『神曲』煉獄登山15.第1環道は傲慢の罪を浄化する苦行場(前篇) | この世は舞台、人生は登場

この世は舞台、人生は登場

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  『神曲』の『煉獄篇』は、第10歌からいよいよ煉獄本地に入ることになります。そして、その章歌は次のような詩句で書き始められています。

 

   曲がった道をまっすぐに見せかけるような邪悪(よこしま)な愛が心中にあるかぎりこの門は開かないが、その閾(しきい)をこえて私たちは中にはいった。すると、音をたてて門がまた閉まるのが聞こえたが、もしその時私が後ろを振り向いたならば、その過ちを償うに足るような言訳があっただろうか?(『煉獄篇』第10歌、1~6、平川祐弘訳)

 

   この上の詩行には、少し解説と論説を行いたいので、原文解析と直訳を添付します。

〔筆者による直訳〕

   魂の邪悪な愛が歪んだ道を真っ直ぐな道に見えさせて、悪用して〔開かせる〕門の敷居を私たちが跨いだ後、門が音を立てながら再び閉まるのを感じた。そして、もし私が両眼を門の方へ向けていたならば、何かその過失に値する弁解があったであろうか?

 

愛(アモーレ:amore)とは

   『神曲』の中で、最も重要な言葉は「愛:アモーレ」です。それは、「男女の愛」とか「人間愛」といったような卑近な「愛」ではありません。また、「神の愛」という単純な概念で呼ぶことのできるものでもありません。おそらく、『神曲』の全篇14,233行を読み終えても明解な解答は得られないかも知れません。この先の『煉獄篇』第17歌の91行目ほどから最終行139行目までのおよそ50行にわたり、ウェルギリウスによっていろいろな愛の形について語られます。詳しくは、私のブログがその箇所に辿りついた時に見ることにしまして、ここでは「愛の原理原則」を定義した二箇所の部分だけを紹介しておきましょう。まずは、『煉獄篇』第17歌でウェルギリウスの言葉の結論として語られた次の詩句です。

 

   以上のことから、汝たちの中で、愛があらゆる徳の種子であり、また罰を受けるに値するあらゆる所業の種子であるに違いないことを、汝は理解できている。(『煉獄篇』第17歌、103~105、筆者による直訳)

〔原文解析〕

   善行であれ悪行であれ、人間に行為を起こさせる根源(sementa)のことを「愛」、とダンテは呼んでいるのです。神の愛だけを愛と呼ぶならば「邪悪な愛(il male amore)」などという考え方は起こらないはずです。邪悪なものを生み出す愛(種子)から善良なものを生み出す愛まで多種多様な愛が存在していますが、その中で最も崇高なものを生み出す愛が「神の愛」なのです。そのことは、『神曲』の締めの言葉に集約されています。それは、次のように表現されています。

 

   ここ至高天では、高い空想力をもってしても、力量不足になった。しかしすでに、均一に回転する車輪のように、私の願望と意志を回転させるものがあった。それは、太陽とその他の星々を動かしている「愛」であった。(『天国篇』第33歌、142~145、筆者による直訳)

〔原文解析〕

   究極の愛とは神それ自体のことで、ダンテの想像力と創造力をもってしても描くことのできない超越した存在なのです。すなわち、ダンテ個人の「願望(disio)」と「意志(velle)」である小宇宙から天体の大宇宙に至るまで秩序ただしく均一に動かす原動力である存在があり、それを神と呼んでいるのです。

 

善人面した悪人(詐欺師)

   ダンテの『神曲』には、多くの「格言」や「警句」の類いの詩句が点在しています。『煉獄篇』第10歌の冒頭にも、「煉獄門」を次のように説明しています。

 

  魂の邪悪な愛が歪んだ道を真っ直ぐな道に見えさせて、悪用する(=開かせる)門 (la porta che ’l mal amor de l’anime disuse)

 

   すなわち、真実を装って、歪んだ道を真っ直ぐな道のように偽る詐欺師が、煉獄門を開かせようと虎視眈々と狙っていると言っているのです。それゆえに、煉獄の門衛天使は厳重に入界審査をしているのです。「真実を装って迫って来る悪」への注意を促す有名な格言を二つ紹介しておきましょう。まず、プラトンが『国家論(ラテン名レースプーブリカ、Res Publica)』の中で、「究極の悪(極悪)とは、正しくない者を正しいように見せかけることである」と言っています。原文は以下の通りです。

   さらに、帝政ローマの政治家で哲学者セネカ(前1~後65)は、「悪徳は美徳の名の下に我々に忍び寄る」と言っています。原文は以下の通りです。

   上記のプラトンとセネカの格言は政治家への風刺を込めた言葉ですが、現代では、もっぱら詐欺行為に対する警告と非難に適用されるのではないでしょか。

 

煉獄山の登山道

   煉獄門から煉獄本道に通じる道は決して平坦ではなく、四方八方から岩が突き出ていました。そのために、身体を右左によじりながら進まなければなりませんでした。その岩間を抜けようと奮闘している時刻は、「月の欠けた物(球体)が再び就寝のために彼女の寝床に入った(lo scemo de la luna rigiunse al letto suo per ricorcarsi)煉獄篇10歌14~15」(rigiunse: ri-giungereの遠過去3人称単数)時間帯でした。この記述によって、私たち読者はその時間を推測しなければなりません。もう一度、時間を確認しておきましょう。

   前回のブログ「煉獄登山14」で言及したように、ダンテが煉獄前域(アンティプルガトーリオ)で眠りについたのが4月10日復活祭日曜日の夜9時少し前でした。そしてダンテが眠っている間に聖女ルチーアに抱かれて煉獄門前に着いたのが、翌朝の8時過ぎて9時より少し前の時刻でした。そして、現在の時間は月が「寝床に入った(regiunse al letto suo)」すなわち「水平線のかなたの床にまた横になった(平川訳)」時刻で、午前9時過ぎであると推測されています。私がここまで時間経過と天体配置のために使ってきました自家製の『地球時間と12宮の位置図』は、昼と夜の長さが同じ春分の時節にのみ適用できるものです。もう一度「地獄巡り」に遡って、地獄へ入った最初の夜明けの模様を点検してみましょう。4月8日金曜日の日没時に地獄巡りに出発して、第4濠(ボルジャ)を通過した時、ウェルギリウスによって次のように述べられていました

 

   カインとその茨〔月〕が両半球の境界〔地平線〕に位置し、セビリアのかなたで波にふれている。それに過ぎた昨夜は満月だった、深い森の中でおまえは一度ならずそのおかげをこうむったのだから、よく憶えているはずだ。(『地獄篇』第20歌124~129、平川祐弘訳)

 

   私たちが煉獄登山の中では、もっぱら太陽を使って時刻を知る目安にしてきました。しかし、地獄巡りでは、太陽を使うことを避けて月によって時刻を暗示していたのです。上の詩句に描かれた地球と天の12宮の配置を示すと次の図形になります。

   上の添付図で分かるように、「カインとその茨がソビリアの下で波に触れている (tocca l’onda sotto Sobilia Caino e le spine) 地獄篇20歌125~6」時刻は、現世と地獄すなわち北半球では午前6時の日の出の時刻で、煉獄では日没の午後6時でした。その時に出ていた月は「真ん丸な月(la luna tonda)」でした。ところが、『煉獄篇』第10歌の煉獄門を抜けて煉獄本地に入った時の月は「欠けた月(lo scemo de la luna)」でした。下に添付する「神曲巡礼日程表」でも分かるように、門を過ぎて第1環道に通じる道にいる時刻は4月11日の午前9時過ぎでした。すなわち、現時点では、満月から三日を経過しています。月は満月からおよそ15日で新月になるので、完全な円形から5分のⅠが欠けた状態であったと推測できます。ただし、この推測にはいろいろな説が存在しています。主に「三日と半日説」と「五日説」がありますが、その議論は私の計算能力の及ばないところです。問題だけを提示しておきますと、月は満月状態から1日でおよそ15分の1ずつ欠けると同時に、月が沈むのもおよそ30分ずつ遅くなります。ということは、午前9時に月が沈むためには5日か6日かかるということです。また、地獄を出て南半球(水の半球)に出た瞬間に12時間の「時差」が設定されています。それを計算に入れると経過時間も変わってきます。今後も、「神曲巡礼日程表」は使いますが、『地球時間と12宮の配置図』の方は利用価値がなくなりました。

 

 

 

煉獄の美術館

   切り立った岩の壁の細い道を抜けると、広い道に出ました。その道幅は「人体なら三倍の広さになるであろう (misurrebbe in tre volte un corpo umano)10歌24」(misurrebbe=misurerebbe: misurare「寸法である」の条件法現3単)と記述されていますので、「5メートル前後」とするのが定説です。そして、ここから煉獄山の頂上にあるエデンまでに設置されている七つの環道(コルニーチェ、cornice)は、すべてその道幅であるとするのも定説化されています。

   ダンテたちが辿り着いた広い道は、霊魂たちが傲慢の罪を浄化している煉獄山第1環道でした。その歩廊にそそり立つ絶壁には謙譲の精神を讃える大理石の彫刻が並んでいて、次のように描出されています。

 

   そこ(環道)の上で、私たちの足は進めなかった。しかしその時、垂直すぎて登り坂など存在しないあの断崖が、純白の大理石でできていて、ポリュクレイトスのみならず自然でさえも恥じ入るような(優れた)彫刻で飾られていることに、私は気付いた。(『煉獄篇』第10歌28~33、筆者訳)

〔原文解析〕

   その絶壁に並ぶ彫刻の見事さを二つの直喩で喩えています。まず最初は、古代ギリシアの彫刻家ポリュクレイトスの作品と比較して、それよりも優れていたと表現しています。実のとこと、ダンテは古代ギリシアの文化と文学には知識が乏しいという弱点を持っていました。ポリュクレイトスに関しても、ギリシアからの生情報ではなくローマ経由の知識であったと考えられます。まず、ここでそのギリシアの彫刻家について、もう少し詳しく見ておきましょう。

   ポリュクレイトス(Polykleitos)は、ローマ名では「ポリュクレートゥス(Polycletus)」で、イタリア名ではダンテの使っている「ポリクレート(Policleto)」ですこの彫刻家は、およそ紀元前452年から412年にかけて活躍したといわれていて、彼とほとんど同時代のペイディアス(Pheidias、およそ前480~430)、ミュロン(Myron、およそ前480~445)、クレシラス(Kresilas、およそ前480~410)と共に後世にその名を知られています。ただし、これらの古代ギリシアの彫刻家たちの作品はほとんどすべて現存してはいません。彼らの名前が付けられて現存している彫像は、古代ローマにおいてギリシア彫刻を憧憬してやまない多くの彫刻家によって複製されたものです。それゆえに、同じ名前のついた異なった作品がいくつも存在しています。例えば、わが国において最も知られているミュロンによって制作された『円盤投げ(Discobolus)』も、何種類も存在しています。有名なものを下に添付しておきましょう。

 上の彫像は、すべてミュロン作と公認されていますが、後世において複製された作品です。それでも、全ての作品はミュロンの創作によるものであると公認しています。

 

   ポリュクレイトスは、ペイディアスとしばしば比較対照されます。後者は、アクロポリスの復興やパルテノン神殿などの建設などにも携わり、彫刻としては『ゼウス座像』や『アテナ女神像』などに代表されるように神々の彫像が多かったと言われています。それに対して、ポリュクレイトスは、『ドリュポーロス(槍を持つ人)』や『ディスコポーロス(円盤をもつ人)』など人物像を中心に創ったと言われています。中世時代の知識人は、古代ギリシアの情報には暗かったことは確かです。とくに、ルネサンスになれば持て囃されることになるプラトンも、当時はまだ軽視されていました。プラトン復興に貢献したのは、1463年頃にメディチ家の援助を受けて創設されたプラトン・アカデミーの活動だと言えましょう。一方、アリストテレスに関しては、カトリック教会の教理に採り入れられていましたので、早くからラテン語訳によってその哲学は普及していました。ダンテもアリストテレスから大いに影響を受けています。たとえば、智者たちの地獄である「辺獄(リンボ)」においても、ダンテは、アリストテレスを「ものを知る者たちの師(il maestro di color che sanno)」と呼んですべての智者の中で最も尊敬しています。

   ダンテのアリストテレスに関する知識は、もっぱらトマス・アクィナスを経由した要素が多いようです。ダンテがギリシアの著名な彫刻家の中でポリュクレイトスだけの名前を出しているのもトマス・アクィナスの影響であろうと推測されています。トマスはアリストテレスの多くの著作に対して注解を書いています。その中の一つに次のような論述があります。

 

   私たちは、ペイディアスを煉瓦と石を刻む達人と呼びます。そして、ポリュクレイトスを英知ある彫像家と呼びます。すなわち、彫像を創る人という意味です。ここで使っている「英知:サピエンティア (sapientia)」とは「傑出した技芸」という意味に他なりません。すなわち、(英知とは)技芸においての究極で完璧なるものという意味です。明らかに、人はそれ(英知)によって、究極で完璧であるところの状態にまで到達するのです。(「トマス・アクィナスによるアリストテレスの『テレマコス倫理学』への注解」筆者訳)

〔原文解析〕

   上のラテン語の原文は難解ですが、大まかなところは、アクロポリスの復興やパルテノン神殿の建築にも携わったペイディアスを「石を刻む達人」いわゆる「彫刻家」と呼び、一方、ポリュクレイトスを「彫像を創る達人」すなわち「彫像家」と呼んでいます。そして、アリストテレスもトマス・アクィナスも、人体を創る技においてはポリュクレイトスが優れていると判定しているのでしょう。確かに、彼の作品には人体像が多く存在しているようです。(下に添付した挿図はポリュクレイトスの作品です。いうまでもなく、すべてローマ時代以後の複製です。)

 

自然さえも恥じ入る彫刻

   煉獄の環道の絶壁に彫られた彫刻は、ポリュクレイトスの作品よりも優れていましたが、もう一つ「自然でさえも恥じ入るような〔優れた〕彫刻 (la natura lì avrebbe scorno)第10歌33」とも喩えています。その意味を解く鍵は、『地獄篇』の次の詩句にあります。

 

   自然は、神の智恵と神の技法に従って、その進路を取っている。・・・君たち(人間)の技法は、可能な限り自然(の技法)に従っている。ちょうど、弟子が師匠のように行うのと同じである。それゆえに、君たちの技法は、神に対しては孫のようなものである。(『地獄篇』第11歌、99~105、筆者による直訳)

〔原文解析〕

   上の詩句は、「神の技法」と「自然の技法」と「人間の技法」の三種類を定義付けています。すなわち、自然は神の摂理に従って創られています。そして、人間は自然の摂理の中で存在しています。ということは、神が父親と仮定するならば、自然はその子供で、そして人間は自然の子であると同時に神の孫にあたります。その原理に従えば、煉獄の第1環道の玄関にある垂直の壁面に彫られた大理石の彫刻が、人間の中で最も優れた技芸の持ち主ポリュクレイトスの作品よりも、また自然が作り出す作品よりも優れていということは、神が創造した彫刻であるということを意味しています。その大理石の壁面には次のような物語が彫刻されていました。

 

   長年の間、人々が涙して求めてきた平和、長かった禁令を解いて天国の門を開いた平和、その平和を地上に告げに来た天使が、私たちの目の前に行けるがごとく刻まれていた、それはいかにも爽やかな姿でものいわぬ像(すがた)とは思われず、まるで「幸あれ(アヴェ)」と声に出しているかのようだった、そこには大いなる愛を開くために鍵を回したあの〔マリヤの〕像も刻まれていた。その挙措(きょそ)からは、「我はこれ主の使女(つかいめ)なり」という言葉が、蝋に刻まれた姿同様、まざまざとうかがわれた。(『煉獄篇』第10歌34~45、平川祐弘訳)

 

   上の詩句をパラフレーズしてみましょう。長年の間、優れた人間も救われることなく辺獄に閉じ込められてきました。ノアや法を立てまた神によく仕えたモーセ、族長のアブラハムやダビデ王、イスラエルとその父や子供たち、そしてイスラエルが忠実に仕えたラケルなど旧約聖書の賢人たちも、アリストテレスもプラトンもホメロスも、またダンテの地獄・煉獄巡りの先達ウェルギリウスでさえも、洗礼を受けていないという落ち度のために、他に罪がないのに「平和(pace)」は与えられませんでした。その煉獄の壁面には、「長年の禁令から天国を解放した (aperse il ciel del suo lungo divieto)36」人の訪れを告げために地上に降り立った天使が描かれていました。それは、まさしく天使ガブリエルによって「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう (『ルカによる福音書』第1章35)」という言葉で『受胎告知』をする場面を描いた彫刻でした。その彫刻には文字は何も書かれていなかったのですが、天使は「幸あれ」(Ave: aveoの命令形現在2人称単数)と言い、マリアは「我はこれ主の使女なり (Ecce ancilla Dei)」(煉獄第10歌44とルカ伝1-38)と声に出しているかのようでした。

ダビデ王

   マリアの受胎告知の模様を造形した彫像の隣の大理石には、ダビデ王にまつわる逸話を題材にした彫刻が彫られていました。そして、その時に巡礼者ダンテが覚えた感動は、次のように表現されています。

 

   そこの大理石には、各自はその職務の分限をわきまえよという訓(おし)えなのだが、聖なる櫃(はこ)をひいて行く車と牛とが刻まれていた。前方には全部で七つの合唱隊に分かれた人々が見えた、私の五官のうち聴覚は「歌っていない」といったが、視覚は「いや、歌っている」と主張した。同様に、そこに描かれた香の煙についても、目と鼻は煙だ、煙でない、と意見を異にした。祝福された櫃の前を裾をからげて踊りながら、つつましやかな詩篇の作者が進んで行ったが、その格好は王様以上とも以下とも見えた。向かいの大きな館の窓辺には、もの悲しそうな女ミカルが、侮蔑の色を浮かべて、じっと見つめている様が刻まれていた。(『煉獄篇』第10歌55~69、平川祐弘訳)

 

   上の詩行で表現されている主要テーマは、第1環道の浄罪項目である「傲慢の浄化」ですが、実際には「神に対する忠誠のあり方」が述べられています。そのために使用されている素材は、旧約聖書の『サムエル後書』の第6章に語られているダビデ王の逸話です。まず、その該当箇所の概要を見ておきましょう。

 

   ユダ一族の統領であったダビデ王は、イスラエル王サウルを後継した息子イシュ・ボシェトが率いるイスラエル軍との戦いに勝利しました。その結果、イスラエル全土を統治して、エルサレムを首都としました。続いて、ダビデはペリシテ軍を打ち破り、バアレ・ユダにあった神の箱をエルサレムに運び込むことにしました。その聖なる箱とは、『出エジプト記』(第25章)で、神が自らの聖所にするためにモーセに命じてアカシア材で作らせた箱(長さ2.5キュビト×横1.5キュビト×高さ1.5キュビト:約130cm×80cm×80cm)のことです。その箱は、山の上のアビナダブ家にあったものを、そこから運び出されました。そしてその時、その家のウザとアヒオの二人の息子が箱を乗せた車を先導しました。ウザは神の箱のかたわらに沿い、アヒオの方は箱の前を進みました。そして、ダビデとイスラエルの全家は琴と竪琴と手鼓と鈴とシンバルを奏でて歌をうたいながら進みました。脱穀場の所に来たとき、牛がつまずいて車が倒れそうになりましたので、ウザは神の箱を押さえました。すると主は、ウザに向かって怒りを発し、彼が手を箱に伸べたので、彼をその場で撃ち殺しました。ウザが神の箱のかたわらで死んだので、ダビデは、その神の仕打ちを不満に思いました。それゆえに、神の箱をダビデの町には入れないで、ガテ人オベデエドムの家に運ばせました。すると、オベデエドム家には幸運なことが立て続けに起こるようになりました。ダビデは、その話を耳にしたので、神の箱を引き取ることにしました。ダビデは、その引っ越しの行列の前で、踊り舞いながら進みました。神の箱がエルサレムに入ったとき、先王サウルの娘ミカルは窓からダビデが踊るのを見て、彼を蔑みました。しかし、ダビデは、彼をイスラエルの王に選んだ神のために踊るのは当然であると、ミカルに答えました。 (『サムエル後書』第6章の概説)

 

   上に提示したダンテの詩行から想像できる彫刻の図像は、ダビデが「七つの合唱隊に先導されて (partita in sette cori)59」、イスラエルへ「聖なる箱をひいて行く牛車と牛(lo carro e ’buoi, traendo l’arca santa)56」の光景です。まず、ダンテは、最初に「託されていない任務を恐れよ(si teme officio non commesso)57」という教訓を示しています。それは、『サムエル後書』のダビデの逸話にある教訓で、ダビデが神の箱を運んでいるとき、車から落ちそうになった箱を支えるためにウザが手を触れだけで罰をうけたことです。その逸話は、いかなる状況にあろうとも神の掟を逸脱してはならないという教訓を示しています。旧約聖書の150篇から成る『詩篇』のほとんどをダビデが創作したという伝承から、ダンテは、彼を「謙虚な詩篇作者 (l’umile salmista)65」と呼んでいます。さらに、ダンテは、ダビデを「王よりも上であり、また下でもあった (e più e men che re era)66」と呼んでいます。この文言にはいろいろな解釈がなされています。ダビデは、初代イスラエル王サウルを滅ぼし、さらにペリシテやユダヤ全土を併合した王国の王となり「王よりも優れた王 (più che re)」になりました。また、その反面では、前王サウルの娘ミカルから蔑まれても、神の箱を運ぶ行列の前で踊りました。ダビデは、気位の高いミカルや民衆からも下品だと思われようとも、神への奉納であるならば「下賤な(umile)」踊りでも舞う「謙虚な(umile)」「王らしくない王(meno che re)」であったのです。

 

芸術の真髄

   先に提示しました『煉獄篇』の詩行の中には、ダンテの芸術観が読み込まれています。その部分を先の平川訳ではなく、直訳にして次に示しましょう。

 

   前方に、人々の集団が現れてきた。そのすべての人たちは、七つの合唱隊に分けられていて、私の二つの感覚(聴覚と視覚)において、一方の聴覚には「いいえ、歌っていない」と(その集団は)言わせ、もう一方の視覚の方には「いや、歌っている」と言わせていた。香の煙においても同様で、その煙は、そこ(壁面)では、目と鼻が「いいえ、(煙は)出ていない」と「いや、匂いがする」と不一致になったように思われた。

〔原文解析〕

   神の箱を載せて牽く牛車と牛が刻まれた彫刻の前方には、七隊の合唱隊を形成していた集団が彫られていました。その合唱隊の歌声は、彫刻されたものなので、耳(聴覚)には聞こえませんが、目(視覚)には歌っているのが聞こえるのです。耳ではなく目によって音楽を聴かせることができるのは視覚芸術の真髄だと、ダンテは考えていたのです。また、その壁画の中には、香の煙が漂っている画像も彫られていたとダンテは想定しています。わが国の諺にある「画餅」同様に、壁に描き彫られた「煙」は、絵の外へ出ることはありません。しかし、その壁面の画煙から臭いを感じ取ることができたのです。すなわち、絵画や彫刻を、聴覚と嗅覚によって感じ取らせることが視覚芸術の奥義なのです。

   上出の引用詩の中には、もう一つダンテ固有の要素があります。それは「七つの合唱隊 (sette cori)」の存在です。世界各国で翻訳された聖書の『サムエル後書』には、「七つの合唱隊」は登場してはいません。私の知る限り、その合唱隊が登場する唯一の聖書はラテン語訳『ウルガータ(Vulgata)』です。その挿入箇所は、『サムエル後書』第6章の12から13の間です。その箇所は次のような記述になっています。(挿入部分は赤で示します。)

 

12.そして、ダビデ王は、「主が神の箱のために、オベデエドムの家とその家に所属するものすべてを祝福されている」と聞いた。だから、ダビデは行って、神の箱をオベデエドムの家からダビデの町の中へ嬉々として運び入れた。ダビデは七つの合唱隊と生贄の仔牛を携えていた

13.そして、主の箱を運ぶ者たちが六歩進んだ時、ダビデは雄牛(bos)と雄羊(aries)を生贄として捧げた。

 

その挿入箇所をラテン語の原文で下に添付します。

 

   上の挿入箇所が『神曲』の中に存在している二つの重要な意義があります。まず最初は、その詩句が存在していることにより、ダンテの愛用した聖書が『ウルガータ』であったという根拠になります。もう一つの重要な意義は、その詩節の中で「人々の集団 (gente)」という抽象的な表現に「七つの合唱隊 (sette cori)」という具体的なイメージを加味したことにより、映像が鮮明になっています。そして、芸術論を展開するためには、重要な詩句です。

 

   イスラエル王ダビデの隣には、ローマ皇帝トラヤヌスの物語が彫刻されていました。その物語を見るのは次回にしましょう。

 

このブログの主な参考文献:

チャールズ・シングルトン編注の『神曲:煉獄篇』のテキストおよび注釈書(プリンストン大学出版)です。

原文:C.S. Singleton(ed.) “Purgatorio”2:Commentary, Vol.1.Pt.2 of Dante Alighieri, The Divine Comedy, 3 vols., Princeton U.P.