(劇評)「『いいじゃないの楽しければ』ではあるが」ぽんた | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
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この文章は、2015年12月19日(土)18:00開演のcoffeeジョキャニーニャ「サンタに来年の告白を」についての劇評です。


 観客を楽しませようという意思は感じられるのだが、それほど楽しい気分にはならなかった。といってつまらなかったというのとも違う。強いて言葉にすれば、微笑ましい気分になった、といったところか。
 12月19日に金沢市民芸術村ドラマ工房で上演された劇団Coffeeジョキャニーニャの『サンタに来年の告白を』を観た。舞台は吹雪の山の中にあるペンションのロビー。5年前の12月24日つまり今日、当時のペンションのオーナーである魚沼が姿を消した。そのときの従業員であり現オーナーの関川さきがその日ペンションに泊まっていた7人の客を招待し、魚沼失踪の真相を確かめようというのである。
 ゆるーく小さいギャグが散りばめられて始まった芝居が、地下室で魚沼かと思われる白骨死体が発見されたあたりから、ミステリーの様相を呈してくる。誰が魚沼を殺したのか……。舞台に引き込まれる。科学者である寺戸ひでやが離れて行った妻に似せたロボットを造ってしまった、という切ないお話も絡んでくる。不条理の匂いもある。死体が発見されても、あるいは誰かが死んでいるのではないかという場面に遭遇しても、周りの人たちは驚いているふりはするがリアルに感じているとは見えない。平気で飲んだり食べたりする。最も冷静に事の成り行きを観察していた科学者の寺戸ひでやが、最後には最も常軌を逸した人物であることが明らかになったりする。互いに「自分は死んでいない。お前は死んでいる」と主張しているうちに、だんだんと「ひょっとしたら自分は死んでいるのだろうか」と疑問を抱く場面が、不条理の極みであった。
 もともとサンタクロースという存在には、キリスト教発祥以前のヨーロッパの宗教的伝統も染み込んでおり、そこにはメルヘン的な要素だけでなくおどろおどろしい要素も混じっている。だから、サンタクロースをネタにして毒キノコといったブラックな要素も入れたごった煮的な舞台を作ろうという試みは、ある面伝統に則ったものだといえる。惜しむらくは、細かい部分に粗さが目につく。ギャグの間合いのズレ、台詞が対話になっていない点、なぜ5年前たまたま泊まり合わせた客のなかに刑事がいたのかというストーリーのご都合主義など、もう少し作り込めばよりおもしろい芝居になったのではないか。
 ただ、劇団の目指している方向はそんなところにはないのかもしれない。
 終演後のアフタートークで、素の役者同士の軽口の遣り取りを聞いていたら芝居がまだ終わっていない錯覚に襲われた。気心の知れた者が集まって普段のおしゃべりをしているうちに、誰かが芝居の台詞がかった言葉を発し、他の誰かがそれに応じ、周りにいる全員が芝居のなかに巻き込まれていった……。劇団の目指しているのはそんな芝居なのかもしれない。
 役者をはじめ劇団に関わる人たちが楽しんで芝居をやっていること、これは大切なことだ。私の感じた微笑ましさの正体はそのあたりにありそうだ。ただそうした方向性が、自分たちだけの閉じた世界で自足していくものになったとしたらつまらない。この劇団の芝居を初めて観る観客ともなんらかの形で共鳴を起こしたいという意思、そうした意思を次の芝居で感じられたらうれしい。