『神曲』煉獄登山17.第1環道は傲慢の罪を浄化する苦行場(後編) | この世は舞台、人生は登場

この世は舞台、人生は登場

ブログの説明を入力します。

「煉獄第1環道の様子」フェラーラの細密画(ヴァティカン図書館所蔵)

 

ダンテが言いました。

「先生、私たちの方に動いてくるものを見ているのですが、どうも人間とは見えません、見ても正体がつかめず、何か見当がつかないのです。」

先達ウェルギリウスが答えました。

 「重い刑罪のために、みんな地面まで腰が曲がっているのだ、私もそれで最初はわれとわが眼を疑った。だがしっかりとあそこを見すえ、あの岩を背に負って近づいてくるものをよく識別してみろ、〔後悔して〕胸を叩いているさまが見えるはずだ。」

(『煉獄篇』第10歌112~120、本文の部分は平川祐弘訳)

 

   煉獄の第1環道では、傲慢の罪を浄化する霊たちが岩石を背負って近づいて来ました。その格好は次のように喩えられています。

 

   パルコンや屋根を支える柱のかわりに膝を胸につけて蹲(しゃが)んでいる彫像を、時たま見かけることがある、本物ではないのだけれども見ていると本当に嫌な気がする。私が見た人々は、よく注意してみると、まさにそうした格好をしていた。(『煉獄篇』第10歌130~135、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔筆者による直訳〕

   天上や屋根を支えるための支柱用として、両膝を胸に密着させている人物の彫像が、ときどき目にすることがある。その彫像は、それを見る人の中に、本当でないことから本当の苦痛を発生させている。よく注意を向けると、あの者たちがまさにその格好にさせられているように、私には見える。

 

   天井や屋根を支える柱に人物の彫像が使われているのを、しばしば目にします。とくに、中世時代には好んで使われたと言われています。膝と胸を密着させて見る者を不快にさせる人物像を描くために、ダンテが思い浮かべた心像は、1100年ごろに、バーリのサン・ニコラ大聖堂のエリア司教のために創られた司教座 (Cattedra, 英語:Cathedra)であろうと言われています。(下図参照)

 

   ルネサンスに入りギリシア神話が普及すると、天井を支える柱の彫像は天空を支える「アトラス」の役割になってきました。(下図参照)

背負う石の重量

 

   煉獄第1環道で浄罪をする霊魂たちが背負う岩石の大きさと重さは、ひとりひとり異なっていて、生前に犯した傲慢の罪の重さに比例していました。そして、霊魂たちの背中の曲がり具合も次のように異なっていました。

 

   「背に負った荷の多少で、腰の曲り具合にも事実多少の差はあった (『煉獄篇』第10歌136~137、平川訳)

〔原文解析〕

(筆者による直訳)

彼らは、より大きなもの(石)からより小さいもの(石)を背負うに比例して、より大きいもの(身体)からより小さいもの(身体)に縮小されていた。

 

   そして、そこで最初に出会ったオンベルトと名乗る霊魂が、岩を背負っている理由を次のように説明しています。

 

   私は、私の傲慢な頭の高さを矯(た)めるこの岩のために、顔を伏せていなければならないが、もしそうした邪魔さえなかったならば、その生きている、まだ名をいわぬ人を、是非一目見たい。(『煉獄篇』第11歌52~56、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

(筆者による直訳)

   そして、もし私の傲慢なうなじを従順にさせたところの岩石によって邪魔されていなかったならば、―― そのために視線を下の方へ向けたままにしなければならないのだが―― まだいま現に生きていて、名前を知らないこの人(ダンテ)を、見てみたい。

 

       さらに、オンベルトは、煉獄の存在理由とその役割について重要な証言を次のようにしています。

 

   だからここで私はその償いにこの重荷を、神さまの得心がゆくまで、ここの死者の間で背負わねばならない。生者の間でなにもしなかった罰だ。 (『煉獄篇』第11歌70~72、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

(筆者による直訳)

   そしてここで、私はその(高慢の)ために、十分に神に返済し終えるまで、この錘(おもり)を運ばなければならない。生きている間に返済することができなかったために、ここ(煉獄)で死者たちの間で(返済)するために(運ばなければならない)。

 

   「煉獄」という神学的場所では、神から受けた恩の中の返し足りなかった部分を煉獄に来てから返すことになります。それゆえに、神へ返す恩が多く残っている者は、その分だけ長く強くそして重く苦悩に耐えることになるのです。ダンテの煉獄概念は、トマス・アクィナスによるものであろうと考えられています。アクィナスは、煉獄について次のように言っています。

 

   煉獄で受ける懲罰は、肉体をまとって生きている時に十分に成就されなかった本懐(の足りなかった部分)を補足するためのものです。(トマス・アクィナス『神学大全』第3部71、筆者訳)

〔原文解析〕

   煉獄にいる霊魂たちは、全員が救われた者たちです。前回の私のブログで取り上げた「教皇グレゴリウスⅠ世による皇帝トラヤヌスの地獄からの救出」は例外として、地獄へ落ちた者は、永遠にそこから出ることはなく、永遠に同じ懲罰を受け続けます。

 

アルドブランデスコ家のオンベルト

   煉獄の第1環道に足を踏み入れて最初に出会った霊魂は、オンベルト・アルドブランデスコ(Omberto Aldobrandesco)でした。彼は、「私はイタリア人で偉大なトスカナ人から生まれた、グイリエルモ・アルドブランデスコが私の父上だ (Io fui latino e nato d’un gran Tosco: Guiglielmo Aldobrandesco fu mio padre) 煉獄篇11歌58~59」と名乗りました。オンベルトは、グイリエルモの二男として生まれ、アルドブランデスコ家が領有する多くの領土の一つで堅固な城塞を備えたカンパニャーティコの城主になりました。

 

アルドブランデスコ家に関係する地図

 

   現代のトスカーナはフィレンツェを州都としてピサやシエーナという伝統ある古都市を含むイタリア中部の州(regiome)のことです。しかし、ダンテの時代にはまだ、それぞれの都市が共和国として独立していました。そしてその独立都市は、神聖ローマ皇帝に従う皇帝党(ギベリーニ:Ghibellini)とローマ教皇に従う教皇党(グェルフィ:Guelfi)に分かれ、激しく対立していました。両陣営の間には血で血を洗う抗争が続き、残忍な出来事も多く発生しましたので、その関係者と関連事件の多くは、『地獄篇』の中で取り扱われていました。

   ダンテの時代のフィレンツェは教皇派の支配する国家でした。それに対立する皇帝派の牙城はシエナでした。オンベルトの父グイリエルモは、シエナ・マレンマ地方の中のサンタフィオーレを領地とする有力な君主でした。それゆえに、アルドブランデスコ家は、もともとはシエナ同盟の中で皇帝派領主でしたが、その信条を放棄してフィレンツェ同盟に加わり教皇派に転向しました。それ以後、アルドブランデスコ家とシエナ国との間には戦時状態にありました。そして、彼の息子オンベルトにも討伐軍が差し向けられて、1259年に戦死したといわれています。

   オンベルトの人物像については、ダンテの次の世代の歴史学者ベンヴェヌート(Benvenuto da Imola、1320?~1388)が、彼の著書「ダンテ・アリギエリィの『神曲』についての注解(Comentum super Dantis Aligherii comoediam)」の中で、「オンベルトは、活動的で大いに勇気のある青年 (juvenis strenuous et animosus valde) で、彼の敵を討伐するために出陣しましたが、彼の城塞の一つカンパニャーティコ城近くの戦場で命を落とした」と記載しています。因みに、オンベルトの死の翌年に教皇派と皇帝派との間に起こった大戦「モンタペルティの戦い」については、「『神曲』地獄巡り49」の「モンタペルティの戦いとボッカの裏切り」の箇所を参照してください。

   以上のオンベルトに関する情報を見たところで、ダンテがその人物にさせている自己紹介文を見てみましょう。

 

   私はイタリア人でトスカーナの大物の息子だ、グイリエルモ・アルドブランデスコが私の父だ、その名を聞いたことが君にあるかどうか知らないが。私の祖先の由緒ある血統と先祖の立派な事業とが私を傲慢にした。それで人間は皆同じ母の出だということを考えずに、世間の人々をひどく軽視したから、それが原因で死んだ。その死様はシエーナの人が知っている、カンパニャーティコでは童までがみな知っている。私はオンベルトだ、高慢のために災いを蒙ったのは私だけではない、私の一族はみなそのために酷い目にあっている。(『煉獄篇』第11歌58~69、平川祐弘訳)

 

   アルドブランデスコ家は、9世紀からマレンマ地方に勢力を広げた名門家で、いくつもの城を保有していたが、オンベルトの死と共にほとんど消滅した、とベンヴェヌート記述しています。しかし、『神曲』の登場人物の多くがそうであるように、オンベルトに関しても詳しい経歴が判明しているわけではありません。ダンテが彼の作品の中で叙述しているので、ベンヴェヌートはそれを基にして調査しているのです。それゆえに、科学的分析がなされたわけではないので、ダンテがオンベルトに言わせている「私の先祖の立派な事業 (l’opere leggiadre d’i miei maggioi) 61~62」とは何のことかは、具合的には判明してはいないようです。「傲慢・高慢」は諸悪の根源ではあっても、その罪だけで地獄行きはありません。傲慢によって罪を犯してはじめて、その罪によって地獄落ちが決定されるのです。もし、オンベルトが「暴力」によって他国の領土を奪略したのであれば、地獄の第7圏谷第3円の「他人への暴力」を犯した罪人の中に加えてられていたことでしょう。ダンテは、辺獄にいても不思議のないアレクサンドロス大王でさえもその地獄に入れているのです。それゆえに、オンベルトを地獄ではなく煉獄に入れたことは、彼に対するダンテの個人的な思い入れがあったかも知れませんが、それが何かは解明されていません。

 

地獄と煉獄の罪の比較

 

細密画とは

   私のブログでも、説明を分かりやすくするために利用した挿絵の多くは、「細密画」と呼ばれる絵画の一種でした。イタリア語では「ミニアトゥーラ(miniatura)」、英語では「ミニアチュア(miniature)」、フランス語では発音だけが異なって「ミニアチュール」と呼んでいます。語源はラテン語の「朱塗りにする」を意味する動詞「ミニアーレ(miniare)」であろうと言われています。そして、表記法として最も近似する未来分詞「ミニアトゥールス(miniaturus)」の「朱塗りにしようとする物」という意味か、または意味として最適である完了分詞「ミニアートゥス(miniatus)」の「朱塗りにされた物」という意味でしょう。おそらく、古代や中世初期において写本を作るとき、その中に説明や装飾のために赤色で挿絵を描き込んだことに由来していると言われています。後になって、いろいろな色を使った挿絵を添付するようになってきましたので、「彩色を挿入した写本(illuminated manuscript)」と呼ぶようにもなりました。では、ダンテはその「細密画」をどの様に呼んでいるかと言いますと、煉獄で出会ったオデリージのことを呼ぶ箇所で「アッルミナール(alluminar)」という言葉を、次のように使っています。

(筆者による直訳)「アゴッビオの誉れ、パリでは細密画とよばれている芸術の誉れ

 

   フランス語の〈enluminer: アンルミネ〉の〈en-〉は鼻母音といって鼻で発音します。ところが、イタリア語にはそれに類した発音がなく、またイタリア人は、その発音ができません。ダンテも「アンルミネ」の発音ができなかったので「アッルミナール(alluminar」と彼独自の方法で変形させて使ったと言われています。

   ちなみに、上述のように「細密画」のことは、「アッルミナール」と言っていますが、チマブーエとジョットが制作するような「絵画」のことは、「ピッツーラpittura94」と呼んでいます。

 

細密画家オデリージ

   前出のオンベルトと同様に、オデリージもまたその実像はほとんど知られていません。オデリージが有名な画家であったのでダンテが煉獄の登場人物に選んだのではなく、ダンテが主役級の登場人物に選んだのでオデリージが有名になったのです。後世の学者がダンテの描いたオデリージを追跡調査しても、時すでに遅く、資料は消散していて解明が困難な状態になっていたことでしょう。ダンテが『煉獄篇』の中でオデリージのことを明言しているので、彼は「アゴッビオの出身の細密画家」であると信じられているだけです。そして、ダンテから二百年以上も経ってから、ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari, 1511~1574)が、彼の伝記書『画家・彫刻家・建築家列伝(Le Vite de' più eccellenti pittori, scultori, e architettori:英文 The Lives of the Most Excellent Painters, Sculptors, and Architects)』中で、オデリージについて記述しています。それも、ジョットに関する記事『ジョット伝』の中で触れているだけです。その記事に関しては平川祐弘先生が、御自分の翻訳本の「訳注」で、ほとんど全文を載せています。少し長いのですが、平川訳のその箇所を紹介しましょう。

 

   当時ローマにはジョットの親友で、オデリージ・ダ・グッビオという優秀な細密画家いた。彼は法王から命ぜられて法王庁の図書館の多くの書物に細密画の挿絵を描いた人である。その細密画の多くは時の経過とともに失われたが、それでも私の古デッサンのコレクションには彼の手になる作品がいくつかあり、それを見るとたしかにオデリージが有能な人であったことがわかるのである。しかし彼よりさらに秀れた細密画家はボローニャの人フランコだった。彼は同じころ同じ法王のために同じ図書館の写本に挿絵を描いたが、その技術はなかなか見事なもので、前記の私のコレクションにある彼の手になる絵や細密画のデッサンを見ると、そのことが首肯される。そのなかには秀逸な鷲やすばらしい樹を打ち砕く獅子の図なども含まれている。この二人の秀れた細密画家についてはダンテの『神曲』に言及がある。(平川祐弘訳『神曲』河出書房新社版、303頁)

 

   その後の研究で明らかになったことは、オデリージは1240年ごろに、グイド・ダ・グッビオの息子として生まれ、1268年と269年と1271年にはボローニャに住んでいた形跡があるということです。その滞在の目的は、ランベルタッチ家の者から委託を受けて、そこが所有していた「交誦聖歌集(アンティフォナリオ:antifonario)の80頁ほどに細密画を描くためでした。その後は、1295年にローマに来て、1299年(または1300年)にその都で亡くなりました。おそらく、法王(教皇)ボニファティウス8世に依頼されて細密画を制作したのは、その時期のことでしょう。また、『煉獄篇』の「おお、君はオデリージ君ではないか ( Oh! non se’ tu Oderisi)79」という呼び掛けの言葉から、ダンテとその細密画家とは顔見知りであったと推測されています。オデリージがローマにやって来た時期は、ダンテもフィレンツェの行政に携わっていて(1300年に行政長官Prioreに選出)、ローマには足を運んでいたので、その両者の間に親交があったとしても不思議ではありません。

 

オデリージが第1環道にいる理由

   オデリージは、高慢だったにも関わらず煉獄に来ることができた理由を、次のように告白しています。

 

   (私、オデリージよりも)ボローニャのフランコが筆で描いた絵の方がずっと光っている。いま誉れはすべて彼のものだ。僕はもう二流だ。生前は首位を狙う野心と欲望とに燃えていたから、こんな丁寧な口を利いたことはなかった。そうした高慢の償いをいまここで支払っている。それでも罪を犯しうる間に神に向かったから助かった、さもなけばまだここにも来ていなかっただろう。(『煉獄篇』第11歌82~90、平川祐弘訳)

 

   オデリージが「ボローニャのフランコが筆で描いた絵の方がずっと光っている(『煉獄篇』11歌82~83)」の詩句の中の「」と訳されている言葉の原文は〈le carte〉です(下に添付した「原文解析」を参照)。そのイタリア語の単語はもともと「書物」とか「」という意味なので、その「絵」は、「細密画」のことだと解釈できます。それゆえに、フランコはオデリージと同様に細密画家であったと解釈するのが自然です。

 

   一方、チマブーエとジオットの箇所では、「チマブーエが絵画の陣地で占拠していたが、今はジオットが名声を博している(『煉獄篇』11歌94~95)」と表現しています(下に添付した「原文解析」を参照)。それゆえに、この両者が活躍したのは「絵画」の分野でした。チマブーエ(1240頃~1302)とジオット(1267~1337)の間には師弟関係が存在していて、彼らが創作した作品は、ほとんどが壁画などの大作でした。そして、オデリージとフランコの細密画は消失しているのに対して、チマブーエの作品もジオットの作品も数多く現存しています。また、ジオットとダンテの間には親交があって、彼が描いた「ダンテの肖像画」は有名です。

 

 

 

   ダンテは、オデリージから「盛者必衰のことわり」についての話を聞くことになります。次回のブログで西洋版「祗園精舎の鐘」を聞くことにしましょう。

 

このブログの主な参考文献:

チャールズ・シングルトン編注の『神曲:煉獄篇』のテキストおよび注釈書(プリンストン大学出版)です。

原文:C.S. Singleton(ed.) “Purgatorio”2:Commentary, Vol.1.Pt.2 of Dante Alighieri, The Divine Comedy, 3 vols., Princeton U.P.