今回の合唱サークルの合宿で感じたことを書き下していきたいと思う。まだ整理のついていない部分もあり、大変お見苦しい文章になるかもしれないが、重要なことだと思うのでここにとどめておきたいと思う。


・正確に歌うこと。もっと楽譜を読み込まなくてはいけない。少しは理解できるようになってきたつもりでいたが、まったくもって甘すぎた。音楽の知識を頭にインプットして、楽譜を読むときの助けとすること。もちろん、僕にとって、この課題は重要なことだ。しかしそれだけでは、不十分であることもわかった。楽譜に書いていることを本当に理解するということは、極端かもしれないが、ひとつの音符、記号、歌詞にさえ、作曲者の意図を感じなくてはならないのかもしれない。今の僕には到底推し量れない領域ではある。今出来ることは、演奏会までに、演奏曲の楽譜をもう一度注意深く読み直すことだ。


・聴く人の視点を意識すること。これは練習中の先生から頂くアドバイス、またメンバーの皆さんの姿勢から感じたことだ。このことが僕には決定的に足らなかったと思う。


・自分にとって音のとりやすい曲とそうでない曲があることがわかった。なぜそんなことがあるのかは今は説明はつかない。

ただ速度が速い曲、転調がある曲はかなり苦戦するらしい。


・上下1音を越えて変化する音を声に出して練習したいと思った。もちろんドレミの音程練習は欠かさず行うこと。


今まで約2年間、中学以来となるクラシック音楽に多少なりとも触れてきた。今の段階では、全てとは云わないが、まだ自己満足の領域であることは否めない。しかし、やはり僕は音楽が好きだ。この前も、自分が参加した演奏会の会場で、バッハのカンタータニ短調(だったと思う)のオルガン演奏を耳にした。恥ずかしい話だが、涙があふれて止まらなかった。音楽は人の心を癒し、温めるものだということに疑いはないと、僕は再び強い確信を持ち直したのである。この好きだと思う気持ちを大切にやれることをやっていきさえすれば、きっと、僕にも自分の音楽が表現できる。頂は、雲のそのまた上に、白くかすんで見えるだけである。頂は高く高く。険しく険しく。合宿が終わった直後、なんだかすっきりしたような、不思議な気持ちだった。スケジュールをこなした達成感もあったが、今、自分に足らない部分が明確になったことが嬉しかったのかもしれない。

もはや持病といってもよい、右後頭部の偏頭痛に悩まされる金曜の夜。頭が痛くなるほど、使っていないと思うのだが、まあずいぶんやわな頭である。一時期、直す方法はないかと考えたこともあるが、最近はあきらめかけている。いつもは心を熱くさせられる、ショパンの「英雄ポロネーズ」の颯爽とした曲調も、本日の僕には少々厳しいようで、思わずパソコンのメディアプレイヤーの停止ボタンをクリックした。今週は、少々無理をしたこともあるかもしれない。そういえば、今週の労働時間は長かった。正直つらいと思ったことは一度や二度ではない。ちょっと前の自分だったら耐え切れなかったと思う。ほんのちょっと覚悟が座ってきたのか知れない。しかし、発声の練習の時間がとれないのは痛い。演奏会の音とりも後回しになる。今日も電車の中で音楽のことを忘れかけていた自分に気づいた。思わずドレミと口ずさんでみるくらいが関の山。本もさすがに数十ページ読むのが精一杯だ。ついつい酒に手が伸びそうになるが明日は朝は早いので眠る以外ない。これが今日の「現実」と言う奴らしい。さあ明日はどんな日になるかな。明日から、合唱サークルの合宿。

言no葉、更新してみました。ギリシャの哲学者、エピクテトスの言葉です。エピクテトスとの出会いは、現在読んでいる「知的生活の方法」で、その中で、彼について「どんな逆境にあっても心の平静を保った」と紹介されていました。この言葉に心を動かされ、少しネットで調べてみたら、彼の残した言葉に出会いました。彼は元々奴隷でしたが、勉強に勉強を重ね、解放後は学校を開いたとのこと。深い思索に満ちた重みのある言葉です。つらいことがあると、ついつい愚痴を口にしてしまうことがある自分。彼の「人生語録」を読むことが最良の薬かもしれません。自分の恥に気づけたことに感謝、教えてくれた人に愛情をもって、情熱をもって自ら改めよ。現実を厳しく見つめて、どんな逆境でもポジティブに生きていくこと。生命力に満ちていますね。夢想家はもう卒業ですね。レッドソックスの松坂じゃないけど、叶わぬ夢はもういりません。夢を思うのではなく、今日より成長した明日の自分の姿を思う。


休日の合間を縫って、六本木の新国際美術館に行って来た。人だかりのある美術館を見たのは初めての経験で少しびっくりした。ずいぶん各所で宣伝されていたようだし、オープンからまだ1週間ということもあるだろうが、この事実を、アートへの関心の高さと素直には受けとめられなかった。今後、東京の一観光地ではなく、アートの発信地として、どんな特徴を示していくかが非常に興味深い。といっている私も今回はなんとなく出かけた一人ですが。文化庁メディア芸術祭企画の「日本の表現力」の鑑賞が目的だったが、同じ目的の人が多かったのか、かなり混雑しており、十分な鑑賞はできなかった。それでも人体や体内を模した作品などを見ると、人間の持つ生命力の偉大さに改めて気づかされ、そんな時、ふと自分自身を見つめると、ふつふつと力が沸きあがるような、なおかつ安らかな気持ちにもなれるのだった。 「黒川紀章展」にも足を運んでみた。以前黒川氏の著書に目を通したことがある。それをきっかけに、都市開発、建築に対する興味が芽生えつつはあった。とはいえ、特に生活の中で関わりがあるわけでもなく、深く掘り下げることもなかったため、正直、建築については全くの素人である。だが、素人だからかもしれないが、小さな建物の模型を、自分の目で観察していることで単純に無邪気になれるのである。小さい頃にも、同じような感覚を受けた気がする。今は何も思い出せないが。オブジェクトの形やつながりの意味を、展示場の文章から読み取るだけでなく、自分で想像してみる。そうすることで、建築家と向き合うことが出来る気がした。オブジェクトが織り成す規則性は、音楽にも通じる気がしている。またしばらくしたらもう一度訪れたい気にさせられる展示会だった。

1月もあとわずか。今年はブログ更新していくぞ~とか思いながら、まだ4回しか更新してないでやんの。怠惰すぎて少し笑えない。あえて言い訳をいわせてもらうと、昨年の年末から、笑えないくらい原因不明の眠れない夜が続き、少し、いやかなりめげていた。さすがに深刻になったが、今週は、落ち着いている(かもね)。結論。よく働き、よく休む。これに尽きる。ダンボールの中に、未読の本がたんまりとたまってきた。ざっと100冊以上はある。「本は買えるときに買っておけ」という、前の会社の先輩からの教えを今でも忠実に守っている。「買うだけで満足してるんじゃないの~」なんていう冷ややかな言葉を気にかけず、今日も買いあさる。いや、もちろん読む時間も作りますよ~。なんて少し弱気?僕は、購入しようと思う本に、常に運命的な出会いを感じる。その本に出会ったことに必ず意味があるのだと堅く信じている。そうやって自分が購入した本だからこそ、自分の思想がひそかに現れてくるのだと思う。蔵書を見ながら、読書計画を考えるのが楽しい。今は、思考を学ぶ本を何度も読み返したいと思っている。小説は「翔ぶが如く」以外はしばらく読まない。そう。複数の本を同時進行で読んでいくのが僕の癖です。

窓を開けると、一日しぶとく降り続けていた雨がやんでいることに気づいた。天気予報によると、この連休の天候は大荒れということだから、僕の住む町の空は、雨雲と雨雲の切れ目なのかもしれない。まもなく降るのだろう。僕自身はといえば、この3連休、明日友人と飲む以外に大した予定もないし、心持は、すでに正月気分から脱したようだ。今年も6日が経とうとしている。今日は、閉じこもりだったが、おかげで家の中をじっくり片付けることができた。フォルダに無造作に放り込んでいた冊子やらリーフレットを整理整頓する。いつものことだが、整理整頓しているものから、忘れかけていたことに気づかされる。でも今日はなぜかそのことについてそれ以上深く考えたくはなかった。手を動かしながら、今年はどんな年になるのだろうと考える。正直、今のところ、何もわからなかった。去年の今頃は、机に座って、年の目標を考えたものだが、今年はどうもそれはおっくうだ。目標を言葉で表すことよりも、もっと大事なことがある。そんな思いを胸に秘めていればいい。また決意を新たにする。まず直近は、1月下旬のコンサートに向けて、楽譜のチェックとボイストレーニング、体調管理を怠らないでおきたい。

今日はどうも調子がよろしくない。たぶん、昨日の夜、窓を開けっぱなしにしたまま寝てしまったせいだ。東京とはいえ、さすがに夜は寒い。朝、服を買うために外出してからは、自宅で本を読んだりしながら、安静にしている。実は明日の仕事の準備をしなくてはならないのだが、風呂に入って、薬を飲んでとりあえず寝てしまうことにする。とにかく体が資本。明日は明日の風が吹く。家の整理をしながら今年のことを少しづつ考えている。やることは尽きないのはわかっているので、それを楽しみとして気楽にやることにする。腹の周りの肉が気になってきた。これだけは気楽にいられない。


大晦日から元旦にかけて、家族と、群馬の水上温泉に行って参りました。水上は数日前に降った雪が残り、大晦日の夜も大変寒かったのですが、露天温泉では、冷たい外気でのぼせにくくなることを幸いとして、ほろ酔いになっては、露天温泉につかるというのを、何度も繰り返し、温泉三昧でした。父も「寒い土地の温泉の方が心地好い」と喜んでいました。夜はずいぶん遅くまで家族と話をしました。自分の将来についての忠告に、改めて心身を引き締めました。温泉で、体の疲れは嘘みたいにとれたのですが、体のみならず、心も新たに今後を生活したいと思います。具体的に今年は・・と言われると、未だ考え中というのが正直な所ですが、あまり高望みせず、簡単なものから確実に達成していければと思います。創作に絡むことでは、まず、声楽では、正しい音程で声を出せるようにすること、また、本を読む、文章を書く習慣を完全に定着させることでしょうか。ちなみに、今年初めて読んだ本は、織田作之助の「夫婦善哉」(新潮文庫)でした。私も結婚を現実的に考え始め、そのことがこの本を読もうと思ったきっかけのひとつだったかもしれません。まだこれと言う心当たりの相手もいないので、気が早すぎますが。大阪の通りや筋の名前、商店の名前が頻繁に出てくるのが印象的でしたが、大阪に不案内な僕にとっては正直検討がつかず、そのことが少し残念ではありました。織田作之助の作品は、かなり前から読んでみたいという気持ちがありました。正直期待以上で、目が少しだけ開かれた気がしています。「夫婦善哉」も悪くないですが、僕は一緒に掲載されていた他5作の方が印象的です。特に「世相」は、作品の構成といい、作品の書き出しといい、素晴らしいと思いました。作品自体もさることながら、織田作之助の創作に対する苦悩が感じ取れる一作。ちなみに今年初めての文章はこのブログです。今年も宜しくお願いいたします。 2007新春 Kotaroad


久々にブログを書いております。なにしろ1ヶ月近くインターネット回線が不通だったため、こうやって自宅でブログを書くことすら、新鮮な思いが致します。今年もあと3日です。でも不思議なことになんだか全くそんな気がしないのです。このまま終わらせてはいけない気がしています。新しい年になっただけでは解決されない空白。それを少しでも埋めて、年を越せればと思う次第です。ずいぶん無理なことをした一年でした。正直、反省、後悔の念が尽きず、そのことを考えると自分に至らなさを感じ、胸がいたくなります。来年のことはまだあまり考えられません。もちろん来年のスケジュールはだいぶ見えてきてはいるのだけれど、来年の自分がどうなっているかは未だ想像できないのです。今年の自分をゆっくり振り返り、至らない自分に本当にさよならを告げて、揺ぎ無い第一歩を。


このブログも来年はもう少し意味のあるものに。

日々のちょっとしたことにでも、喜びを見出せるようになると、きっと人生はもっと楽しい。例えば、今日は昨日と打って変わって、天気がいい。電車で座れた。新聞に全て目を通せた。朝早く会社に来て、ブログを書くことが出来ている。見過ごしてしまうほど、普通のことだけど、これが普通のことと思えることに感謝しなくては。そう、感謝感謝感謝。むやみに快楽をもとめようとしなくても、普通のくらしの中にも、必ず喜びの種が隠れているんだ。こうやって書いているうちに、ふと小学生の頃を思い出した。物事にもっと純粋だったあの頃の自分。逆上がりができた、テストで100点をとれた。それだけで、とてもうれしかったように思う。先生や友人にほめられれば、有頂天になった。ところが、年を経てからは、少しの事では喜べなくなった。周りもむやみに褒めたりしない。確かに、喜びだけでは解決できない厳しさ・悲しみに何度を直面して、その苦しさを身を持って知ると、人はそうなってしまうのかもしれない。しかし、だからこそ、うれしい、うまくいったという気持ちを捕まえたら、小さくガッツポーズしよう。そしてまた淡々と歩んでいこう。山登りもただ苦しいと思っているときつい。路傍の花、気持ちのよい風、鳥のさえずり、これらがあるから、人は登っていける。その喜びを知っていれば、厳しさが襲ってきても、必ず耐えることが出来る。そうか、山登りか、我ながら好いたとえかなとほくそえむ。