『神曲』煉獄登山20.傲慢を戒める彫像(後編) | この世は舞台、人生は登場

この世は舞台、人生は登場

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アルクマイオン

   第9番目の傲慢者の彫像は、父親に命じられてアルクマエオンが実母を殺す姿でした。

 

〔原文解析〕

(直訳)

   その堅固な舗道は展示していた。アルクマエオン(イタリア語では「アルメオン」)が彼の母に向かって、どの様に不吉な装飾品を高価な物のように見えさせたかを。

 

   アルクマエオン(Alcmaeon)の父親は、テーバイ攻めの七将のひとりアムピアラウス(Amphiaraus)でした。まず、テーバイ攻撃の経緯と結果を見ておきましょう。

   テーバイ王オイディプスが、イオカステを実母と知らずに夫婦となり、それに気付いたので、自らの手で両眼を潰して盲目となり、アンティゴネとイスメネの二人の娘に手を引かれ、テーバイを出て行きました。この話はソポクレスの代表作『オイディプス王』で語られています。「テーバイを包囲した七人の将軍」の話は、オイディプス追放の話に続く出来事です。

  オイディプス王がテーバイを追放された後、二人の息子ポリュネイケスとエテオクレスは、王位を一年ずつ交代で就くことを約束しました。しかし、エテオクレスが王位に就いたとき、ポリュネイケスに譲ることはしないで、彼を国外に追放しました。追放されたポリュネイケスはアルゴスに逃れ、その国の王アドラストスの娘アルゲイアを娶って王の婿になりました。そして、アドラス王は婿ポリュネイケスにテーバイを奪回させようとして、七人の勇将による遠征軍を結成しました。その七人の武将の名前には諸説ありますが、一般的には、アルゴスからはその国の王で遠征の総帥アドラストス、同じく将軍アムピアラオスとカパネウスとヒッポメドンの四名に加えて、事件の当事者ポリュネイケスとテーバイ王に不信をもつチューデウスと、アドラストス王の要請で参加したパルテノパイオスだと言われています。

   アムピアラオスは優れた予言者でしたので、テーバイ攻めは失敗に終わり、アドラストス以外はすべて戦死すると予知していました。それゆえに、遠征に参加することを拒否して、身を隠しました。しかし、彼の妻エリピューレ(アドラストス王の妹)は、ハルモニアの首輪(ヘパイストスによって造られ、アプロディテとアレスの娘ハルモニアとテーバイの建設者カドモスとの結婚の時に贈られた首輪)を、ポリュネイケスから賄賂として贈られて、夫の隠れ場所を教えてしまいました(または、説得しました)。

アムピアラオスは妻の裏切りを許すことができず、遠征に発つ前に、エリピューレを殺害するように息子のアルクマエオンに命じておきました。その父の言いつけ通りに、アルクマエオンは母でもあるエリピューレを殺害しました。

煉獄の第1環道では「傲慢の罪」の典型を例示しているはずです。しかし、この「アルクマエオンの母殺し」のどの行為が「傲慢」を象徴するとダンテは考えているのか、疑問が残ります。

   このアルクマエオンの母殺しに関しては、『天国篇』でも次のように描かれています。

 

   危機を脱するためには、はや幾度も、なすべからざる事が心ならずもなされたことがありました。

   父親の願いを拒みきれず、孝を失うまいとして不幸となり、アルクマイオンが、自分の母親を亡きものとした事などはその例の一つです。 (『天国篇』第4歌 100~105、平川祐弘訳)

 

センナケリブ

   第10番目の傲慢者の彫像は、アッシリア帝国のセンナケリブ王が息子によって殺される光景を描いたものでした。

 

〔原文解析〕

(直訳)

   それ(堅固な舗道)は展示していた。どのようにその息子たちが神殿の内部で(父)センナケリブ王に襲いかかり、そしてどのようにして彼(父)を殺害して、そこに置き去りにしたかということを。

 

 

   「センナケリブ (Sennacherib)前705~681」とは、アッシリア帝国がオリエント地域全体を支配する大帝国(上の地図参照)となった時代のアッシリア王です。彼の父サルゴン(Sargon)2世がバビロニアを征服してアッシリア・バビロニア両国の王を宣言したので、センナケリブも同じ様に名乗りました。それらの王たちが治めた時代は「新アッシリア時代(紀元前934~609)」と呼んでいます。断片的ではあっても碑文による記録が比較的多く残っているので、古代ではあっても比較的多く歴史・伝記が残っています。しかし、ダンテの時代に科学的発掘が行われたとは考え難いので、彼の得たセンナケリブ情報は旧約聖書によるであろうと思われます。センナケリブ王の傲慢な姿勢は旧約聖書の『歴代志下』の中で次のように描かれています。

 

   アッシリアの王センナケリブはこう言います、「あなたがたは何を頼んでエルサレムにこもっているのか。ヒゼキヤは『われわれの神、主がアッシリアの王の手から、われわれを救ってくださる』と言って、あなたがたをそそのかし、飢えと、かわきをもって、あなたがたを死なせようとしているのではないか。このヒゼキヤは主のもろもろの高き所と祭壇を取り除き、ユダとエルサレムに命じて、『あなたがたはただ一つの祭壇の前で礼拝し、その上に犠牲をささげなければならない』と言った者ではないか。あなたがたは、わたしおよびわたしの先祖たちが、他の国々のすべての民にしたことを知らないのか。それらの国々の民の神々は、少しでもその国を、わたしの手から救い出すことができたか。わたしの先祖たちが滅ぼし尽したそれらの国民のもろもろの神のうち、だれか自分の民をわたしの手から救い出すことのできたものがあるか。それで、どうしてあなたがたの神が、あなたがたをわたしの手から救い出すことができよう。それゆえ、あなたがたはヒゼキヤに欺かれてはならない。そそのかされてはならない。また彼を信じてはならない。いずれの民、いずれの国の神もその民をわたしの手、または、わたしの先祖の手から救いだすことができなかったのだから、ましてあなたがたの神が、どうしてわたしの手からあなたがたを救いだすことができようか」。センナケリブの家来は、このほかにも多く主なる神、およびその僕(しもべ)ヒゼキヤをそしった。 (『歴代志下』第32章10~16)

 

   そしてセンナケリブが主の怒りを受けて自国に帰ったあと、自分の子供に殺害される有様は、次のように表現されています。

 

   そこでヒゼキヤ王およびアモツの子預言者イザヤは共に祈って、天に呼ばわったので、主はひとりのみ使をつかわして、アッシリア王の陣営にいるすべての大勇士と将官、軍長らを滅ぼされた。それで王は赤面して自分の国に帰ったが、その神の家にはいった時、その子のひとりが、つるぎをもって彼をその所で殺した。 (『歴代志下』第32章20~21)

 

   ところが、センナケリブの死の模様は、同じく旧約の『イザヤ書』には、次のように描かれています。

 

   それゆえ、主はアッシリアの王について、こう仰せられる、「彼はこの町にこない。またここに矢を放たない。また盾をもって、その前にこない。また塁を築いて、これを攻めることはない。彼は来た道から帰って、この町に、はいることはない」と主は言う。「わたしは自分のため、また、わたしの僕(しもべ)ダビデのために町を守って、これを救おう」。

   主の使が出て、アッシリアびとの陣営で十八万五千人を撃ち殺した。人々が朝早く起きて見ると、彼らは皆死体となっていた。アッシリアの王センナケリブは立ち去り、帰っていってニネベにいたが、その神ニスロクの神殿で礼拝していた時、その子らのアデランメレクとシャレゼルがつるぎをもって彼を殺し、ともにアララテの地へ逃げていった。それで、その子エサルハドンが代って王となった。

 (『イザヤ書』第37章33~38)

   センナケリブ王は、ユダヤやエルサレムの神を軽視した傲慢の罪を犯したので息子によって殺害されたことになっていますが、殺害者が誰なのかは、不明のようです。ただ、『イザヤ書』と『列王記』(第19章37)がまったく同じ文言になっていますので、アデランメレクとシャレゼルの二人による犯行説が有力です。

 

 

キュロス首を斬ったトミュリス

   第11番目の傲慢者の彫像は、キュロスの首を血の袋に浸しているトミュリスの姿でした。

 

〔原文解析〕

(直訳)

   それ(堅固な舗道)は展示していた。虐殺と残虐な破壊を。「汝は血に飢えていた、そして私は汝を血で満たしてやる」とトミュリスがキュロスに言って、その虐殺を行った。

 

   トミュリスは、紀元前530年ごろ、カスピ海東岸一帯に勢力を広げていたマッサゲタイ族の女王でした。キュロス王に率いられた強国ペルシア軍は、メディア王国、リュディア王国、新バビロニア王国、中央アジア諸国を、次々に征服しました。そして、マッサゲタイ族を征服しようと侵略を開始しました。キュロス王とペルシア軍はアラクセス川で陣を取っていたとき、マッサゲタイ軍の三分の一が攻め寄せて来たので、ペルシア軍は退却しました。マッサゲタイ軍が後の残された山海の珍味で、たらふく飲み食いして眠ってしまいました。そこをペルシア軍は攻撃して、多くのマッサゲタイ人を殺害して、将軍スパルガピセス(トミュリス女王の息子)を生け捕りにしました。

   トミュリス女王は、キュロスのもとに使者を派遣して、「懲らしめられないうちに王子を返してこの国を退去せよ。もし、汝がそうしないならば、」と警告して、「マッサゲタイの至上の主である太陽にかけて誓う、汝が血に飢えているのなら、私は汝に浴びるほどの血を与えよう」と呪いの言葉を浴びせました。しかし、キュロス王は彼女の言葉などいっさい無視しました。トミュリス女王の子スパルガピセスは、酔いが醒めると、自分が悲惨な境遇に陥っていることに気づくと、キュロスに縄と解いてくれるように懇願しました。そして、縄を解かれるや否や自決してしまいました。

   それに怒ったトミュリスは、自国軍の全勢力を結集してキュロス軍に決戦を挑みました。両軍の戦いは、まさしく「刀折れ矢尽きるまで」の激戦でした。ギリシアの歴史家ヘロドトス(紀元前484?~425?)は、彼の書『歴史(Historiai)』の中で「異邦人(ギリシア人以外の人間)が行ったすべての戦争の中で一番激しいものであった」と証言しています。

   結局、マッサゲタイ軍が勝利を治め、ペルシア軍の大部分は討死してしまいました。29年間ペルシアを治めていたキュロス王も、その戦いで最期を遂げました。トミュリス女王は、戦死した兵たちの血を革袋に詰めて、その中へキュロス王の首を切り取って浸しました。その女王の最後の言葉は、「私は生きている。そして、戦いで汝に勝ったが、私は汝に征服され、汝に破壊された。なぜなら、汝は策謀で私の息子を捕られたから。しかし、私は(汝に浴びるほどの血を与えようという)約束通りに、溢れるほどの血を汝に与えて差し上げる」でした。そして、キュロス王の首級を血で満たされた革袋に浸しました。

            (ヘロドトス『歴史』第1巻211~214を参考にした解説)

ルーベンス作『キュロスの首を血で満たした革袋に浸ける』

 

ホロフェルネスの首を斬ったユディト

   第12番目の傲慢者の彫像は、ホロフェルネスがユディトに首を斬られる場面を描いた作品でした。

 

〔原文解析〕

(直訳)

   それ(堅固な舗道)は展示していた、ホロフェルネスが殺された後にアッシリア兵たちが総崩れして敗走した様子と、また殺戮の残骸の様子を(展示していた)。

 

『ホロフェルネスの首を斬るユディト』(カラヴァッジョ作)

 

   ひとくちに「聖書」と言っても、キリスト教の教派によって収録されている教典が異なっています。キリスト教の一般信者が手にする教典を「正典 (キャノン:Canon)」と呼び、そうでないものを「聖書外典 (アポクリファ:Apocrypha)」と呼んでいます。そして、同じ教典でも教派によって正典に収録されているものが異なります。『ユディト記 (Libro di Giuditta: Book of Judith)』もその一つです。その『ユディト記』という教典は、古来の二大聖書であるギリシア語訳『70人訳聖書 (Septuaginta)』(前200年頃成立)にもラテン語訳『ウルガータ (Vulgata)』(後400年頃完成)にも収録されています。しかし、英語訳『欽定訳聖書 (Authrized Version または King James Version)』(1611年刊行)には入っていませんが、ケンブリッジ・オックスフォード両大学が共同で翻訳して1970年に出版した『新英語聖書 (New English Bible)』の中には収録されています。では『ユディト記』とは、どのような物語が書かれているのか紹介しておきましょう。

 

『ユディト記』

   アッシリア王ネブカドネツァル (Nebuchadnezzar)は、領土拡大を試みて軍事行動を展開していました。そして、イスラエルを征服するために、王に忠実なホロフェルネス(Holofernes)を総司令官として派兵しました。イスラエルの隣国アモンの将軍アキオル(Achior)は、アッシリアを恐れて服従を誓いました。そこでいよいよ、ホロフェルネスはイスラエルを征服するための戦いを始めました。

   先ず、ホロフェルネスはベトリア(Bethulia:イスラエルの町ではあるが所在は不明)の町を包囲して、そこの水源を絶ちました。ベトリアの住民は降伏を決意しましたが、その町に住む美しい未亡人ユディトがイスラエルを救うための策略を思いつきました。ユディトは、喪服を脱ぎ、夫マナセス(Manasses)が生存していた時のように、絢爛豪華な服装と装飾品を身に着けて、一人の侍女に食料を袋満杯にして持たせて、アッシリア軍の陣営へ向かいました。その陣営でアッシリア兵に見つかって、「どこから何用で来たか」と尋ねられたとき、自分はヘブライ人で、ベトリアの町は間もなく陥落するので逃げてきた。そして、ホロフェルネス総司令官に会って、一兵も失うことなくベトリアの町を征服する方策を教えたい、と答えてアッシリア人を安心させました。

   そして、ホロフェルネスの前に引き連れられたとき、ユディトは、彼女自身がアッシリア軍をエルサレムの中へ案内して、町の中央に彼自身の王座を築くようにと提案しました。しかし、ユディトの策略が功を奏したのは、美貌と話術の巧みさで、ホロフェルネスをして「汝を遣わしてくれた神に感謝する」とまで言わせました。ホロフェルネスは、彼女に魅了されたので、彼女を饗宴に同席させ、口説く機会を狙っていました。

   酒宴の後、ユディトは侍女に寝室の外で待機するように命じて、他の家来たちには全員、部屋から出るように頼みました。そしてついに、ホロフェルネスの殺害を決行しました。その模様を実況報告しましょう。

 

   ホロフェルネスは、酔いつぶれて自分のベッドで大の字になって横たわっていました。ユディトはそのベッドの脇に立って、「おお、主よ、万能の神よ、エルサレムに栄光をもたらそうとする私に恩寵を賜らんことを。今こそ、汝の選民を助け、我らに仇をなす敵を粉砕する試みを成功させる時ぞ」と祈りました。ホロフェルネスの頭の脇に立ち、彼の剣を抜きました。そして、ベッドに近寄り、彼の頭髪をつかんで、「今こそ、我に力を与えたまえ、主よ、イスラエルの神よ」と言って、力の限り彼の首に刀を二度振りおろして、首を切断しました。その後すぐ、ホロフェルネスの首を侍女に渡すと、その侍女は布袋に仕舞い込みました。そして、二人は連れだって、陣営を抜け出してエルサレムのベトリアへ戻りました。 (『ユディト記』第13章4~10、筆者訳)

 

   総司令官を失ったアッシリア軍勢は敗走しました。そして、ホロフェルネスに忠誠を示していたアモンの将軍アキオルも、その切り取られた首を見て、神を深く信じるようになり、ユダヤ教に帰依したと言うことです。

『ホロフェルネスの首を取ってベトリアへ帰るユディト』

(サンドロ・ボッティチェッリ、Sandro Botticelli、1445~1510)画

 

ホロフェルネスとセンナケリブの傲慢な言葉

   ホロフェルネス総司令官がアモンの将軍アキオルを脅した言葉は、次のようでした。

 

   「イスラエルの神がイスラエル人を守るのでイスラエルの民とは戦争はしないと言っているお前は予言者にでもなったつもりか?我らのネブカドネツァル王を除いてどんな神がいるというのか?王は権能を発揮してイスラエル人を地上から消し去ることになるが、イスラエルの神はイスラエルの民を救うことはない。我らが仕えるネブカドネツァル王は、あたかもたった一人を倒す(=赤子の手をひねる)がごとく、イスラエル人全員を討ち倒すであろう。イスラエルの者たちは、我々の騎兵の重圧には耐えられない。山々は血で染まり、平原は屍で溢れることになる。イスラエル人は我らに抵抗などできず、地上から抹殺されるであろう。これこそが、全地上の主、ネブカドネツァル王の神意である。 (『ユディト記』第6章2~4、筆者訳)

 

   神をも畏れない「傲慢」の典型は、前出のアッシリア王センナケリブがユダやイスラエルの神を軽蔑して言った次の言葉とも共通しています。

 

   あなたがたは、わたしおよびわたしの先祖たちが、他の国々のすべての民にしたことを知らないのか。それらの国々の民の神々は、少しでもその国を、わたしの手から救い出すことができたか。わたしの先祖たちが滅ぼし尽したそれらの国民のもろもろの神のうち、だれか自分の民をわたしの手から救い出すことのできたものがあるか。それで、どうしてあなたがたの神が、あなたがたをわたしの手から救い出すことができよう。それゆえ、あなたがたはヒゼキヤに欺かれてはならない。そそのかされてはならない。また彼を信じてはならない。いずれの民、いずれの国の神もその民をわたしの手、または、わたしの先祖の手から救いだすことができなかったのだから、ましてあなたがたの神が、どうしてわたしの手からあなたがたを救いだすことができようか。

(『歴代志下』第32章13~15)

 

トロイア陥落

   最後となる第13番目の彫像は、トロイアが陥落して炎上している光景を描いていました。

 

〔原文解析〕

直訳)

   私は見ていた、灰燼と化し廃墟と化したトロイアを。おお、イリオンよ、そこで見た彫像は、何と汝を下劣で堕落した姿に見せていたことか。

 

   ウェルギリウスの『アエネイス』は、ある見方をすればカエサル家のプロパガンダですが、ヨーロッパ人全体にとっては祖先がトロイア人であるというファンタジーでした。西洋の歴史は、ホメロスの『イリアス』の英雄アキレウスよりも、敗者であったアエネアスの方に共感を示して作られているといっても過言ではありません。それも、単なる「判官贔屓」として片付けるだけの問題ではありません。詳しくは、私のブログ「徳川家康もトロイア人?歴史はファンタジーでプロパガンダでした」をお読み下さい。

 

   もともとは、「ヨーロッパのトロイア起源説」は、歴史の科学的究明の空白部分と「早い者勝ち」の原則によって創られた伝説かも知れませんが、ヨーロッパには「トロイア贔屓」の精神が根底にあるようです。それなのに、なぜ、ダンテが「傲慢の罪」の代表的事例として「トロイア陥落」を上げたかは、疑問の余地があります。そして、ダンテが、トロイアを「下劣で堕落した (basso e vile)」(平川訳では「卑しく落ちぶれた」)と見なしている根拠はどこにあるのかは不明です。『地獄篇』の第1歌で、ウェルギリウスが道の迷ったダンテを救出するために現れましたが、その時、そのローマ詩人は次のように自己紹介しています。

 

〔原文解析〕

(直訳)

   私は詩人であった。そして、傲慢なイリオンが焼失させられたので、トロイアからやって来たアンキセスのあの正義の息子について歌った。

 

   上の詩節の中では、私は「傲慢なイリオン (superbo Ilion)」と、仮の和訳を付けておきました。しかし、「スペルボ(superbo)」というイタリア語は「傲慢な」とか「自惚れた」という悪い意味と、「華麗な」とか「立派な」という善い意味の両義性を持った形容詞です。そして、その形容詞がトロイアを修飾する場合は、後者すなわち善い意味で「立派なイリオン」と訳すのが普通です。

   さらに、他の箇所でもトロイア人について次のように「気高い (altezza)」と表現しています。

 

〔原文解析〕

(直訳)

   運命女神は、何事も勇敢に行ってきたトロイア人たちの気高さを低い所へ転げ落とし、そのたために王国(トロイア)もろとも国王(プリアモス)が殺害された時、・・・

 

   では、トロイア伝説を後世に普及させた最大の功労者であるウェルギリウスはどの様に表現しているかと言うと、「スペルブス (superbus)」という形容詞を使って、次のように書いています。

 

〔原文解析〕

(直訳)

   傲慢な(又は誇り高き)イリウムは陥落してしまった。そして、ネプトゥヌスの全トロイアが大地から煙を出している(=トロイア全土が炎上している)。

 

   前出のダンテが使った「スペルボ・イリオン(superbo Ilion)」は、上のウェルギリウスが使っている「スペルブス・イリウム(superbum Ilium)」の模倣であることは明らかです。すなわち、ラテン語をイタリア語に変えただけの表現なのです。ということは、善い意味と悪い意味の両義性を持っていて、どちらの解釈も可能なのです。煉獄の第一環道が終わる場所に展示されている彫像は、「傲慢の罪」を戒めるものなので、トロイアの陥落は傲慢の結果として起こった出来事だと、ダンテは考えているのでしょう。

 

次回予告

   第一環道の最後の区画には、傲慢の罪を戒める13の代表的な事例が彫刻で刻まれていました。それらは皆、出口を飾るに相応しい優れた出来栄えの彫像でしたが、実は、それらの描写にも、ダンテの極めつきの修辞技法が駆使されています。それは、固有名詞を列挙して歌い上げる「カタログ技法」という表現法と合体させて、「首句反復法 (anaphora)」という修辞法が使われているということです。次回のブログは、極めて難解なものになるかも知れませんが、ダンテの韻律法と修辞法について具体的に見てみましょう。次回の説明のために、今回はあえて『神曲』のイタリア語の原文も見ておきました。