『失楽園』のサタン | この世は舞台、人生は登場

この世は舞台、人生は登場

ブログの説明を入力します。

叙事詩という文学形式

 

   西洋文学の歴史の中で現存する最も古い作品は、ホメロスの『イリアス』(または『オデュッセイア』)です。そして、その叙事詩は、トロイア戦争の模様を総数15,685行で物語られています。同じく物語を物語るという文学様式である「小説」との違いは、叙事詩が全行に渡って「韻文」によって書かれるという点です。そして、散文で書かれる小説よりも、創作する詩人の側も読者の側も高度な能力を要求されます。そしてさらに、叙事詩は、同じ韻文で書かれる抒情詩よりも膨大な詩行になり、内容も豊富になるので、読者にとっては高い読解能力が必要になります。むしろ、正確に作品を解読することは不可能です。たとえば、象を見たこのない人に目隠しをしてその動物を触らせたとき、鼻を触った人は「良く曲がる長い筒状のモノ」と答え、胴体を触った人は「壁のように平らで大きなモノ」と答え、足を触った人は「太い木の幹のようなモノ」と答え、尻尾を触った人は「細長い紐のようなモノ」と答えることでしょう。それと同じことが叙事詩を読む人にも起こります。とくに『失楽園』は難解な作品で、そこに登場するサタンは複雑な役割を演じています。あるミルトン学者は「サタンは神に操られた道化」だと解釈し、またある学者は「人間に破滅をもたらす悪魔」に過ぎないと主張し、さらに別の者は「神の恩寵を疑った小心者」であると結論づけています。そして、それは先ほどの「象の喩え話」のように、どの解釈も矛盾なく成立しますが、どの解釈もその実体の一部分を言い当てているに過ぎません。しかし、長い鼻を触った人は、他の動物たちと比べて「象」だけが持つ特徴を言い当てていることになります。『失楽園』の中で最も多くの、そして最も重要な役割を演じているのはサタンです。そのサタン像の「象の鼻」を解明してみましょう。

 

サタンの基本的な姿

「三つの顔を持つルチフェロ」の作品に三大罪人を加筆したもの(フェラーラの細密画、ヴァティカン図書館所蔵)

 

   サタン(Satan、英語では「セイタン」と発音する)といえば、悪魔・悪霊たちの頂点に君臨する大魔王のことです。キリスト教世界では、悪の権化として最も恐れられている対象です。ダンテは『神曲』の『地獄篇』の中で想像を絶する恐怖の存在として描いています。そのイタリアの詩人は、サタンとは呼ばないで「ルチフェロ (Lucifero)」または「ベルゼブ (Belzebù)」と呼んでいます。巡礼者となったダンテは、地獄の最深部に辿りついた時、そこに鎮座する大魔王と初めて対面しましたが、その時の恐怖を次のように描いています。

 

  その時、私がどれほど身も凍り付き声も嗄れたか、読者よ、もう訊かないでくれ。私は、いつも話そうとはするが、言い表せないのだ。私は死んでも生きてもいなかった。もし諸君に理解する力があるのなら、自分で考えてくれ、生きても死んでもいない私が、どのような状態であったかを。(『地獄篇』第34歌22~27、筆者訳)

 

  さらに続けて、大魔王の容姿に関しては次のように描写しています。

 

   苦しみを与える王国の帝王は、胸の半分だけ氷の中から外へ出していた。巨人といえども、彼の腕と比べれば比べられないほど小さくて、むしろ私の方が巨人の大きさ近いくらいだ。そのような大きさの部分にその全身体が、どれほどの大きさであるか判断せよ。彼の今の醜さの度合いだけ昔は美しかったならば、そして創造主に眉をつり上げた(=反逆した)のなら、すべての悲しみは、まったく彼から生じているにちがいない。(『地獄篇』第34歌28~36、筆者訳)

 

   『神曲』の中で描かれている大魔王は、「恐怖の権化」以外の何ものでもありません。ダンテが創造した広大な地獄界を統治する「地獄の帝王(Rex Inferni)」として現世の三人の最極悪人ユダとブルトゥスとカシウスを罰していますが、その帝王自身も神に叛いた罪人としてその場所に閉じ込められています。それゆえに、ダンテの大魔王は、その場を出て活動することはできません。しかし、ミルトンが描く『失楽園』の大魔王サタンは、その作品の登場人物の中で、最も活動的で、最も登場頻度が高い重要な役柄を担っています。その原因は、彼の『失楽園』が古代ギリシア・ローマの古典叙事詩の伝統の中で創作されたからです。確かに、『失楽園』の主題は作品の序歌(第1巻1~26)の部分で示されていて、禁断の果実(the fruit of that forbidden tree)を食べた人間の最初の不従順(man’s first disobedience)によってエデンを失い(loss of Eden)、この世に死と悲しみをもたらした(brought death into the world, and all our woe)が、一人の偉大な人が我々を贖う(one greater man restore us)という宗教色の強いものです。しかし、その宗教的主題は、ホメロスやウェルギリウスの英雄叙事詩のものよりも英雄的であると、次のように詠っています。

 

   実に悲痛な課題だ! だが、これは、逃げる敵を三度もトロイア城壁の周りを駈けめぐって追いかけた凄まじいアキレウスの憤怒よりも、婚約を履行しなかったラヴィニアに対するトゥルヌスの瞋恚(シンイ=怒り)よりも、また、かのギリシア人オデュッセウスとキュテレイアの子アエネアスをそれぞれ長い間苦しめたネプトゥヌスとユノの瞋恚よりも、劣るどころかむしろ遥かに英雄的な主題といわなければならない。(『失楽園』第9巻13~19、平井正穗訳)

 

   凄まじいアキレウスの憤怒 (the wrath of stern Achilles)を描いた『イリアス』、トゥルヌスの怒り (rage of Turnus)とキュテレイアの息子 (Cytherea’s son=ウェヌスの息子アエネアス)を苦しめたネプトゥヌスとユノの怒り (Neptun’s ire or Juno’s)を描いた『アエネイス』、そしてオデュセウス(原詩では‘the Greek’のみ)に対する同じ神の怒りを描いた『オデュッセイア』よりも、『失楽園』の主題を、「劣るどころかむしろ遥かに英雄的な主題 (not less but more heroic)」であると、ミルトンは言っているのです。以上のことを簡潔に言い換えれば、三大古典叙事詩であるホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』およびウェルギリウスの『アエネイス』で描かれた物語よりも『失楽園』で描くことのほうが英雄的であると、ミルトンは主張しているのです。当然、この主張をミルトンの本心であると解釈することはできません。ミルトンは、彼の『失楽園』の物語をギリシア・ローマの叙事詩よりも「英雄的 (heroic)」に書き上げることは不可能であることを充分に承知していました。ミルトンが彼の叙事詩を「劣るどころかむしろ遥かに英雄的」と呼んだのは、反語的表現だと解釈すべきでしょう。ミルトンは、中世時代やルネサンス時代のいかなる叙事詩よりも古代ギリシア・ローマの古典叙事詩形式に則って『失楽園』を創作しています。そして、その叙事詩の中で描かれているサタンは、他のいかなる登場人物よりもギリシア・ローマ古典叙事詩の中の英雄たちと酷似しています。むしろ、『失楽園』に登場する唯一の古典的な英雄、すなわちホメロス・ウェルギリウスに登場するような英雄である、と言っても過言ではありません。

 

古代ギリシアの英雄サタン

 

「苦悩するサタン」グスターヴ・ドレ作

 

   前述した西洋の三大古典叙事詩の特徴を簡潔に言えば、ホメロスの『イリアス』は戦記物語で、『オデュッセイア』は冒険物語です。そしてウェルギリウスの『アエネイス』は、ホメロスの両作品を混合して前半部が冒険譚で後半部が武勇譚になっています。そしてミルトンは、ホメロスからウェルギリウスへ継承されてきた叙事詩の伝統を受け継ぐ第三番目の叙事詩人であるという自覚のもとに『失楽園』を創作しました。

   ホメロスに固有の特徴であったので、その影響を受けた古典叙事詩人が遵守した創作理念は、客観的な視点で事物を描くという姿勢です。もう少し具体的に言えば、敵と味方、主役と敵役、そして同国人と異国人を対等に扱い、そして客観的視点から敵味方区別なく平等に描き出す姿勢です。その姿勢は、ホメロスの影響を受けていない詩人が書いた叙事詩には見ることができません。その影響を受けていない(非古典的)叙事詩の中で最も優れた作品は、11世紀末に古代フランス語で書かれた『ローランの歌 (La Chanson de Roland)』です。

 

 1200年頃のイベリア半島のイスラム国。1400年頃にはグラナダを除いてキリスト教国になっていた。(ウィキペディアの画像に筆者が加筆したもの)

 

       イスラム国のイベリア半島への侵略と、それに対抗したキリスト教国の国土回復戦争(レコンキスタ)が、700年初頭から始まって1492年のグラナダ制圧まで続きました。その長きに渡った戦争の中で、『ローランの歌』に描かれた戦いは、778年に起こった「ロンスヴォーの戦い (Bataille de Roncevaux)」です。そして、そのフランス叙事詩では、シャルルマーニュ(Charlemagne:後に初代神聖ローマ皇帝カール(Karl)大帝)の甥でもあり勇将であったローランの武勇と壮絶な最期の模様が描かれています。しかしその作者は、ローランやオリヴィエなどのフランス兵の武勇には惜しみなく称賛を与え、また彼らの死には共感を持って嘆くことはしていますが、敵方に対しては同情のかけらさえ示そうとしてはいないのです。すなわち、キリスト教軍は物語の主役であるので、当然善人であり正義の軍勢として描かれますが、イスラム軍は脇役であり敵であるので悪人として描写されているのです。しかし一方、古典叙事詩においては、主役も脇役も、味方も敵も、平等に善の要素と悪の要素を共に持っています。ホメロス学者スコット (J.A. Scott)の言葉を借りれば、「同国人の栄光と同じに敵たちの栄光も保とうとする熱意 (the eagerness to preserve the glory of his enemies as well as that of his own countrymen) The Unity of Homer, p.205」が、ホメロスには備わっていました。そしてさらに、スコットはその熱意を 「敵に人間性を与える能力 (ability of humanize the foe)」と述べています。そのような古典叙事詩と『ローランの歌』のような非古典的叙事詩との間に違いを生み出した要因を、古典学者バウラは、次のように指摘しています。

 

   ホメロスの聴衆は、戦闘をただ事細かに描くだけでは興味を失ってしまい、息抜きを必要とし始めたにちがいない。その点において、彼ら(ギリシア人)は、『ローランの歌』を聴き、途切れのない戦闘話に興味を示したノルマン人たちとは異なっていた。

  〔原文〕 Homer’s audience must have begun to lose interest in the mere detail of fighting and to have demanded relaxation.  In this they differed from the Normans who listened to the Song of Roland and could find interest in its uninterrupted accounts of battle.  (C.M. Bowra, Tradition and Design in the "Iliad”, Oxford, p.123)

 

ミルトンとホメロスの脇役の描写

 

   では、ここで、具体的な描写を見てみましょう。

   『イリアス』の主役がアキレウスであり、脇役がヘクトルであることを否定することはできません。しかし、その叙事詩の中では、アキレスが絶対的善人でヘクトルが絶対的悪人として描かれてはいません。詩人は、アキレウスに対してもヘクトルに対しても、平等の共感を示して描いているのです。むしろ物語全体に占める重要性は脇役のヘクトルの方が主役アキレウスよりも高いかも知れません。『イリアス』は全24巻から成っていますが、アキレウスは、第1巻でギリシア軍の総大将アガメムノンと反目して自分の船の中に閉じ籠もってしまい、物語の表面には登場しません。第9巻で出陣を請う使節と面会しますが、それを拒否して作品の表舞台からまた姿を消します。全面的に再登場するのは、やっと第18巻からなのです。アキレウスが物語から姿を消している間は、他の英雄たちが、主役さながらに活躍しています。意外にも、全24巻すべてに登場している唯一の人物は、脇役であり敵役でもあるヘクトルなのです。

   ミルトンの『失楽園』においても、脇役であり悪役であるサタンが最も生き生きと描かれています。しかし、その叙事詩はキリスト教文学なので、さすがにどの批評家もサタンを主役だと言い切ることには抵抗を感じているようです。英国の詩人ブレイク(William Blake,1757~1827)は、彼の『天国と地獄の結婚 (The Marriage of Heaven and Hell )』の中で次のように述べています。

 

   ミルトンが天使たちと神を描写するときは束縛されたように(不活発に)描き、一方悪魔たちと地獄を描写するときは解放されたように(生き生きとして)描いた理由は、彼が真の詩人であり、彼は自覚していないが悪魔の味方であったからであった。

  〔原文〕 The reason Milton wrote in fetters when he wrote of Angels and God, and at liberty when of Devils and Hell, is because he was a true Poet and of the Devil’s party without knowing it.

 

地球へ向かう途中に地獄門でサタンが罪(サタンの娘)と死(息子)に遭遇した様子(ブレイクの作)

 

   ミルトン研究の分野においては、ブレイクのように『失楽園』のサタンを好意的にとらえる文学者を「サタニスト(Satanist)」と呼びます。その主義を取っている者は、英国ロマン主義の時代の詩人には多くいました。その代表者は詩人シェリー (Percy Bysshe Shelley、1792~1822)でした。彼は、『詩の弁護 (A Defence of Poetry)』の中でミルトンの描くサタンに感銘を受けて、次のように述べています。

 

  ミルトンの悪魔は、道徳的存在として彼の神よりも優っている。悪魔は、苦労と苦痛を物ともせず、優っていると考えた目的に向かって辛抱強くやり抜く者(サタン)は、確かな勝利を保証された状態でこの上ない恐ろしい報復を彼の敵に加える者(神)よりも優っているということだ。

  〔原文〕 Milton’s Devil as a moral being is as far superior to his God, as one who perseveres in some purpose which he has conceived to be excellent in spite of adversity and torture, is to one who in the cold security of undoubted triumph inflicts the most horrible revenge upon his enemy

 

   ホメロスの『イリアス』には、多くの有名な英雄たちの一騎打ちの場面があります。まず皮切りに、パリスとメネラオスのヘレナを巡る因縁の決闘(3巻)から始まり、アエネアスとディオメデスの決闘(5巻)、ヘクトルと大アイアスの決闘(7巻)、パトロクロスとヘクトルの決闘など名勝負が続き、最後にクライマックスのアキレウスとヘクトルの大勝負が行われました。また、ウェルギリウスもホメロスの影響を受けて、『アエネイス』の中で数々の戦闘場面を描いています。その叙事詩の戦争は、ラティウスに辿りついて新しい都を建造しようとするトロイア人のアエネアスと、それを阻止しようとするイタリアの原住民族ルトゥリ人の王トゥルヌスとの間で戦われました。そして、前述したように、その叙事詩では、前半の第1巻から第6巻までが「冒険譚」で、後部の第7巻から最終12巻までが「武勇譚」です。そして、トゥルヌスとの一騎打ちの末、アエネアスが勝利を治めたところでその叙事詩は終わっています。

   さて、ミルトンの『失楽園』の武勇譚は、第6巻で語られています。それは、御子キリストの誕生を快く思わないサタンが、彼に同調する反逆天使たちを引き連れて、ミカエルを総大将とする神軍に戦いを挑んだ三日間の戦争です。そして、その戦争は、戦場が天国なので戦い方には工夫されていますが、原則的にはホメロスやウェルギリウスの古典叙事詩の伝統に従って展開されています。天国の戦争のクライマックスが、三日目に御子キリストが登場して、圧倒的な武力によって反逆天使たちを一撃でなぎ倒し、一網打尽にして地獄へ落とす場面であることは言うまでもありません。しかし、天使同士の戦いにおいては、サタンとミカエルの一騎打ちの場面がハイライトシーンになります。その二人による一騎打ちは、まず言葉による応酬 (parle)から始まり(262~295)、武器による決闘が行われました(296~353)。その全58行にわたる一騎打ちの場面の中で実際の戦闘場面は次のように描写されています。

 

   全能者の腕には敵わないまでもそれに次ぐ強力なその腕を両者は高く揚げ、今にもふりおろさんばかりの態勢を持しつつ、虎視眈々、相手を狙った。ただの一撃で一挙にことを決し(勿論その余力もなかったであろうが)、二度と繰り返すつもりは毛頭ない様子であった。その攻勢力においても、瞬時に相手の攻撃を避ける早業においても、どちらにも遜色はなかった。ただ、ミカエルの剣は神の武器庫から賜ったものだけに、さすがに鍛えぬかれており、その刃にはどんなに鋭い剣も硬い剣も刃向かうことはできなかった。一挙に屠り去ろうと真向から激しい勢いふりおろされたその剣を、サタンの剣がはっしと受け止めたが、その次の瞬間、真っ二つに切断されてしまった。それどころか、ミカエルは目にもとまらぬ速さで己の剣を後方に弧を描いてふりかぶり、再びサタン目がけてふりおろすと、今度は彼の右の脇腹を深く抉った。この時サタンは初めて苦痛を知り、身を捩って転々ところげ廻った。それほど深くこの鋭い剣が身体に食い込み、無残な傷口を大きくあけたからだ。だが、まだ彼の肉体は天使としての霊質を失っていなかった。あいていた傷口はまもなく塞がった。しかし、もし天使が血を流すとすれば、かくもあろうかと思われるような、聖なる、血に似た体液がその深傷から噴き出し、それまで絢爛と輝いていた鎧を染めた。(『失楽園』第6巻315~334:原詩は316~334、平井正穗訳)

 

ミカエルとの一騎打ちに敗れたサタン(グスターヴ・ドレ作)

 

   サタンは、天使の階級の最上位にいるミカエルと対等に戦う能力を持っていました。すなわち、両者とも「全能者に次ぐ腕前 (next to almighty arm)」を持っていて、「攻撃力においても素早い防御力においても優劣の差はなかった (nor odds appeared in might or swift prevention)」と書かれています。ただ違いといえば、ミカエルだけが、「神の武器庫 (the armoury of God)」から授かった神剣で戦うことができたということだけです。そして、その差によってサタンは敗北を喫したに過ぎないのです。

 

   『失楽園』のサタンは、私たちが一般に悪魔と呼ぶような姿ではありません。その叙事詩に登場する人物の中で、「憤怒」、「歓喜」、「感動」、「悲嘆」、「疑惑」、「恐怖」などの人間の持つ感情を、最も強くさらけ出しているのはサタンです。そのことは、『失楽園』の中でも最も重要な部分の一つである第4巻のサタン独白の場面からでも明白になります。サタンは、初めて目にするエデンの園の美しさに感動して、神に反逆した自分自身を責め苛んで、次のように独白しています。 

 

   やがて傲慢とさらに悪しき野望にかられて、天の無敵の王と天上において戦いを交え、敗れ、地獄に堕ちたことを思い出す。ああ、それにしてもなぜあのようなことを?神はあのような返報をわたしから受ける理由はなかった。わたしをあれほど輝ける者として造り、恩恵を施しこそすれ、いささかも咎めることをされなかった。求められた奉仕にしろ辛くはなかった。神に讃美を捧げることは、辛いどころか全く易々たる恩返しであり、感謝を捧げることも全く当然なことであった!しかるに、神のすべての善がわたしには悪となり、悪意のみを生ぜしめた。 (『失楽園』第4歌41~50、原詩では40~49、平井正穗訳)

 

   上に引用したサタンの言葉は決して悪人のものではありません。サタンは、自分が「傲慢さ (pride)」と「悪しき野望 (worse Ambition)」のために反逆してしまったことを知っていて、素直に悔いているのです。そして、神が無敵 (matchless)であり、自分に恵みを施してくれたことも、サタンは知っていました。そしてさらに、彼は神に仕えることが困難なことではないことも知っていました。その彼の態度は、まさに自分自身の悪行を悔いている善人のものだと言えます。そして、サタンは救いを求めて「悔い改めの余地はないのか? 赦しの余地は? (is there no place / Left for repentance, none for pardon left?)79~80」と問いかけ、さらに、彼の立たされている困難な立場を次のように告白しています。

 

   ああ、ことここに到った以上、屈すべきであろうか。悔い改めの余地はないのか? 赦しの余地は? そうだ、屈服する以外にはその余地はないのだ。だが、この屈服という言葉を口にすることを、軽蔑の念が、奈落にいる天使たちから受ける恥辱の恐れが、わたしに禁じている。全能の神を屈服させるのだと大言して、彼らをいろんな約束、いろんな放語、で誘惑こそすれ、自分が屈服するなどとは絶対に口外しなかったわたしだ。ああ、なんということだ! あのような空々しい大言壮語のために、わたしがどれほど懊悩しているか、心中どんな責苦に苛まれ呻いているか、彼らは知ってはいない。王冠を戴き王笏を手にして地獄の高い王座についているわたしを彼らが崇めている時でも、わたしはさらに深い奈落へと堕ちつづけているのだ。いかにも群を抜いてはいる、だが悲惨さにおいてそうであるにすぎない。野心が味おう喜びとはこのようなものなのだ! (『失楽園』第4巻79~92、平井正穗訳)

 

   すなわち、サタンは、神に降伏したいと願っていて、本心から神に反逆する気持ちを持っていないのです。しかし、彼は「私は全能の神を屈服させることができる (I could subdue the omnipotent)85~86」と部下たちに豪語した手前、今さら後には引けないのです。

 

サタンの原形

 

   以上述べてきたようなサタンの独白の中で表現された彼の心の鮮明な動きは、『失楽園』に登場する他のいかなる人物の言葉の中にも見いだすことはできません。しかしながら、それでもサタンは、物語の筋書きとしては脇役であり、また悪人ではないが悪役ということに設定されています。それは、前述したごとく、ミルトンが古典叙事詩の伝統の中で『失楽園』を創造した結果なのです。すなわち、「同国人の栄光と同じに敵たちの栄光も保とうとする熱意」とか、「敵に人間性を与える能力」という西洋古典叙事詩人たちに特有の資質を、ミルトンも備えていたと言うことができるのです。では、『失楽園』のセイタンの原形を、ミルトンが影響を受けたホメロスとウェルギリウスの作品から探してみましょう。

   まず、ホメロスの『イリアス』を見てみましょう。その叙事詩では、主役がアキレウスで、敵役がヘクトルであることは誰も異議をとなえないでしょう。しかし、先述したように、ヘクトルは全24巻の全てに登場する唯一の英雄ですが、最後にアキレウスによって撃ち取られてしまいます。その最期の場面でヘクトルは、サタンと同じように、次のような長い独白をしています。

 

   ああ、情けなや、もし私が城門と城壁の内側へ逃げ込めば、プリュダマスは私を咎めることだろう。神にも等しいアキレウスが起き上がった(参戦した)時の忌まわしい夜の間に、トロイア軍を都へ導いて行けと、彼は私に命じたが、しかし私は従わなかった。本当にそうしておけば、より有利であっただろうに。 (『イリアス』第22巻99~103、筆者訳)

 

   ヘクトルは、総大将として城外に出て先陣を切ってギリシアの名だたる武将たちと戦い、パトロクロスも討ち取りました。しかし、アキレウスの出陣によってトロイアが劣勢に立たされた時、親友で智将のプリュダマス(Poulydamas、普通は「ポリュダマス:Polydamas」)が城内に一時退却するよう忠告しましたが、ヘクトルは城外に留まりました。そのために、彼はアキレウスと果たし合いをする羽目になってしまいました。そのヘクトルが彼自身の作戦の失敗を悔いている姿は、サタンが罪を認めて悔いているのと同じ効果を持っています。さらに続けて、ヘクトルは彼の置かれている急場を次のように独白しています。

 

   しかし今、私の無謀さによって部隊を破滅させたからには、トロイアの男たちや長い裾の女たちに恥ずかしく思う。いつか私よりも役立たずな誰かが、言いやしないだろうか。いや言うだろう「ヘクトルは、自分の力を過信して、部隊を破滅させた」と。その時、私には、もっと増しなことになっていよう、一騎打ちでアキレウスを倒して帰るか、それとも国を守って華々しく死ぬかした方が。 『イリアス』第22巻104~110、筆者訳)

 

   『失楽園』のサタンが、本心から神に戦いを挑むことを望んでいるのではなく、彼の部下たちの手前、そうせざるを得ない立場にあるように、ヘクトルも本気でアキレウスと戦う気持ちはなく、トロイアの者たちの手前、後には引けない立場にあるのです。ここでもサタンとヘクトルの類似性が見受けられます。すなわち、サタンが「下界の天使たちの中で恥を掻くことを恐れる (dread of shame among the Spirits beneath)IV,82~83」ために行動に出たように、ヘクトルもまた、「トロイアの男たちや長い裾の女たちに恥ずかしく思う」のを避けるために決闘という行動に出ようとしているのです。

 

    ヘクトルは、脇役にもかからず、『イリアス』の登場人物の中で最も勇敢で、最も節度がある品格をもった武将でした。しかし、彼は、独白の最後をつぎのような弱音をはいて終えています。

 

   そして一方、もし私が浮彫のある楯を下に置き、丈夫な鎧を脱ぎ、そして槍を城壁にもたせ掛けて、高貴なアキレウスのもとに独りきりで出向いて会見したらどうなるだろうか。ヘレネを財宝を付けて返し、そしてアレクサンドロス(=パリス)が中の空ろな船に乗せてトロイアへ持ち帰ってきた金品をすべて返す、と誓約するならばどうなるだろうか。ヘレネは戦争の原因になったのだから、アトレウスの息子たち(=アガメムノンとメネラオス)に連れ帰るように引き渡そうか。そしてまた、アカイア(ギリシア)人たちには、この都が隠し蓄えてきた物を別々にして分配すると確約するならば、どうなるだろうか。 (『イリアス』第22巻111~118、筆者訳)

 

   上記のヘクトルの独白からは英雄の姿を連想することができません。それは、先に見たサタンの独白から高慢な悪魔の姿が連想できないのと同じです。それはまさしく、英雄ヘクトルと魔王サタンが人間として心の内より発した叫びであると考えられます。脇役であるにもかかわらず、読者がその二人の登場人物に共感するのは、彼らが私たち人間の弱さを持っているからかも知れません。

 

『アエネイス』の脇役トゥルヌス

 

   同じ西洋古典叙事詩に登場する「脇役」という範疇で考えた時、ウェルギリウスが描いたトゥルヌスとい英雄は、ホメロスのヘクトルとの類似性が強調されています。しかし、その類似点は、「侵略者に対する防御者」としての物語上の役割が同じであるという要素が大きいようです。しかし、トゥルヌスとヘクトルとの類似性は、サタンとの類似ほど大きなものではありません。なぜならば、トゥルヌスは、ヘクトルとサタンほど戦うことに迷いがないからです。確かにトゥルヌスもアエネアスによって倒されなければならない運命にあることを悟っています。そして彼の妹ユートゥルナに次のように告げています。

 

   今はすでに、妹よ、運命は勝利をおさめている。引き留めるのはやめてくれ。神と冷淡な運命が呼んでいる所へ私たちは行こうではないか。アエネアスと決戦することが決定さえている。いかに苛烈なものであろうとも、死をかけて受け入れることが決定されている。血を分けた妹、これ以上は、見苦しい私を見ることはなかろう。この戦いの狂乱に際して我を忘れて暴れまくることができるように、私は願っている。 (『アエネイス』第12巻676~680、筆者訳)

 

   ウェルギリウスもホメロスの影響を受けて創作しているので、敵方の戦いにも共感を示し、また敵役のトゥルヌスの戦死にも哀感を込めて描いています。しかし、ホメロスと異なる点は、ウェルギリウスには登場人物の心の内までは描写することはなかったようです。戦うことに迷うヘクトルとは違って、トゥルヌスは戦うことに迷いはなく、潔く戦い、そして潔く死んで行く武将の姿をしていました。彼は、ヘクトルのように弱音を吐くことはなかったようです。おそらくその違いは、ホメロスがギリシア人であったのに対して、ウェルギリウスはラテン精神の持ち主であったことによるのかも知れません。

 

サタンの原型はヘクトル

 

      以上のように考察してみると、ミルトンのサタンは、ホメロスのヘクトルに近い人物像に描かれているということが分かります。ミルトンを「無意識のうちに悪魔の味方」であったと論じたブレイクは、ミルトンが意識的に古典叙事詩の伝統継承者であろうとしたことに気付く必要がありました。なぜならば、ミルトンが「悪魔の味方」であるかのように見えるのは、彼が古典叙事詩人の一人として「敵に人間性を与える能力」を備えていたので、神の栄光と同じように敵であるサタンの栄光も描こうとする創作姿勢を取っていたからに他なりません。さらに言い換えれば、ミルトンが「悪魔の味方」であるかのように見えるのは、客観的な目を通してあらゆる事物を描くという古典叙事詩人、とくにホメロスの詩作法に従ったための必然的な結果にすぎないのです。それゆえに、『失楽園』のサタンは、敵役ではあるが悪人ではない、むしろ優れた英雄の姿をしているのです。たしかに、ミルトンは、神の敵対者であること、蛇に乗り移って人間を誘惑したこと、天国にいたときは高位の天使であったことなどの表面的素材は聖書から採ってはいます。しかし、サタンを叙事詩の登場人物として描くときは、ギリシア・ローマの古典文学の手法に従ったのです。その結果として、『失楽園』のサタンは、西洋古典叙事詩に登場するような英雄の姿に描き出されたのです。とくに『イリアス』のヘクトルがサタンの原型であったといっても過言ではないかもしれません。