(劇評)「それがいる現実があってもいい」大場さやか | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
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この文章は、2015年12月19日(土)18:00開演のcoffeeジョキャニーニャ「サンタに来年の告白を」についての劇評です。


生きているのか。死んでいるのか。確実なのは、死んでいる人間はもう死ねないということだ。じゃあ殺してみて死んだら生きてたってことじゃね? そうしよう! やってみた! 死んだじゃないかこの人殺し!
Coffeeジョキャニーニャの17回目の公演にあたる、十七歳の地図「サンタに来年を告白を」の劇中で、上記のようなやりとりが展開される。人の生死というものが、あまりにも軽い。ただこの軽さは、「生きているのか、いないのか」を重苦しく考えないまま舞台に上げるための、逆側からのアプローチに思える。固定観念を裏返してみようというちょっとした企み。劇団名にCoffeeを冠し、17回目だからと戯曲にはまったく関係のない尾崎をサブタイトルに配してみる、ジョキャニーニャの遊び心だろう。
 雪深いクリスマスイブのペンションに、続々と客が到着する。彼らは5年前の同日にも、このペンションに泊まっていた。オーナーの関川さきの意向で招待されたのだ。さきの目的は、5年前に起きた前オーナー失踪事件について、客達に話を聞くこと。だが、ほどなく秘密の地下室と、その中で白骨化した死体が見つかってしまう。猛吹雪で孤立したペンションに、助けは来ない。客達は疑心暗鬼に陥り、奇妙な行動を取り始める。
この芝居には「殺人」の他に、二つの要素が登場する。「ロボット」と「サンタ」だ。研究者寺戸ひでやの妻、まりは、実はロボットである。妻を失ったひでやが作ったのだ。……と書くと、遠くへ旅立った妻を思うひでやの純愛が想像されるが、違う。巨乳女子大生との不倫で離婚に至り、妻と会えなくなったという体たらくである。それでも、妻を思ってはいるのだ。ロボットは生きてはいない。でも動いている。死んではいない。そう信じさせる原動力が執拗な妄想であろうとも、はっきり言えば気持ち悪かろうとも、ひでやの感情の中で、確かにロボットのまりは生きているのだ。
サンタだってそうだ。行方不明の前オーナー魚沼は、土地に伝わるサンタクロース伝承を調べていた。これまた土地に伝わるサンタ茸というものに、不思議な効能が、精神に作用する効果があったからなのかもしれないが、魚沼のサンタに関わる行動には、サンタの存在を望む心があったのだろう。
 殺人とロボットとサンタと、非日常がおり重なっている。その絡みあいが面白さでもあるのだが、絡まり方が複雑になっていた。特にサンタ部分を担う魚沼の意図と行方などは、疑問がほどけないまま終わりを迎えたのが残念である。ここでも、ほっとできる着地点を観たかった。
いるのか、いないのか。なんか難しい問いだけど、今この舞台上で何かが動いていること、それだけは間違いがないから、それをもって「いる」としていいのでは? そんな問いかけのように思えた芝居だった。芝居という作り物の中だけでも、動いているそれは生命を与えられている。