『神曲』地獄巡り28.第8圏谷第4ボルジャの通過時刻 | この世は舞台、人生は登場

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 『神曲』の物語の所々で、その場所を通過する時刻を明示または暗示する描写が挿入されています。第8圏谷の第4ボルジャを出る時も、次のように現在時刻を表しています。

 カインとその茨〔月〕が両半球の境界〔地平線〕に位置し、セビリアのかなたで波にふれている。それに過ぎた昨夜は満月だった、深い森の中でおまえは一度ならずそのおかげをこうむったのだから、よく憶えているはずだ。(『地獄篇』第20歌124~129、平川祐弘訳)


カインとその茨(Caino e le spine)


 昔から日本人は、満月の斑点模様の中に杵をつく兎の姿を見てきましたが、古代の西洋人は、茨を背負ったカインの姿を見ていました。そのカインといえば、旧約聖書(『創世記』4)に登場するアダムとイヴの長男で、神が自分の供えた穀物よりも弟アベルが供えた羊のほうを好んだので、嫉妬して弟を殺害した人物です。とくにイタリアの伝承では、カインが弟殺しの罪のために茨の束を背負わされて、神によって月の中に閉じ込められていると言われていました。


日本人が満月の中に描く映像
月の中に描くうさぎ

古代西洋人が月の中に見た映像
月に描く茨を背負うカイン


なぜ、月には斑点があるのか?


 まだこの先、これまでよりも恐ろしい地獄が続きますが、その恐怖を抜けると煉獄山の麓に辿り着きます。そしてその山を登りきるとエデンの楽園に到着します。そこでダンテは、しばしの憩いのひとときを過ごした後、いよいよ案内役をウェルギリウスからバトンタッチされたベアトリーチェに先導されて天国へ向けて出立します。まず最初に訪れる天国は月光天です。『天国篇』に登場するベアトリーチェは、あるときは哲学者、あるときは宗教家、またあるときは自然科学者になります。そして月光天のベアトリーチェは物理学者となって、ダンテの疑問に答えます。その天国で、ダンテは、その淑女(Madonna、その他の箇所ではmia Donnaと呼び掛けます)に、月の斑点について次のような疑問を投げかけます。


 教えてください、この物体の斑点は何なのでしょうか?これについては下界の地球では、カインの物語などが人々の口に上がっておりますが?(『天国篇』第2歌49~51、平川祐弘訳)


 ダンテの質問に対して、ベアトリーチェは、「まずおまえ自身の考えを述べてみなさい」と要求しました。そこでダンテは、「ここでさまざまの濃淡がみえるのは物体の粗密のせいかと思われます」と答えました。登場人物としての巡礼者ダンテの考えを絵図にすれば下のようになるでしょう。

形相と質料による月の斑点

ダンテの意見に対して物理学者ベアトリーチェは、次のように反駁しました。

 もし密度の稀薄がいま問題となっている黒点の原因であるとすると、この天体には、あるいは一部分に物質が不足するとか、あるいは脂身と白身とからできた身体のように、その厚みの中に異なる層を含むとかいうことになるでしょう。もし第一の場合であると仮定すると、日蝕の際に明瞭になるわけで、日の光が月の稀薄な部分を通して、薄物をすかした時のように、すけて見えるはずです。しかし実際はそうはなりません。(『天国篇』第2歌73~82、平川祐弘訳)

 上の詩文に使われている理論は、アリストテレスの形相(エイドス)と質料(ヒュレー)の自然科学です。誤解を恐れずに簡単に定義すれば、形相とは物質を囲い込んで形にするもので、質料とは形の中に納まって実体をつくるもの、と言うことができます。それゆえに、第1(純粋)質料は形のない物質だけのもので、アリストテレスは、それに火、空気、水、土の四大元素を想定していました。そして第1(純粋)形相は、形だけが存在して質料のないもので、その最高位のものとして「神」を想定されております。ダンテのいう「物体の粗密(i corpi rari e densi)60」とは、アリステレス哲学でいう質料の強い部分と形相の強い部分のことだと考えることができます。そして光は、質料の強い箇所は通過できずに「暗い斑点(segni bui)」となって見えます。一方、形相が強くればなるほど、光が通過し易いので、その月面は明るく見えるということになります。


月は太陽の光を反射して輝く

 一方ベアトリーチェは、その巡礼者ダンテの「説を間違いである(falsificato fia lo tuo parere)84」と否定します。彼女は日蝕の時に月全体が黒く見える事例を出して、月が太陽光線を遮断する物質で形成されている証拠とします。そして、太陽光線は月を通過するのではなく、月面が太陽光線を反射して明暗を作っていると主張します。そしてそれを証明するために、次のように話を続けています。


 表から裏まで稀薄な物質だけではないとすると、途中に境界があり、そこで逆の稠密な物質が太陽光線の通過を阻むということになります。そこで太陽光線が反射するわけで、それはちょうど裏に鉛を引いた鏡に色が映るような具合になりましょう。するとおまえは、場所によって光に濃淡が生ずる理由を、反射点の位置の遠近のせいにするかもしれません。しかしこの種の主張は、おまえにためす気さえあるなら、実験でその呪縛を解くことができるでしょう。実験こそ人間の学芸の流れの変わらぬ泉なのです。
(『天国篇』第2歌85~96、平川祐弘訳)

 上の詩文の「するとおまえは、場所によって光に濃淡が生ずる理由を、反射点の位置の遠近のせいにするかもしれません」の部分は、少し解析が必要かも知れません。その箇所の原文は、‘Or dirai tu ch'el si dimostra tetro ivi lo raggio più che in altre parti, per esser lì refratto più a retro’ で、直訳すると「その太陽光(raggio)は、より後方から反射するので(per esser lì refratto più a retro)、他の位置(前方)にある太陽光よりも暗いことが判明する(si dimostra tetro)と、あなたは言う(答える)でしょう(dirai tu)」となります。「言うでしょう(dirai)」は、動詞「言う(dire)」の単純未来形です。ということは、ベアトリーチェは万事を知る天女ですから、登場人物のダンテがそのように正解を答えることが分かっているのです。そこで「光の濃淡は遠近のせいだと知っているだろうから、実験をしてみよう」と、話を続けているのです。



三枚の鏡の実験


鏡理論の月の斑点


 鏡を三つ取って、二つをおまえから等しい距離に置き、その両者の間に第三の鏡をさらに遠くへ離して置いて、鏡の面がおまえの眼に向かうように据えます。おまえはそれに対面して位置し、おまえの背後に光源をすえると、三つの鏡に光がともり、反射しておまえに戻ってきます。量的にいえば、一番遠い火は、さほど拡がりませんが、しかし明かりの質は、他の鏡の火と同質であることがわかるでしょう。(『天国篇』第2歌97~105、平川祐弘訳)

 一番遠い鏡の映像(la vista più lontana)は、量としては(nel quanto)多くは拡がらないので暗く見えますが、質は同じ光源の像を写しています。後方の鏡の暗い像は月の斑点の部分に相当し、また前方の明るい像は月の輝いている部分を表しています。  


両半球の境界

『神曲』(ダンテ)の地球
筆者自身が作品読解の上で作成したものです。

神曲の地球


 ダンテの時代に想定されていた地球は、現代と同じ球形ではありました。しかしその世界は狭く、東はインドから西はジブラルタル海峡の先端までの陸続きの大陸でした。上の詩文の「セビリア(原文ではSobilia、ソビリア)」は、海峡のヨーロッパ側の先端で大陸の最西端の地域です。『地獄篇』第26歌にもセビリアと、海峡のアフリカ側の最西端として「セウタ(原文ではSetta、セッタ)」の地名が出ています。さらにまた、『天国篇』(第27歌82)には、同じ最西端の地域として「カディス(原文ではGade、ガーデ)」という地名も使われています。それゆえに〈セビリア〉も〈セウタ〉も〈カディス〉も、「世界最西端の地」の漠然とした同義語として使われているようです。コロンブス(1451~1506)が大西洋横断に成功するまでは、ジブラルタル海峡以西の大洋は未知の世界でした。
 上に添付した地球儀の方位は現代のものとは反対で、上方が南で下方が北になります。『神曲』を解釈するには必要なので、ほとんどすべてのダンテ学者は、その様な地球儀を想定しています。現代の地球儀のように北半球を上方に設定すると、天国は地球の下の方に設定しなければならなくなりますので、極めて都合の悪いものになってしまいます。南半球の正式名は「水の半球(Emisfero dell' Aqua)」で、北半球は「陸の半球(Emisfero della Terra)」です。なぜ、水と陸地が分離したかは、この先にダンテが地獄を抜けて煉獄へ向かうとき、ウェルギリウスから説明されますので、その時に詳しく見ることにしましょう。
 「両半球」は、原文では‘amendue li emisperi’と表現されています。現代イタリア語で書き換えれば‘ambedue gli emisferi’となります。すなわち「水の半球」と「陸の半球」の両方とも(amendue)の「境界(il confine)」になる地点という意味になります。そして、ダンテたちが第8圏谷の第4ボルジャを巡礼している夜は満月(la luna tonda)で、しかも春分の日の頃の満月は真東辺りから昇り、真西辺りに沈みます。それゆえに、ダンテたちが第4ボルジャを離れようとしている時刻は、北半球にも南半球にも最西端になる大洋の地点に月が沈みかけている時間です。当然、地獄では太陽をみることはありませんので、この世では日の出の時刻になり、およそ午前6時ということになります。





 1300年4月9日聖土曜日の朝6時頃、ダンテはウェルギリウスに先導されて、第8圏谷の第5袋(ボルジャ)に進みます。そこには、現世で汚職収賄を犯した罪人たちが赤く煮えたぎるアスファルトの池に沈められています。

マレボルジェの見取り図