、それともナンセンスコメディーか?二兎を追いかけて、両方とも中途半端だ。例えば、恐怖に駆られた宿泊客たちは教授を一方的に犯人と決めつけて麻袋に詰め込む。その捕まえ方は一人で簡単に逃げ出せるような緩いもので、冗談半分に見える。しかし、悪い意味ではない。確信犯的なヘタウマ演技によって醸し出される独特の脱力感が示すものは、危機に直面しても真剣になり切れない気分だ。むしろ危機自体が本物なのかと常に冷静に距離を置いて疑っている態度にこそ、現代を生きて行くたくましい批評精神が感じられた。
笑いに関しては、東京とも関西とも違う感覚があると思う。それを北陸的と呼んでいいのかどうかわからない。笑うしかないナンセンスな状況を自ら作っておきながら、面白かったら笑ってくださいと観客に委ねるような遠慮深さ。あるいはそんなにスッキリとは笑わせてやらないぞという意地悪なズラし方。東京や関西の人は肩透かしを喰らい、欲求不満に陥るかもしれないが、北陸の人たちはこういう種類の笑いに結構満足してクスクスと声を抑えながら楽しんでいるのかもしれない。
クリスマスイブの晩、人里離れた山奥のペンションでは、地下室から白骨化した遺体が発見された。宿泊客たちは怯えつつも、吹雪のために戸外へ出られず、仕方なく部屋へと散って行った。しばしの静けさを取り戻したかに見える夜更け。店の従業員とバイトが戸締りにやって来るが、お客の大学教授がまだロビーにいる。もう遅いので部屋へ帰って下さいと頼むのかと思いきや、3人で一緒に座ってしまい、かといって話が弾む訳でもなく、居心地悪そうに意味のない会話をだらだらと続ける。ストレートに要望を言わず、相手の気づきを待つやり方は優しさかもしれないが、わかりにくく、これを夜遅くにやられると、不気味ですらある。ケラの芝居などではこういった場面でちよっとした言葉の端から重大な秘密が吐露されることも多いから、つい聞き耳を立てたが、特に何の展開もなく、そのまま終わってしまった。意味ありげな雰囲気で観客の好奇心はパンパンに膨らまされた挙句、見事に裏切られる。こういうストーリーに直接関係しないノイズを挟むところがいかにも新津さんらしいセンスという気がした。
本筋に入ると、山菜カレーを食べ、キノコ入りスープを飲んだ後で、教授以外の人間は気分が悪くなり、心肺停止に至る。で、死んだと思ったら、生き返る。そこで原因は毒キノコだったとわかる。5年前のイブに宿泊したサンタクロース姿の男(実は暴力団関係者)が幻覚作用のある毒キノコを服用しすぎて死亡し、それを外部に隠すために前店長の魚沼さんが衣装を借りて代わりに出て行ったまま失踪したらしい。とはいえ、複雑な事実関係を種明かしされても、特になんらかの感慨が湧くでもない。
新津氏が敬愛するアガサ・クリスティーのような緊迫したミステリーを目指しているのか、それともナンセンスコメディーか?二兎を追いかけて、両方とも中途半端だ。例えば、恐怖に駆られた宿泊客たちは教授を一方的に犯人と決めつけて麻袋に詰め込む。その捕まえ方は一人で簡単に逃げ出せるような緩いもので、冗談半分に見える。しかし、悪い意味ではない。確信犯的なヘタウマ演技によって醸し出される独特の脱力感が示すものは、危機に直面しても真剣になり切れない気分だ。むしろ危機自体が本物なのかと常に冷静に距離を置いて疑っている態度にこそ、現代を生きて行くたくましい批評精神が感じられた。
笑いに関しては、東京とも関西とも違う感覚があると思う。それを北陸的と呼んでいいのかどうかわからない。笑うしかないナンセンスな状況を自ら作っておきながら、面白かったら笑ってくださいと観客に委ねるような遠慮深さ。あるいはそんなにスッキリとは笑わせてやらないぞという意地悪なズラし方。東京や関西の人は肩透かしを喰らい、欲求不満に陥るかもしれないが、北陸の人たちはこういう種類の笑いに結構満足してクスクスと声を抑えながら楽しんでいるのかもしれない。
この文章は、2015年12月19日(土)18:00開演のcoffeeジョキャニーニャ「サンタに来年の告白を」についての劇評です。
七人の客、一人の女主人、三人の従業員。人里離れた山のペンションに五年前の宿泊客が招待される。一組ずつチェックインをするたびに俳優はフリーズし、後ろの壁に役名と俳優が映し出される・・・が、その壁が変速の白黒市松模様のためその情報が読みにくい、残念!
それはさておき、始まりがもうミステリーの王道。五年前のその日に泊まったというだけで無料招待。何かある、無いはずがない、誰か殺される、次々と殺される、そして、誰も居なくなった・・・なんてことだろうか?
Coffeeジョキャニーニャ、小気味よいテンポと本筋とは関係のない小ネタを挟みながら役者たちが誰よりも楽しそうに舞台を動き回っている。そのテンポの良さを担っているのが今回出演しなかった中里和寛氏、絶妙のコンビを組むのが代表でもある岡崎裕亮氏。
作・演出を担当している新津孝太氏のこうなるだろうという予測を軽く裏切りながらも軽やかに進行するストーリー、どこか真面目とか真剣になる事を照れているようにも見える。
芝居が進むにつれて自分なりのストーリーを積み上げてこうなるのではという予想をいともあっさりと突き崩してしまう。期待した展開にそんなことは意味がないと、予測を持って観ている自分の思い込みと云う積み木をガラガラと壊していってしまう。予定調和を嫌い重い事象を軽くこともなげにやり過ごしカラカラと笑ってしまう、でも見終わった後には心に残る何かがある。そんなことを期待しながら見てしまう。
それでは今回のミステリーは・・・招待した女主人、行方不明になったオーナーの後を引き受けてペンションを経営している。やたらゆっくり喋るバイトの従業員が三人、何か訳があっての喋り方なのかと思ったが違った、唯のバイト。サンタクロースと付き人、ずっとサンタクロースの扮装のまま、客席の向かってのコーヒーはマイムで飲むが、後ろ向きで飲むスープはひげを上げて飲んでいた。意味が分からない?付き人も何もしない付いてるだけの付き人、その名の通り。若い夫婦、夫の方はストーリーテラーとなって場面と場面をつないで喋っている、奥さんは実はロボット。意味ありげな男二人と女一人の三人組、関係性が曖昧な三人、実は警察官。そして出演はないが行方不明の元オーナーの男、登場人物が全員怪しい所がない。フワフワと話が進みスカスカした会話が・・・弾まない。どこかできっかけがあるのかと期待しながら見るが無い。面白さだけを求める芝居を作るならそれまでの積み重ねの一つ一つにしっかりとした関係性が必要なのではないだろうか。軽く演じようとすればするほど確実な積み重ねがないと笑えないように思う。それでも、これからもこの積み木崩しを歯噛みしながら見続けていくだろう、期待しながら。
七人の客、一人の女主人、三人の従業員。人里離れた山のペンションに五年前の宿泊客が招待される。一組ずつチェックインをするたびに俳優はフリーズし、後ろの壁に役名と俳優が映し出される・・・が、その壁が変速の白黒市松模様のためその情報が読みにくい、残念!
それはさておき、始まりがもうミステリーの王道。五年前のその日に泊まったというだけで無料招待。何かある、無いはずがない、誰か殺される、次々と殺される、そして、誰も居なくなった・・・なんてことだろうか?
Coffeeジョキャニーニャ、小気味よいテンポと本筋とは関係のない小ネタを挟みながら役者たちが誰よりも楽しそうに舞台を動き回っている。そのテンポの良さを担っているのが今回出演しなかった中里和寛氏、絶妙のコンビを組むのが代表でもある岡崎裕亮氏。
作・演出を担当している新津孝太氏のこうなるだろうという予測を軽く裏切りながらも軽やかに進行するストーリー、どこか真面目とか真剣になる事を照れているようにも見える。
芝居が進むにつれて自分なりのストーリーを積み上げてこうなるのではという予想をいともあっさりと突き崩してしまう。期待した展開にそんなことは意味がないと、予測を持って観ている自分の思い込みと云う積み木をガラガラと壊していってしまう。予定調和を嫌い重い事象を軽くこともなげにやり過ごしカラカラと笑ってしまう、でも見終わった後には心に残る何かがある。そんなことを期待しながら見てしまう。
それでは今回のミステリーは・・・招待した女主人、行方不明になったオーナーの後を引き受けてペンションを経営している。やたらゆっくり喋るバイトの従業員が三人、何か訳があっての喋り方なのかと思ったが違った、唯のバイト。サンタクロースと付き人、ずっとサンタクロースの扮装のまま、客席の向かってのコーヒーはマイムで飲むが、後ろ向きで飲むスープはひげを上げて飲んでいた。意味が分からない?付き人も何もしない付いてるだけの付き人、その名の通り。若い夫婦、夫の方はストーリーテラーとなって場面と場面をつないで喋っている、奥さんは実はロボット。意味ありげな男二人と女一人の三人組、関係性が曖昧な三人、実は警察官。そして出演はないが行方不明の元オーナーの男、登場人物が全員怪しい所がない。フワフワと話が進みスカスカした会話が・・・弾まない。どこかできっかけがあるのかと期待しながら見るが無い。面白さだけを求める芝居を作るならそれまでの積み重ねの一つ一つにしっかりとした関係性が必要なのではないだろうか。軽く演じようとすればするほど確実な積み重ねがないと笑えないように思う。それでも、これからもこの積み木崩しを歯噛みしながら見続けていくだろう、期待しながら。
この文章は、2015年12月19日(土)18:00開演のcoffeeジョキャニーニャ「サンタに来年の告白を」についての劇評です。
観客を楽しませようという意思は感じられるのだが、それほど楽しい気分にはならなかった。といってつまらなかったというのとも違う。強いて言葉にすれば、微笑ましい気分になった、といったところか。
12月19日に金沢市民芸術村ドラマ工房で上演された劇団Coffeeジョキャニーニャの『サンタに来年の告白を』を観た。舞台は吹雪の山の中にあるペンションのロビー。5年前の12月24日つまり今日、当時のペンションのオーナーである魚沼が姿を消した。そのときの従業員であり現オーナーの関川さきがその日ペンションに泊まっていた7人の客を招待し、魚沼失踪の真相を確かめようというのである。
ゆるーく小さいギャグが散りばめられて始まった芝居が、地下室で魚沼かと思われる白骨死体が発見されたあたりから、ミステリーの様相を呈してくる。誰が魚沼を殺したのか……。舞台に引き込まれる。科学者である寺戸ひでやが離れて行った妻に似せたロボットを造ってしまった、という切ないお話も絡んでくる。不条理の匂いもある。死体が発見されても、あるいは誰かが死んでいるのではないかという場面に遭遇しても、周りの人たちは驚いているふりはするがリアルに感じているとは見えない。平気で飲んだり食べたりする。最も冷静に事の成り行きを観察していた科学者の寺戸ひでやが、最後には最も常軌を逸した人物であることが明らかになったりする。互いに「自分は死んでいない。お前は死んでいる」と主張しているうちに、だんだんと「ひょっとしたら自分は死んでいるのだろうか」と疑問を抱く場面が、不条理の極みであった。
もともとサンタクロースという存在には、キリスト教発祥以前のヨーロッパの宗教的伝統も染み込んでおり、そこにはメルヘン的な要素だけでなくおどろおどろしい要素も混じっている。だから、サンタクロースをネタにして毒キノコといったブラックな要素も入れたごった煮的な舞台を作ろうという試みは、ある面伝統に則ったものだといえる。惜しむらくは、細かい部分に粗さが目につく。ギャグの間合いのズレ、台詞が対話になっていない点、なぜ5年前たまたま泊まり合わせた客のなかに刑事がいたのかというストーリーのご都合主義など、もう少し作り込めばよりおもしろい芝居になったのではないか。
ただ、劇団の目指している方向はそんなところにはないのかもしれない。
終演後のアフタートークで、素の役者同士の軽口の遣り取りを聞いていたら芝居がまだ終わっていない錯覚に襲われた。気心の知れた者が集まって普段のおしゃべりをしているうちに、誰かが芝居の台詞がかった言葉を発し、他の誰かがそれに応じ、周りにいる全員が芝居のなかに巻き込まれていった……。劇団の目指しているのはそんな芝居なのかもしれない。
役者をはじめ劇団に関わる人たちが楽しんで芝居をやっていること、これは大切なことだ。私の感じた微笑ましさの正体はそのあたりにありそうだ。ただそうした方向性が、自分たちだけの閉じた世界で自足していくものになったとしたらつまらない。この劇団の芝居を初めて観る観客ともなんらかの形で共鳴を起こしたいという意思、そうした意思を次の芝居で感じられたらうれしい。
観客を楽しませようという意思は感じられるのだが、それほど楽しい気分にはならなかった。といってつまらなかったというのとも違う。強いて言葉にすれば、微笑ましい気分になった、といったところか。
12月19日に金沢市民芸術村ドラマ工房で上演された劇団Coffeeジョキャニーニャの『サンタに来年の告白を』を観た。舞台は吹雪の山の中にあるペンションのロビー。5年前の12月24日つまり今日、当時のペンションのオーナーである魚沼が姿を消した。そのときの従業員であり現オーナーの関川さきがその日ペンションに泊まっていた7人の客を招待し、魚沼失踪の真相を確かめようというのである。
ゆるーく小さいギャグが散りばめられて始まった芝居が、地下室で魚沼かと思われる白骨死体が発見されたあたりから、ミステリーの様相を呈してくる。誰が魚沼を殺したのか……。舞台に引き込まれる。科学者である寺戸ひでやが離れて行った妻に似せたロボットを造ってしまった、という切ないお話も絡んでくる。不条理の匂いもある。死体が発見されても、あるいは誰かが死んでいるのではないかという場面に遭遇しても、周りの人たちは驚いているふりはするがリアルに感じているとは見えない。平気で飲んだり食べたりする。最も冷静に事の成り行きを観察していた科学者の寺戸ひでやが、最後には最も常軌を逸した人物であることが明らかになったりする。互いに「自分は死んでいない。お前は死んでいる」と主張しているうちに、だんだんと「ひょっとしたら自分は死んでいるのだろうか」と疑問を抱く場面が、不条理の極みであった。
もともとサンタクロースという存在には、キリスト教発祥以前のヨーロッパの宗教的伝統も染み込んでおり、そこにはメルヘン的な要素だけでなくおどろおどろしい要素も混じっている。だから、サンタクロースをネタにして毒キノコといったブラックな要素も入れたごった煮的な舞台を作ろうという試みは、ある面伝統に則ったものだといえる。惜しむらくは、細かい部分に粗さが目につく。ギャグの間合いのズレ、台詞が対話になっていない点、なぜ5年前たまたま泊まり合わせた客のなかに刑事がいたのかというストーリーのご都合主義など、もう少し作り込めばよりおもしろい芝居になったのではないか。
ただ、劇団の目指している方向はそんなところにはないのかもしれない。
終演後のアフタートークで、素の役者同士の軽口の遣り取りを聞いていたら芝居がまだ終わっていない錯覚に襲われた。気心の知れた者が集まって普段のおしゃべりをしているうちに、誰かが芝居の台詞がかった言葉を発し、他の誰かがそれに応じ、周りにいる全員が芝居のなかに巻き込まれていった……。劇団の目指しているのはそんな芝居なのかもしれない。
役者をはじめ劇団に関わる人たちが楽しんで芝居をやっていること、これは大切なことだ。私の感じた微笑ましさの正体はそのあたりにありそうだ。ただそうした方向性が、自分たちだけの閉じた世界で自足していくものになったとしたらつまらない。この劇団の芝居を初めて観る観客ともなんらかの形で共鳴を起こしたいという意思、そうした意思を次の芝居で感じられたらうれしい。
この文章は、2015年12月19日(土)18:00開演のcoffeeジョキャニーニャ「サンタに来年の告白を」についての劇評です。
生きているのか。死んでいるのか。確実なのは、死んでいる人間はもう死ねないということだ。じゃあ殺してみて死んだら生きてたってことじゃね? そうしよう! やってみた! 死んだじゃないかこの人殺し!
Coffeeジョキャニーニャの17回目の公演にあたる、十七歳の地図「サンタに来年を告白を」の劇中で、上記のようなやりとりが展開される。人の生死というものが、あまりにも軽い。ただこの軽さは、「生きているのか、いないのか」を重苦しく考えないまま舞台に上げるための、逆側からのアプローチに思える。固定観念を裏返してみようというちょっとした企み。劇団名にCoffeeを冠し、17回目だからと戯曲にはまったく関係のない尾崎をサブタイトルに配してみる、ジョキャニーニャの遊び心だろう。
雪深いクリスマスイブのペンションに、続々と客が到着する。彼らは5年前の同日にも、このペンションに泊まっていた。オーナーの関川さきの意向で招待されたのだ。さきの目的は、5年前に起きた前オーナー失踪事件について、客達に話を聞くこと。だが、ほどなく秘密の地下室と、その中で白骨化した死体が見つかってしまう。猛吹雪で孤立したペンションに、助けは来ない。客達は疑心暗鬼に陥り、奇妙な行動を取り始める。
この芝居には「殺人」の他に、二つの要素が登場する。「ロボット」と「サンタ」だ。研究者寺戸ひでやの妻、まりは、実はロボットである。妻を失ったひでやが作ったのだ。……と書くと、遠くへ旅立った妻を思うひでやの純愛が想像されるが、違う。巨乳女子大生との不倫で離婚に至り、妻と会えなくなったという体たらくである。それでも、妻を思ってはいるのだ。ロボットは生きてはいない。でも動いている。死んではいない。そう信じさせる原動力が執拗な妄想であろうとも、はっきり言えば気持ち悪かろうとも、ひでやの感情の中で、確かにロボットのまりは生きているのだ。
サンタだってそうだ。行方不明の前オーナー魚沼は、土地に伝わるサンタクロース伝承を調べていた。これまた土地に伝わるサンタ茸というものに、不思議な効能が、精神に作用する効果があったからなのかもしれないが、魚沼のサンタに関わる行動には、サンタの存在を望む心があったのだろう。
殺人とロボットとサンタと、非日常がおり重なっている。その絡みあいが面白さでもあるのだが、絡まり方が複雑になっていた。特にサンタ部分を担う魚沼の意図と行方などは、疑問がほどけないまま終わりを迎えたのが残念である。ここでも、ほっとできる着地点を観たかった。
いるのか、いないのか。なんか難しい問いだけど、今この舞台上で何かが動いていること、それだけは間違いがないから、それをもって「いる」としていいのでは? そんな問いかけのように思えた芝居だった。芝居という作り物の中だけでも、動いているそれは生命を与えられている。
生きているのか。死んでいるのか。確実なのは、死んでいる人間はもう死ねないということだ。じゃあ殺してみて死んだら生きてたってことじゃね? そうしよう! やってみた! 死んだじゃないかこの人殺し!
Coffeeジョキャニーニャの17回目の公演にあたる、十七歳の地図「サンタに来年を告白を」の劇中で、上記のようなやりとりが展開される。人の生死というものが、あまりにも軽い。ただこの軽さは、「生きているのか、いないのか」を重苦しく考えないまま舞台に上げるための、逆側からのアプローチに思える。固定観念を裏返してみようというちょっとした企み。劇団名にCoffeeを冠し、17回目だからと戯曲にはまったく関係のない尾崎をサブタイトルに配してみる、ジョキャニーニャの遊び心だろう。
雪深いクリスマスイブのペンションに、続々と客が到着する。彼らは5年前の同日にも、このペンションに泊まっていた。オーナーの関川さきの意向で招待されたのだ。さきの目的は、5年前に起きた前オーナー失踪事件について、客達に話を聞くこと。だが、ほどなく秘密の地下室と、その中で白骨化した死体が見つかってしまう。猛吹雪で孤立したペンションに、助けは来ない。客達は疑心暗鬼に陥り、奇妙な行動を取り始める。
この芝居には「殺人」の他に、二つの要素が登場する。「ロボット」と「サンタ」だ。研究者寺戸ひでやの妻、まりは、実はロボットである。妻を失ったひでやが作ったのだ。……と書くと、遠くへ旅立った妻を思うひでやの純愛が想像されるが、違う。巨乳女子大生との不倫で離婚に至り、妻と会えなくなったという体たらくである。それでも、妻を思ってはいるのだ。ロボットは生きてはいない。でも動いている。死んではいない。そう信じさせる原動力が執拗な妄想であろうとも、はっきり言えば気持ち悪かろうとも、ひでやの感情の中で、確かにロボットのまりは生きているのだ。
サンタだってそうだ。行方不明の前オーナー魚沼は、土地に伝わるサンタクロース伝承を調べていた。これまた土地に伝わるサンタ茸というものに、不思議な効能が、精神に作用する効果があったからなのかもしれないが、魚沼のサンタに関わる行動には、サンタの存在を望む心があったのだろう。
殺人とロボットとサンタと、非日常がおり重なっている。その絡みあいが面白さでもあるのだが、絡まり方が複雑になっていた。特にサンタ部分を担う魚沼の意図と行方などは、疑問がほどけないまま終わりを迎えたのが残念である。ここでも、ほっとできる着地点を観たかった。
いるのか、いないのか。なんか難しい問いだけど、今この舞台上で何かが動いていること、それだけは間違いがないから、それをもって「いる」としていいのでは? そんな問いかけのように思えた芝居だった。芝居という作り物の中だけでも、動いているそれは生命を与えられている。