『神曲』煉獄登山19.傲慢を戒める彫像(前篇) | この世は舞台、人生は登場

この世は舞台、人生は登場

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第1環道の出口を飾る13の彫像

   煉獄山の煉獄門をくぐると、そこは第1環道で、善良な霊魂たちが傲慢の罪の浄化に努めていました。そして、その環道もいよいよ出口が近づいて来ました。そして、その環道の最後の区画には、傲慢の罪を犯した13の代表的な事例が彫刻で刻まれていました。それらは皆、第1環道の出口を飾るに相応しい優れた出来栄えの彫像でした。そこに飾られた彫刻の一つ一つが、次のように描写されています。その箇所は、ダンテの詩芸術を解明するのに重要な部分ですので、その細部を点検するまえに、全体像を平川祐弘先生の翻訳で概観しておきましょう。

 

   故人の思い出が後世に伝わるよう / 地面に掘られた墓の蓋には / 葬られた人のありし日の姿が刻まれている。

それを見ると思い出に心がうずき / 時には涙もにじむ、/ 情の深い人だけが覚える胸の痛みだ。

その墓石と同じように、山から突き出た路の上には / 造主の腕前が違うせいだろうが、/ 格段に出来栄えのよい彫像が刻まれている。

 

   見ると道の片方には、他のものよりはるかに / 高貴に創られた者が、稲妻のように / 天からまっさかさまに落ちた図が刻まれていた。

   見るともう一方の側にはブリアレオスが、/ 神の矢に射ぬかれて、死の寒さに凍えて / 重たい図体を地面の上に横たえていた。

   見るとアポロやミネルウァやマルスが / 武装したまま父を取り囲み、/ 粉々になった巨人たちの手足を見つめていた。

   見るとニムロデが〔バベルの〕塔の下で / なかば茫然として、シナルの地に集まった / 自分に劣らず高慢ちきな者どもを眺めていた。

 

   おお、ニオベよ、殺された七人の息子と七人の娘の間で、/ 見た目にもいたましい姿で、/ おまえの道の上の石像と化していた。

   おお、サウルよ、おまえは自分の剣の上に身を投げて / ジルボアで死んだその時のままの姿で写されていた、/ あの地には以後雨も降らず露も置かぬという。

   おお、狂女アラクネよ、見ればおまえは / おまえが織った禍のもとの布ぎれの上で、/ 哀れにももう半ば蜘蛛と化していた。

   おお、レハベアムよ、おまえの姿はここでは / もう人を脅かすどころか、追手も来ない先から / 周章狼狽の体で馬車にのり逃げてゆく。

 

   堅い舗石にはアルクマイオンが母親に / 不吉な首飾りの高価な代償を / 思い知らせているさまが刻まれていた。

   また寺院の中で子供たちが / センナケリブに躍りかかり、/ そこへ死体を打棄てていったさまも刻まれていた。

   またトミリスがクロスに向かって / 「血に飢えたおまえだ、いま血で満たしてやる」/ と叫んだ時の残酷な殺戮や破壊のさまも刻まれていた。

   またホロフェルネスが殺された後 / アッシリア兵が敗走したさまも、/ 首のない遺体も刻まれていた。

   見るとトロイアが灰燼に帰し廃墟と化していた、/ おおトロイアよ、卑しく落ちぶれた / おまえの姿がそこにまざまざと刻まれていた。

(『煉獄篇』第12歌16~63、平川祐弘訳)

 

   以上が、地上と史上に存在した最も重い傲慢の罪を表す13の彫像の全体的な展示状況です。では、一つ一つ具体的に原文を解読してみましょう。まず、

 

悪魔大王(ベルゼブ=ルチフェロ=サタン)

  まず、最初の展示彫刻は、悪魔大王の地獄転落の模様を形作った彫像で、次のように描写されています。

〔原文解析〕 

(直訳)

   私は見た、道の片面に、他の(神による)創造物よりも高貴に創造された者を。その者は、天国から地獄へと電光石火のごとく落下した。

 

   「他の創造物よりも高貴に創造された者」とは、悪魔大王のことです。その悪魔大王は、『神曲』では「ベルゼブ (Belzebu)」または「ルチフェロ (Lucifero)」と呼ばれています。後者「ルチフェロ」の名前は、「明けの明星」の意味も持っていて、朝早くには輝いているが、日の出と共に消えていくことから、天国から地獄へ落ちた悪魔大王に付けられた名前であるとも言われています。また、この悪魔大王の世界的に周知されている名前は、「サタン (Satan)」です。その呼び名が使われている最も有名な作品は、イギリス詩人ミルトンによって書かれた叙事詩『失楽園』です。詳しくは、私のブログ「『失楽園』のサタン」と「『失楽園』の物語」とさらに「『神曲』地獄巡り39.天使と悪魔」の中で記述してあります。

   その『失楽園』の中のサタンは、天国の戦い(War in Heaven)において善天使ミカエルとの一騎打ちの場面で、「全能者に次ぐ腕を持つ両者 (both with next to almighty arm)第6巻316」と、その最高位天使と同列に扱われています。そしてさらに、ミルトンは、「天国の息子(天使)たちの三分の一を惑わせて至高なる方に叛かせて彼(サタン)に従わせた (Drew after him the third part of heaven’s sons / Conjured against the highest) 第2巻692~693」または「天の軍勢の三分の一が彼に従った (drew after him the third part of heaven’s host)第5巻710」と記述しています。すなわち、全天使の三分の一がサタンに付き従って神に反乱を起こしたのです。また、ダンテも『神曲』の他の箇所で悪魔大王を「美しい容姿を持っていた神の被造物」と呼んでします。(原文解析は下に添付)

   さらに、ダンテは、悪魔大王を傲慢者の筆頭にあげて、次ぎようにも描いています。

 

  すべての神の被造物の中で最も優れた者であったが、神の光を待つことなく、早々に転落した最初の傲慢者 (『天国篇』第19歌46~48、筆者による直訳)

ブレアレオス

   第2番目の彫像は、ブリアレオス(Briareos、イタリア語では「ブリアレオ、Briareo」)でした。矢で射抜かれた姿で、次のように創られていました。

 

〔原文解析〕

(直訳)

   私は見た、他の場所にブリアレオスを。彼は天の矢に射抜かれて、死ぬほどの寒さのために重々しく横たわっていた。

 

   ブリアレオスが「射抜かれている (fitto)」「天の矢 (il telo celestial)」とは、ギリシア神話的には「ゼウスの矢」ですが、ダンテにおいては「イエスの矢」を意味していることは言うまでもありません。すなわち、その巨人は、ギリシア・ローマ神話由来の神なのです。詳しくは、『地獄篇』第31歌を論述したときに解説しました。「『神曲』地獄巡り46.ギリシア神話由来の巨人の溜まり場」の中の「巨人ブリアレオス」を参照してください。

   その彫像の人物ブレアレオスは、『神曲』全篇では、地獄の第8圏谷第10濠に閉じ込められている巨人として設定されています。ただし、その第10濠が描かれている『地獄篇』第31歌には、ブリアレオスの姿それ自体は登場してはおりません。「もしできるなら、見てみたい」と述べられているだけです。原文は次のようなダンテの願望を表す表現になっています。

 

〔直訳〕

   私は彼(ウェルギリウス)にこう言いました、「もしできるなら、あの並外れた巨体のブリアレオを私の両眼に経験させたいと、私は欲しています」と。

 

神々の戦い

   第3番目に展示されていた彫像は、次のような三体のギリシア神話の神々とその戦場の様子を形作ったものでした。

〔原文解析〕

(直訳)

   私は見た、テュンブラエウスを。またパラスとマルスを私は見た。(その神たちは)まだ武装したまま、彼らの父親の周囲にまき散らされた巨人族の手足を眺めていた。

 

テュンブラエウスと呼ばれた神

   「テュンブラエウス(イタリア語: ティンブレオ)」とは、ギリシア神話の太陽神「アポロン (Apollon)」のことです。その神は多くの「呼び名」または「別名」を持っています。アポロンを強調して呼ぶ時、最も有名なものは〈輝ける者〉の意味を持つ「ポイボス (Phoibos)」を付けて「ポイボス・アポロン」と呼びます。その神は、他にも多くの異名・別名を持っていて、「パイアン (Paian)」、「ロクシアス (Loxias)」、「リュケイオス (Lykeios)」などと呼ばれることもあります。それら多くの異名の中で「テュンブラエウス」は、あまり用いられることはないので、知名度は低いようです。その異名を使っていることで有名な詩人は、ウェルギリウスと彼の信奉者スタティウスだと言えます。

   「テュンブラエウス(Thymbraeus)」とは、「テュンブラ(Thymbra)の御方」という意味でです。そして、「テュンブラ」とは、トロイア国の中の北西地域に位置していたと想像されていた町の名前で、アポロンの神殿がそこにあったことから、その神の呼び名になったと言われています。(下に添付した地図を参照)

 

   ダンテがアポロンを「テュンブラエウス」という別名で呼んでいるのは、ウェルギリウスからの影響であろうと推測されています。トロイアを逃れたアエネアスがイタリアのラティウムに新トロイアの建国をアポロンに向かって、次のように祈願しています。

 

   テュンブラエウスよ、(我らに)永続する祖国を与えたまえ。疲れ果てた我らに子孫と末長く続く都を与えたまえ。 (ウェルギリウス『アエネイス』第3巻85~86、筆者訳)

〔原文解析〕

   さらに、テュンブラエウスがアポロン神の別名であることを明らかにしている箇所があります。同じくウェルギリウスの『農耕詩』に次のような詩行があります。

 

   もし本当に、あなたが言う通り、テュンブラエウス・アポローが(私の)父親でるならば、あなたは(私を)運命によって憎まれるために生んだのか? (ウェルギリウス『農耕詩』第4巻323~324、筆者訳)

 

〔原文解析〕

 

   テッサリアの妖精キュレネとアポロンとの間に生まれた牧人アリスタイオスが、ミツバチの全滅を呪って母に訴える箇所の言葉です。その箇所では、添え名と共にアポロン神を「テュンブラエウス・アポロン」とフル・ネームで呼んでいますので、その神の別名であることが分かります。この「テュンブラエウス」という添え名は、ウェルギリウスの信奉者スタティウスも使っています。『神曲』の登場人物としてのスタティウスは、煉獄山の第五環道で貪欲の罪を浄め終えた後、第六環道からエデンの園までダンテとウェルギリウスの巡礼に同行しますので、ダンテにとっても極めて重要な詩人であったことは確かです。

   スタティウスの作品の中で後世の詩人たちに影響を与えた叙事詩は、テーバイ攻めの七人の将軍を描いた『テーバイス(Thebais)』(日本語訳は『テーバイ物語』)です。

 

〔原文解析〕

(直訳)

   テュンブラエウスよ、派遣されて訳ではなく、また嘆願された訳でもないのに、私はあなたの社を訪れます。(スタティウス『テーバイス』第1巻 643~644)

 

〔原文解析〕

(直訳)

   あなたは、テュンブラの御神として、トロイアに住んでいる。 (スタティウス『テーバイス』第1巻 699)

 

パラデとマルテ

   「パラデ(Pallade)」はアテネ(アテナとも呼ぶ)女神の呼称「パラス(Pallas)」のイタリア語化したものです。本来は、ギリシア神話の女神なので、語尾変化するときの語根は〈Pallados〉となります。その語根をそのまま単語として用いています。「マルテ(Marte)」は神自身の名前ですが、軍神「マルス(Mars)」の語尾変化した語根〈Martis〉をイタリア語化して造られた単語です。ただし、アテネ女神はギリシア神話の女神で、ローマ神話のミネルウァ(Minerva)で、一方、マルスはローマ神話の神で、ギリシア神話ではアレス(Ares)です。すなわち、ダンテは、ギリシア神話とローマ神話を混合して使っていますが、混同することはありませんでした。アテネ女神を指す時は、上述のような「パラデ」か、ローマ神話名の「ミネルウァ」を使っています。たとえば、「アテネ」という言葉は、女神の名前としては使われないで、「アテネの大公 (il duca d’Atene)地獄篇12歌17」とか、「アテネとスパルタ (Atene e Lacedemone)煉獄篇6歌139」とか、「ヒッポリトスはアテネから追い出された (si partì Ippolito d’ Atene)天国篇17歌46」というように都市名としてのみ使われています。一方、女神名に関しては、『煉獄篇』30歌68行では「ミネルウァの葉(=オリーブ)を頭に巻いた (Cerchiato dalla fronde di Minerva)」と描き、『天国篇』2歌8行では「ミネルウァが風を吹き、アポロが私を導く (Minerva spira, e conducemi Apollo)」と表記して、「ミネルウァ」という人名を使っています。すなわち、ダンテの用語法はかなり規則的であると言えます。

 

ギガントマキアそれともティタノマキア

   煉獄山の第1環道の出口付近に展示されている三番目の彫像は、神々の戦いをテーマにしたものでした。アポロン(=テュンブラエウス)とパラデ(=ミネルウァ)とマルテ(=マルス、アレス)のオリュンポス神族の三神が武装したままで(armati ancora)彼らの父(padre loro =ゼウス、ユピテル)を取り囲んで、ギガス族のバラバラ肢体を眺めている(mirar le membra di’i Giganti sparte)という構図でした。ギリシア神話の中で巨体を誇っていた一族には、ギガス族とティタン族の二種類が有名です。現代においても、前者は「巨人ジャイアンツ」の球団名などに、後者は「タイタニック号」などの豪華客船に名前を残しています。ギリシア神話的には、ギガスは天空神ウラノスが息子クロノスによって切断された生殖器の血から生まれたと言われていています。また、ティタンはウラノスと大地女神ガイアとの間に生まれた子供全員を指していますので、前出のクロノスもその一人です。ただし、ティタンたちは神族で、ギガスたちは人類でしたが、後世においては、次第に両巨人族は混同されるようになった、と言われています。

   両者とも、オリュンピア神族との間に戦争を起こし、両者とも敗北を喫しました。ギガスたちの戦いを「ギガントマキア(Gigantomachia)」と呼び、ティタンたちとの戦いを「ティタノマキア(Titanomachia)」と呼びます。しかし、同じオリュンポス神族との戦いでも敗戦の後の処遇は異なりました。神であるティタン族は冥界タルタロスに生きた状態で幽閉され、そうではないギガス民族は死に絶えました。前出の箇所に登場していたブリアレオスはティタン神族でしたので「死ぬほどの極寒 (lo mortal gelo)30」の中で刑罰は受けていましたが、生存はしていました。しかし、ギガスたちはアポロンやアテネやマルスなどのオリュンポス神族によって手足を切断されて死んでしまいました。ダンテ学者たちは、ダンテがオウィディウスの次の詩行を模倣していると指摘しています。

 

   私は以前しばしばユピテルの能力を讃えてきました(直訳:ユピテルの力はしばしば私によって以前に讃えられてきました)。ギガス神族たちのことや、プレグラ平原において勝利の雷霆がまき散らされたのを、重々しい曲調で歌ってきました。 (オウィディウス『転身物語』第10巻149~152、筆者訳)

〔原文解析〕

 

   私の個人的意見としては、この程度の類似によってダンテが模倣したと判断することには懐疑的です。「プレグラの平原 (Phlegraeis campis)」(前出の地図を参照)とは、イタリアのヴェスヴィオ火山周辺の平原のことを言います。そして、その場所はオリュンポス神族によってギガス民族が滅亡させられた最後の戦場だと、イタリアでは言われています。しかし、ギリシアでは、ギガス族が生まれたのも滅びたのもギリシアのカルキディケ半島のパレネだと言われています。さらにまた、プレグラはパレネのことであるという説まで信じられています。ダンテはどちらの神話を信じていたかは定かではありませんが、ローマ神話に従っていたと判断する方が確かかも知れません。

 

ニムロデ

   第4番目の傲慢者の彫像は、ニムロデでした。自分が造ったバベルの塔の下で、言語を乱されて困り果てているニムロデの姿が、次のように描かれています。

 

〔原文解析〕

(直訳)

   私は見た、ネムブロト(=ニムロデ)を。彼の作品(バベルの塔)のたもとで戸惑っているような様子をして、シナルの地で彼と共に傲慢になっていた者どもを眺めていた。 (『煉獄篇』第12歌34~36)

 

   日本語で「ニムロデ」と呼んでいる聖書の人物名は、『神曲』では「ネムブロト (Nembròt)」または「ネムブロット(Nembrotto)」(地獄篇31歌77)と二種類の呼び名を使っています。イタリア語の聖書では「ネムロド (Nemrod)」の単語が使われています。因みに、ギリシア語聖書『70人訳聖書 (Septuaginta)』では「ネブロード (Nebrõd)」が、ラテン語訳聖書『ウルガータ (Vulgata)』では「ネムロド (Nemrod)」が、また英語訳『欽定訳聖書』では「ニムロド (Nimrod)」が使われています。このニムロデについての詳しい事柄は、私のブログ「地獄巡り45.マレボルジェの最果ては巨人の溜まり場」「バベルの塔の建設者ニムロデ」を参照して下さい。

 

ニオベ

ニオベの子供たちを攻撃するアポロンとアルテミス

   (ジャック=ルイ・ダヴィッド:Jacques-Louis David作)

 

   第5番目の傲慢者の彫像は、ギリシア神話に登場するニオベでした。彼女が、息子と娘の遺体の中に立ち尽くしている姿が次のように描写されています。

 

〔原文解析〕

(直訳)

   おお、ニオベよ、汝が、とても悲しい眼をして、殺された七人の息子と七人の娘の間で(立っている構図で)、路上に描かれていたのを、私は見た。

 

   ニオベにまつわる神話は極めて古く、すでにホメロスの『イリアス』にも登場しています。その叙事詩の最終巻(第24巻)で、トロイア王プリアモスが息子ヘクトルの遺体を引き取りに訪れたとき、アキレウスがその老王に同情して話す場面で、次のようなニオベの悲劇が語られます。

 

   ニオベはこう言いました、(レトは)二人だけを産んだのに対して、彼女(ニオベ)は、多くの子を産んだ、と。この双児の神は二人だけであったが、すべての(ニオベの)子供たちを殺し尽くした。彼ら(12人の子供)は九日間、血糊の中で横たわっていた。そして埋葬する者は誰もいなかった。クロノスの息子(ゼウス)が、その者たちを石にした。そして、十日後に、天の神々がその子たちを埋葬した。(ホメロス『イリアス』第24巻608~612、筆者訳)

〔原文解析〕

 

   言うまでもなく、ホメロスの詩歌は西洋最古で最初の記録文書です。ということは、ホメロスのニオベはエーゲ海諸国に伝承されていた最も古い伝説ということになります。そのホメロス説によれば、ニオベの子供は男と女それぞれ六人ずつで12人ということになります。ところが、先出のダンテの記述によれば「7人と7人の子供たち (sette e sette figliuoli)」で合計14人ということになります。その子供の人数に関しては、確たる根拠は不明のようです。おそらく、ダンテはオウィディウスの説に従っていると言われています。そして、そのローマ詩人の『転身物語』は、後のヨーロッパに流布したローマ神話の規範になってきました。

   オウィディウスは、ニオベ神話を彼の神話的作品の第6巻(146~312)で、167行の長きに渡って物語っています。その概要は次のようになります。

 

   ニオベは、主神ユピテルの子タンタロスと天空を支えるアトラスの娘ディオネとの間に産まれた娘でした。後に同じくユピテルの子テバイ王アンピオンの妻になりました。ということは、ニオベにとって、ユピテルは彼女の祖父であり舅でもありました。さらに、彼女には、七人の息子と七人の娘がいることを自慢して、アポロンとディアナの二人しか子供がいないラトナ女神(ギリシアのレートー)を軽蔑していました。さらに、ラトナがユピテルとの間に身ごもった二人の子供を出産するとき、ユノの嫉妬のために世界中から追い払われたことを馬鹿にしました。その傲慢さのために、ラトナは、子供のアポロンとディアナに命じてニオベの14人の子供全員を矢で射殺しました。ニオベは、悲しみのあまり、眼も舌も口も最後に内臓までも動かなくなって石になってしまいました。 (『転身物語』第6巻146~312行の概要)

 

サウル

   第6番目の傲慢者の彫像は、旧約聖書『サムエル前書』に登場しているイスラエル最初の王サウルでした。その王の自害の様子を造形した彫像が次のように描写されています。

 

〔原文解析〕

(直訳)

   おお,サウルよ、何と汝は自分所有の剣の上で、あの時にゲルボエ山中で死んだように見えていた(=造られていた)。その山は雨も霧も(肌に)感じなかったという。

 

   上の詩に描かれている「サウル(Saul)」は、イエス・キリストの12使徒の一人であったヤコブ(別名イスラエル)の後裔でした。そのヤコブには12人の息子がいて、その末子がベニヤミン(Benjamin)で、その彼の子キシ(Kish)の息子がサウルでした。「サウルはイスラエルの王となって、周囲のもろもろの敵、すなわちモアブ、アンモンの人々、エドム、ゾバの王たちおよびペリシテびとと戦い、すべて向かう所で勝利を得た。サウルは勇ましく働き、アマレクびとを撃って、イスラエルびとを略奪者の手から救い出した。(『サムエル前書』第14章47~48)

   予言者サムエルは、その功績によって、サウルをイスラエル初代の王に任命して、主の命令を伝えました。「主は、わたしをつかわし、あなたに油をそそいで、その民イスラエルの王とされました。それゆえ、今、主の言葉を聞きなさい。万軍の主は、こう仰せられる、『わたしは、アマレクがイスラエルにした事、すなわちイスラエルがエジプトから上ってきた時、その途中で敵対したことについて彼らを罰するであろう。今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも皆、殺せ』」。(『サムエル前書』15章1~3)」

しかしサウルと彼の民は、主の「すべてを滅ぼし尽くせ」という命令に従わず、アガグをゆるし、また羊と牛の最も良いもの、肥えたものならびに小羊と、すべての良いものを残し、それらを滅ぼし尽すことを好まず、ただ値うちのない、つまらない物を滅ぼし尽しただけでした。神は、それに怒って「わたしはサウルを王としたことを悔いる。彼がそむいて、わたしに従わず、わたしの言葉を行わなかったからである (15章11)」と言いました。それが、サウルの「傲慢の罪」に当たります。

   神の恩寵がダビデに移ったので、サウルは神の加護を失ってしまいました。それでも、ペリシテ人と戦いましたが敗れてしまいました。その時の様子を『サムエル記』は次のように描いております。

 

   そこでサウルはその武器を執る者に言った、「つるぎを抜き、それをもってわたしを刺せ。さもないと、これらの無割礼の者どもがきて、わたしを刺し、わたしをなぶり殺しにするであろう」。しかしその武器を執る者は、ひじょうに恐れて、それに応じなかったので、サウルは、つるぎを執って、その上に伏した。(『サムエル前書』第31章4)

 

   ダンテは、以上のようなサウルの自害の様子を「自分所有の剣の上で、ギルボア山中で死んだ (in su la propria spade・・・morto in Gelboè)」と表現しています。

 

 

アラクネ

   第7番目の傲慢者の彫像は、アテネ(=ミネルウァ)女神に織物で挑戦して、蜘蛛に転身させられたアラクネでした。

 

『蜘蛛に転身したアラクネ』ギュスターヴ・ドレ作

 

〔原文解析〕

(直訳)

   おお、狂女アラーニェ(アラクネ)よ、まさしく私は、すでに半ば蜘蛛になっている汝を見た。汝に害をなすように造られた(=織られた)ぼろぼろの布の上で蜘蛛になっていた。

 

   アラクネ(イタリア語読み「アラーニェ」)は、もともとはギリシア神話由来の織物の名手でした。アラクネ伝説は、先出のニオベ神話と同様に、オウィディウスの『転身物語』によって有名になりました。その作品の第6巻の冒頭(1~145)に収録されていて、その概要は次の通りです。

 

   アラクネは、機織りの名人でした。しかし、父親のイドモンはリュディアのコロポンの染色の達人ではありましたが人間でしたので、身分も素性もそれほど高くはありませんでした。たしかに、アラクネの織った織物も織るときの仕草も優雅でしたので、妖精たちも見とれるほどでした。アラクネの見事な技は、パラス(=アテネ=ミネルウァ)女神から教えを受けて習得したのだと、皆から称えられました。しかし、アラクネはパラスの教え子と呼ばれることが不満で、女神に技くらべを挑みました。パラス女神は、それをたしなめようとしましたが、アラクネは聞き入れませんでしたので、二人は織物競争をすることになりました。パラスは、オリュンポスの神々の栄光を織りましたが、アラクネは神々の醜聞をテーマに織りました。アラクネの作品には一点の非の打ちどころもなかったのですが、神々の不埒な行いを描いたことに怒って、パラスはその織物をずたずたに切り裂いてしましました。アラクネは、その侮辱に耐えかねて、綱を巻いて首を吊って自害をはかろうとしました。それを見つけたパラスは、アラクネに同情して命だけは助けようとしました。そして、綱を弛めて、常に綱の上で生活する蜘蛛に転身させました。 (オウィディウス 『転身物語』第6巻1~145の要約)

 

   因みに、『地獄篇』第17歌に登場した怪獣ゲリュオンの胴体の派手な模様を「アラクネの織物(tele per Aragne)18行目」に喩えています。

 

レハベアム

   第8番目の傲慢者の彫像は、ダビデ王の子レハベアムでした。

 

〔原文解析〕

(直訳)

   おお、ロボアム(=レハベアム)よ、もはやここでは、汝の彫像は威嚇しているようには見えず、誰も他の者が追いかけていないのに、馬車は恐怖に満ちた汝の像を運んでいる。

 

   レハベアム(イタリア名「ロボアム」)は、『列王紀上』の第12章の登場人物で、父親ソロモンの後を継いで第4第イスラエル王になりました。ソロモンの統治を嫌ってエジプトに逃れていたヤラベアムとイスラエルの会衆は皆レハベアムの所に戻って来て、新王に嘆願して言いました。「あなたの父上ソロモンはわれわれの「くびき(束縛:義務)」を重くされましたが、今父上のきびしい使役と、父上がわれわれに負わせられた重いくびきとを軽くしてください。そうすればわれわれはあなたに仕えます(12章4)」。その申し入れに対して、レハベアムは「三日過ぎてから、もう一度来い」と答えました。

   前王ソロモンの時から仕えていた老人の家臣に意見を求めると、「もし、あなたが、きょう、この民のしもべとなって彼らに仕え、彼らに答えるとき、ねんごろに語られるならば、彼らは永久にあなたのしもべとなるでしょう」と言って、嘆願を聞き入れるように進言しました。

一方、幼い頃から一緒に育った若い側近に意見を求めたところ、その者たちは、「わたしの小指は父の腰よりも太い。父はあなたがたに重いくびきを負わせたが、わたしはさらに、あなたがたのくびきを重くしよう。父はむちであなたがたを懲らしたが、わたしはさそりをもってあなたがたを懲らそう」と答えなさいと進言しました。

レハベアムは、若い側近の意見を採り入れて、彼らの進言通りに、ヤラベアムとイスラエルの会衆に返事をしました。すると、彼らはレハベアムに離反して王の元を去ってしまった。ところが、レハベアム王は税を取り立てるために徴募の監督としてアドラムをつかわしたが、イスラエルが皆、彼を石で撃ち殺したので、レハベアム王は急いで車に乗り、エルサレムへ逃げて帰りました。