『神曲』煉獄登山16.第1環道は傲慢の罪を浄化する苦行場(中篇) | この世は舞台、人生は登場

この世は舞台、人生は登場

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皇帝トラヤヌスと教皇グレゴリウスⅠ世

 

   大理石の絶壁に彫られたダビデ王の逸話の隣には、トラヤヌス皇帝の物語が展開していました。前回の「受胎告知」にまつわる彫刻の描写は12行で、ダビデ王にまつわるものは15行でしたが、今回のトラヤヌス皇帝の描写は、24行(73行目から96行目まで)の長い行数を使っています。まず、トラヤヌス描写は次のような紹介文で始められています。

 

   そこにはローマの君主の栄えある事蹟が一篇の絵巻物となっていた。その徳に動かされてグレゴリウスが偉大な勝利を与えたのだが、この人はほかならぬ皇帝トラヤヌスだった。(『煉獄篇』第10歌73~76、平川祐弘訳)

 

   その壁面には、トラヤヌス皇帝の「栄えある事蹟が一篇の絵巻物となっていました( era storiate l’alta gloria) 直訳:高き偉業が絵で描かれていた」。トラヤヌスといえば、ローマ帝国の領土を最大に拡張した皇帝として知られています。私たちがこの皇帝に関して持っている情報は、エドワード・ギボン(Edward Gibbon, 1737~1794)の歴史的著書『ローマ帝国衰亡史』(The History of the Decline and Fall of the Roman Empire)に負うところが大きいようです。ギボンは、後に「五賢帝(Five Good Emperors)」と呼ばれるようになるネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの5人の皇帝が統治した時代を「世界の歴史の中で、人類の最も幸福で最も繁栄した時代(the period in the history of the world during which the condition of the human race was most happy and prosperous)」と称賛して、次のように記述しています。

 

      世界の歴史の中で、人類の最も幸福で最も繁栄した時代を特定するように求められたら、迷うことなくドミティアヌスの死 (96年)からコモドゥスの即位 (180年)までの期間であると言うでしょう。絶大な権威のもと、高徳と英知に導かれて、ローマ帝国の広大な領地が統治されていた。軍隊は、それに続く四人の皇帝の堅固ではあるが温和な手によって制御されていた。その皇帝たちの品格と威厳は知らぬまに(臣下や民衆の)尊敬を集めていた。民政の体制は、ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌスそして(二人の)アントニヌスによって念入りに維持されていた。その皇帝たちは、自由な皇帝であるという印象を喜んで受け入れた。そして、彼らは、自らを法に責任を負う代理人であると自負していた。それらの皇帝たちは、国家を再建したという栄誉に受けるに値した。そして彼らの時代のローマ人たちは正常な自由を享受することができていた。 (エドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』第3章、筆者訳)

〔原文〕

  If a man were called to fix the period in the history of the world during which the condition of the human race was most happy and prosperous, he would, without hesitation, name that which elapsed from the death of Domitian to the accession of Commodus. The vast extent of the Roman empire was governed by absolute power, under the guidance of virtue and wisdom. The armies were restrained by the firm but gentle hand of four successive emperors, whose characters and authority commanded involuntary respect. The forms of the civil administration were carefully preserved by Nerva, Trajan, Hadrian, and the Antonines, who delighted in the image of liberty, and were pleased with considering themselves as the accountable ministers of the laws. Such princes deserved the honour of restoring the republic, had the Romans of their days been capable of enjoying a rational freedom.  (Edward Gibbon, The History of the Decline and Fall of the Roman Empire, chapter 3 )

 

 

   現代の歴史書は、科学的検証と客観的分析によって事実が記述されたものです。それゆえに、ギボンが書いたローマの歴史を真実であったと認める人はほとんどいません。イギリスの文学理論家イーグルトン(Terry Eagleton)の次の言説が、その事情をよく表しています。

 

   小説も見聞録も、事実か虚構かの区別をつけてはいなかった。事実と虚構の間に一線を画す私たちのやり方は、ここでは全く通用しない。ギボンが、自分は歴史的真実を書いていると考えていたことはまず間違いのないことだが、『創世記』の作者たちもおそらく同じように考えていたはずだ。しかるに、ギボンの著作や『創世記』は、ある人にとっては「事実」だが、ある人にとっては「虚構」である。 (イーグルトン、『文学とは何か』、大橋洋一訳)

〔原文〕

    Novels and news reports were neither clearly factual nor clearly fictional: our own sharp discriminations between these categories simply did not apply.  Gibbon no doubt thought that he was writing the historical truth, and so perhaps did the authors of Genesis, but they are now read as ‘fact’ by some and ‘fiction’ by others.   ( Terry Eagleton, Literary Theory, An Introducton, p.2)

 

   エドワード・ギボンのローマ帝国の歴史は、現代から見れば一部の人間にしかあてはまらない虚構だと言われています。科学的検証が行われていない歴史は、ファンタジーやプロパガンダの要素が大きいのです。五賢帝の時代のローマ帝国は、最大の領土を占領して、最も繁栄を極めた時代ではありました。しかし、ギボンが記述しているほど平和な時代であったかは疑問なのです。戦争奴隷の剣闘士を描いた映画『グラディエーター(Gladiator)』の舞台は、まさに五賢帝の時代のローマです。五万人収容の円形闘技場(コロッセウム)で3ヶ月間にわたって何万人もの奴隷剣闘士に戦わせて、そのために1万人以上の奴隷が犠牲になったのも、その五賢帝の時代でした。まさしく、ローマ市民にとっては「もっとも幸福でもっとも繁栄した(most happy and prosperous)」時代ではあったかも知れませんが、征服された側の国民には悲惨な時代であったのです。

 

マキャヴェッリ

五賢帝の時代を美化する史観は、ギボンによる独創的な発想ではありません。すでに、イタリアの政治思想家ニッコロ・マキャヴェッリ(Niccolò Machiavelli, 1469~1527)が、五賢帝について次のように述べています。

 

   ティトゥスやネルウァやトラヤヌスやハドリアヌスやアントニヌスやマルクスにとって、近衛の兵たちも皇帝を護るための大軍団も必要ではなかった。なぜならば、その皇帝たちの平素の行状も、民衆から受ける親愛も、元老院からの信頼も、その皇帝たちを護っていたからである。 ・ ・ ・ ・  ・  ・

 ・ ・ ・ 遺伝によって(父から実子へ)皇帝職を継いだ皇帝は、ティトゥス以外は劣っていた。いっぽうで、養子縁組によって後を継いだ皇帝は、全員が優れていた。ちょうど、ネルウァからマルクスまでの五人の皇帝がそうであった。すなわち、帝国は、息子が継ぐと失敗に終わって崩壊を繰り返したのだ。 (マキャヴェッリ『ティトゥス・リウィウスの初篇十章にもとづく論考』第1巻10、筆者訳)

〔原文〕

   歴代のローマ皇帝の中で、俗に言う「畳の上で死ぬ」安らかな往生を遂げた人物は極めて少ないようです。それも、戦死なら未だしも、腹心の部下である親衛隊によって暗殺された皇帝が非常に多いことには驚かされます。それに引き替え、五賢帝は、全員が仁愛の徳を備えていて、部下からも民衆から慕われていたので、病気や老衰によって、一応「畳の上で死ぬ」最期を遂げています。そしてさらに、マキャヴェッリが指摘しているように、その五人の皇帝の共通点は、全員が養子縁組によって前帝と親子関係を結んでいたことです。

 

 

教皇が皇帝に与えた偉大な勝利

   少し脇道に逸れましたが本題に戻り、グレゴリウス教皇がトラヤヌス皇帝に与えた「偉大なる勝利 (gran vittoria)75」とは何か、という問題を考察しましょう。

   この『煉獄篇』の箇所では、「栄えある事績 (alta gloria)73」に関しては、その歌段の76行目から96行目までの21行に渡って具体的に物語られていますので、後ほど見ることにします。しかし、その「勝利」が何を意味するのかは、この段階ではまだ具体的に説明されてはいません。その理由の一つは、その「勝利」が中世時代には広く民衆に信じられていた聖人伝説になっていて、『神曲』の読者に説明を必要とはしていなかったからでしょう。

 

智者たちの地獄リンボ(辺獄)

   『神曲』の『地獄篇』第4歌に描かれていた「辺獄」では、キリスト教の洗礼を受けていないというだけの理由でそこに閉じ込められている高潔な霊魂たちの姿が見られました。アリストテレスとホメロスを筆頭に、ギリシア・ローマの名だたる哲人や詩人たちがその「智者の地獄」に閉じ込められていました。しかし、その地獄から救い出された賢者たちがいます。それは、ノアやモーセなどの旧約聖書の聖人たちです。イエス・キリストは、十字架による死から三日後に復活して天国に帰りますが、その間に(おそらく二日目に)地獄に降りて聖人たちを救出しました。それを「キリストの地獄下降 (Descensus Christi ad Inferos:英語ではHarrowing of Hell)」と呼んでいます。

   「辺獄」には拷問などの過激な刑罰はありませんが、やはり地獄の一区画であることには変わりはありません。すなわち、ひとたび三途の川アケロンを渡ったら最後、「永劫の呵責 (etterno dolore)」を受けて、脱出するこのできない「永劫の場所 (loco etterno)」に閉じ込められるのです。ただ唯一の例外は、キリストの地獄下降による聖人たちの救出だけでした。ところが、中世時代に新しい救出法が考案されました。その実例の一つが、教皇グレゴリウス1世によるローマ皇帝トラヤヌスの地獄からの救出でした。ダンテの言うグレゴリウスがトラヤヌスに与えた「偉大な勝利」とは、その地獄からの救出を指しています。

   トラヤヌスの敬虔で謙譲な言行に感銘を受けたグレゴリウスが祈祷によってその皇帝を地獄から救い出したという伝説が、中世時代には広く流布していました。キリスト以前の情報、とくに古典ギリシア・ローマの情報が氾濫するにつれて、優秀な人間でもいったん地獄に落ちたら抜け出ることができない、という教義に矛盾を感じる識者も増えてきたはずです。たとえば、ダンテもローマの政治家カトーに煉獄の管理人としての役割を与えています。中世キリスト教の教義の基盤になっていたアリストテレスでさえ辺獄に閉じ込められているのに、カトーは煉獄の入口にいて、霊魂たちが「あなたの管理・監督のもとで罪を浄める (purgan sé sotto la tua balìa)煉獄篇第1歌66」のを指導する役割を担っています。ダンテがカトーに関する情報を得たのはルカヌスの叙事詩『内乱:パルサリア(De Bello Civili sive Pharsalia)』であることは疑う余地はないでしょう。しかし、カトーを辺獄から出すことをダンテに決心させたのは、トマス・アクィナスの次の言説だったかも知れません。

 

   しかし、信仰を持たないすべての人々が不敬な作品を書くというのか?その答は「いや、そうではない」である。なぜならば、異教徒でも多くの者が徳に従って行動してきたからである。カトーもその他の者も(その様に行動してきたと)評価しなさい。(トマス・アクィナス『ヨハネ福音書注解』第3巻3-5、筆者直訳)

〔ラテン語原文〕

 

   中世キリスト教教義を牽引していたトマス・アクィナスが「異教徒でも多くの者が徳に従って行動してきた ( multi gentiles secundum virtutem operati sunt) 」とキリスト教徒以外の救済を認めているのです。おそらく、グレゴリウス教皇によるトラヤヌス皇帝の救済伝説も、その延長線上で作られたものだと推測できます。

 

伝説に関係した人物(年代順)

 

   ローマ教皇の権限によって行われる制度には「列聖 (Canonizatio: 英語 Canonization)」があります。それは、キリスト教のために偉大な貢献をした信者を、時の教皇の名のもとに、「聖人 (Sanctus: 英語Saint)」として、死後に認定する制度のことです。それらの認定者はもともとキリスト教の信者なので、トラヤヌスのような異教徒を地獄から救い出すのとは次元の異なる問題です。実のところ、グレゴリウス教皇の祈祷によってトラヤヌスがどの様な救われ方をしたのかは、諸説があるようです。その中で最も広く知られている説話は、トラヤヌス皇帝の善行を評価したグレゴリウス教皇が、先ず祈祷によってその皇帝を地獄(おそらく辺獄)から現世によみがえらせてから、キリスト教徒に回心(conversion)させて天国へ昇天させた、という筋書きです。ダンテもその所説に従っています。トラヤヌスの「偉大な勝利」が何を指しているのかは『煉獄篇』の中の描写だけでは分かりません。私たち読者は『天国篇』の中の第六天「木星天」に辿り着いた時に、その勝利の光景を目撃することになります。その箇所では、生前に正義を愛した魂たちが鷲の形を形成していました。そして、その目の部分の眉を形作っていた五人の賢王の中にトラヤヌスがいて、次のように紹介されています。

 

   こちら側の甘美な命(いのち)と反対側の命の体験によってキリストに従わないことが、どれだけ大きな代償を払うことであるか、いま彼(トラヤヌス)は思い知っている。  (『天国篇』第20歌46~48、筆者訳)

〔原文解析〕

 

   鷲の眉を形づくっている五人の偉人は、トラヤヌス、ヒゼキヤ、コンスタンティヌス、グリエルモ、リペウス(登場順)です。トラヤヌスとリペウスを除いた三人はキリスト教徒なので問題はありません。しかし、異教徒の賢者を天国へ昇天させるにはキリスト教の教義から逸脱した理論を組み立てる必要があります。キリスト教徒であるというだけの理由で悪人が救われ、異教徒であるというだけの理由で善人が救われないという教義に対して、ダンテは大いに疑問を感じていたことは明らかで、その難問を解決するために苦心しました。その結果、ダンテは、トラヤヌスのような異教徒を天国に上げる一方で、ローマ・カトリックの頂点に君臨したニコラウス3世やボニファティウス8世などの教皇でさえも地獄に落としています。

   トラヤヌスは、「こちら側の甘美ないのち (questa dolce vita)」すなわち「天国での生活」と、「反対側のいのち (opposta vita)」すなわち「地獄での生活」の両方を体験したと考えられています。その具体的体験談は、同じく『天国篇』で、次のように語られています。

 

   (トラヤヌスは)善意の二度と訪れることのない地獄から、骨をつけた人間となって戻ったが、これこそ熾烈な望みのおかげなのだ。熱烈な望みが、神にたいしてなされる祈りに力をこめる。それで魂が甦り、意志が〔善意に向かい〕発動することを得るのだ。いま話にのせた、誉れある魂は、肉体に復したが、そこに長くはいなかった、彼を助けうる方を信じたからだ。そして信じつつ真実の愛に激しく燃えたから、再度の死に際しては、この悦びの国へ来るにふさわしくなった。  (『天国篇』第20歌106~117、平川祐弘訳)

 

   地獄(たぶん辺獄)にいたトラヤヌスが教皇グレゴリウスⅠ世の祈りによって、一度肉体をつけてこの世に再生して、キリスト教に回心したのち、ふたたび死んで天国(第六天)に昇天する、という伝説はかなり古くから流布していたようです。この余りにも突飛な物語に対してトマス・アクィナスは、修正を加えるべきだと考えていたかも知れません。その神学者は、次のように述べています。

 

   トラヤヌスの出来事についておそらく次のように推測できる。彼は、福者グレゴリウスの祈りによって永遠の命の方へと呼び戻されたであろう。そして、そのように、彼は恩寵を獲得した。その(恩寵の)おかげで、彼は赦免された結果、刑罰からの免除を受けた。 ・ ・ ・

   ある人によれば、次のように言われている。トラヤヌスの霊魂は永遠の刑罰を受ける罪人の立場から解放されてはいなかった。彼の刑罰は、ある時まで停止させられているのだ。すなわち、最後の審判の日までである。 (トマス・アクィナス『神学大全』第3部71、筆者訳)

〔原文解析〕

 

   上記の論述を読む限り、トマス・アクィナスはトラヤヌスの天国昇天話には否定的だったと推測できます。アクィナスは、スコラ哲学者らしく、科学的根拠に乏しいトラヤヌスの民間伝説の敷衍解釈を抑制して、その皇帝は「刑罰の免除 (immunitas poena)」を受けているだけで、天国には昇っていないと述べているのです。確かに、アリストテレスやプラトンやソクラテスでさえも住むことができない天国に、同じ異教徒の皇帝が住むことは矛盾があります。やはり、民衆好みのおとぎ話の世界であって、宗教哲学が扱う分野ではないでしょう。

   トマス・アクィナスの否定的な意見にもかかわらず、「トラヤヌス復活伝説」は民衆の間では人気があったようです。それゆえに、その説話は、1265年頃に、ヤコブス・デ・ウォラギネ(Jacobus de Voragine、1230~1298)によって書かれた『黄金伝説 (Legenda Aurea)』第46章「聖グレゴリウス」の中に収められています。グレゴリウス教皇がトラヤヌス皇帝のために執り成しの祈祷 (suffragia)を実際に行ったどうかは疑問ですが、最も優れた教皇と最も優れた皇帝を結びつけて物語を作ることは、民間伝説にはあり得ることです。

 

トラヤヌス皇帝の時代のキリスト教

   正義を象徴する木星天の中で、鷲の眉を形作っていた五人の霊魂の中に、キリスト教を公認した最初の皇帝だと信じられていたコンスタンティヌスⅠ世が配置されているのは誰もが納得するところです。ところが、トラヤヌスは、キリストの世紀に誕生して皇帝位に就いてはいましたが、キリスト教を信じない異教徒でした。トラヤヌス治世下のローマ帝国は最大の領土に拡大していましたが、キリスト教自体は辺境の地で産声を上げたばかりでした。初期のキリスト教は文字で書かれた教典(聖書)など持たない使徒たちによる口承伝承の時代でした。最初に文字で書かれた教典は『マルコ福音書』だといわれていて、キリストの死(30年頃)後、さらに20年から30年たった西暦55年前後だと推測されています。ウェスパシアヌス皇帝の時代に勃発した「ユダヤ戦争」も収束に向かったものの、ハドリアヌス皇帝の時代に再び不穏な動きがおこりました。それゆえに、トラヤヌスの関心はユダヤ国に向いていたことは確かです。しかし、その国の一隅で、教典も持たず、セム語系の方言アラム語を使って口承伝承だけで増殖しつつあるキリスト教のことなど、トラヤヌスの意識にはなかったに違いありません。そのような、異教徒の皇帝を聖人にまで祭り上げている中世時代の「トラヤヌス伝説」は少し異常なことだと言わざるをえません。

 

 

大衆迎合的な物語

   『神曲』の世界は、超現実・超自然の世界ですが、そこに描かれている事象は理論的に解釈することのできる世界でもあります。イエス・キリスト自らが地獄へ下降して、信者たちを悪魔から取り返すという設定の説話ならば、超自然的な世界ですが神学的にも理論的にも認めることができます。むしろ、ノアやモーセやダビデなどの旧約聖書の聖者たちが、いまだに辺獄に閉じ込められていると想像する方が矛盾を感じることでしょう。しかし、教皇による皇帝救出劇には、宗教哲学の専門家たちを納得させることは難しいかも知れません。いっぽう、異教徒でも正しい行いをすれば救われるという物語は、民衆には受け入れられやすい、すなわち「大衆迎合(ポピュリズム)的な筋書きです。おそらく、当時の一般大衆は感銘を受けたに違いありません。詩人(物語の作り手)であるダンテも、その伝説に対して大いに興味を示していたので、そのトラヤヌスの「深い謙譲 (tanta umilitadi)」を表す逸話を、次のように長い詩行を使って描いています。(注:umilitadiの現代伊語は umilta)

 

   皇帝の周囲には騎士たちが堂々と隊伍を組んで行進し、皇帝の頭上には金色の鷲が風にのって燦然とまっていた。

   こうした人たちの中で哀れな女が頼んでいた、「陛下、死んだ息子の讐(かたき)を打ってくださいませ、身も心も引き裂かれる思いでございます」。皇帝が答えた、「私が期間する日まで待つがいい」「でも陛下」と老婆は苦悩に焦慮する人のようにいった、「もし陛下がお帰りあそばしませぬと?」「私の代理の者がしてくれるだろう」すると老婆が、「御自分で善を施すことをお忘れになりましたら、他人の善行があなた様のなんの功徳になりましょうか?」そこで皇帝が答えた、「そうか、では安心するがよい、いま出発の前に私は自分の義務を果たすとしよう、正義の求めだ、慈悲の情が私をひきとめる」 (『煉獄篇』第10歌77~93、平川祐弘訳)

 

   「哀れな女」(原文はvedovellaなので「か細い未亡人」)が、出陣する皇帝の馬前に進み出て息子の仇を討って欲しいと訴えます。その哀れな女に対して即座に応じるトラヤヌス皇帝の謙譲の精神と慈悲の心を讃えた逸話です。異教徒を永遠の苦悩の場所である地獄から連れ出して天国へ昇天させるというキリスト教の禁忌を犯すという壮大な物語にしては、世俗的なエピソードではないかと思われます。

 

   謙譲の精神の模範となる「マリアの受胎告知の物語」、「モーセが造った聖所の箱をイスラエルに運ぶダビデ王の物語」、そして「グレゴリウスによるトラヤヌス救済の物語」を描いた三つの彫刻を見ながら、ダンテのウェルギリウスは進みました。そして、煉獄の美術館と呼ぶに相応しい絶壁を抜けると、前方から大勢の霊魂たちが異様な姿勢をして近付いてきました。高慢の罪を浄めている霊たちでした。

 

 

 

このブログの主な参考文献:

チャールズ・シングルトン編注の『神曲:煉獄篇』のテキストおよび注釈書(プリンストン大学出版)です。

原文:C.S. Singleton(ed.) “Purgatorio”2:Commentary, Vol.1.Pt.2 of Dante Alighieri, The Divine Comedy, 3 vols., Princeton U.P.