若山牧水
若山牧水
若山牧水は北原白秋と同年生まれだ。この二人の歌人を知ったのは、高校に入ってすぐのほぼ同じ頃だった。白秋は近藤東さんに教えてもらったが、牧水の方は仲間たちが夜な夜な集まる、新宿三光町の「眉」というトリスバーの壁の落書きに偶然見つけて知った。「眉」は全共闘崩れやヒッピー崩れの若者が集まる不思議な場所だった。その時代風俗の先端のような場所で、意外にもその明治の懐かしいような歌に出会った。
白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
周囲のアジビラ風の言葉ばかり落書の中で、取り囲まれるようにぽつんとあるその歌は、何かそこだけ光を発しているようにみえた。わかやまぼくすい、という有名な人の歌らしいわよ、一人で怒鳴ってうたっていたわ、と迷惑そうな顔で言ったのは僕の友人の母でその酒場のマダムだ。実はそのあと、それを壁に書きなぐりながら怒鳴っていた本人のことを知ることになるのであるが、彼は東京大学理学部の学生だった。どういう事情か本人から聞いたことがないが、僕が知り合った頃はすっかりはみ出しの飲んだくれとなっていて、その後大学も中退してしまった。あの歌を壁に書いた事情も聞いたことはない。この歌の大きな空に向かっての孤愁と憧憬の気配は忘れがたく、当時マダムの教えてくれた名前を頼りに岩波文庫の若山牧水歌集を買った。読んでの印象をいえば、最初期の「海の声」が断然突出していた。牧水二十三歳のときの、瑞々しい処女歌集だが、老成した後年の歌集より断然輝いているように見えた。
われ歌を歌へり今日も故わかぬ悲しみどもにうち追はれつつ。
海哀し山またかなし酔ひ痴れし恋の瞳にあめつちもなし
ともすれば君口無しになりたまふ海な眺めそ海にとられむ
君かりにかのわだつみに思はれて言ひよられなばいかにしたまふ
わが若き双の瞳は八百潮のみどり直吸ひ尚飽かず燃ゆ
君よなどさは愁れたげの瞳してわがひとみ見るわれに死ねとや
幾山河声さり行かば寂しさのはてなむ國ぞ今日も旅ゆく
上掲のように、この歌集はほとんどが我が身を包む自然のおおいさに向かって恋情を解き放つ、大きなスケールの相聞の歌に集中している。恋愛へと過剰に傾く心情自体は、明治の浪漫主義の流れの中に置けるが、牧水では恋情が目の前の大きな「自然」と交歓して初めて表現として現れる点で、他に比較するものがなかったと思う。また、奇跡としか言いようがないのは、言葉の豊かさと若さが両立しているだけではなく、紛れもなく若さそのものが言葉を組み伏せて溢れ出ている点だ。その頃僕はまだ身を焦がすような恋愛など知らずにいたが、それでも牧水が恋を眼前の大きな自然に向かって歌う姿勢に、ある種の若者の純粋な自己表現というものを感じ羨望のような感情を抱いた。恋愛の歌ではあるが、大きなものに孤身向かってゆくという点で、明治期の革命家や大陸浪人につながるパトスを感じた。
若くして技術的に異様に老成した詩人や小説家は時にいる(例えば白秋、寺山修司、ラディゲ、三島)。そして多くの場合彼らの「若さ」は、彼らの技巧的成熟の評価を誇張する位置に甘んじている。若年にして天才と言われたそれらの人たちは、一般には「若さに似合わない技術的老成」という、一種のアンバランスこそが評価されるのである。しかし牧水の場合のアンバランスは逆である。牧水では、恋情を通じて現れる若さそのものが、彼の若さに似合わぬ技術を乗り越えて溢れ出ている。ある意味、若さそのものが作品世界の主役となっており、それゆへ牧水がその技術的老成を言われることはまずない。牧水の場合、技術はどこまでも彼の「若さ」の従僕の様なものにすぎない。言い換えれば、若山牧水の場合寺山と違って、若さの自己陶酔が技術を超えて溢れており、いわば「意余りて言葉足らず」の歌を詠んだのである。
「海の声」での牧水は、常に自らの若さに酔い痴れてふらついているかのように見えるのだが、実はそれでいて常に際どい平衡が保たれている。そして、そのような一途な若さはもはや我々の時代にはありえないのではないかー。当時、僕は評論家的にそう解釈したのだが、それが頭でっかちの綺麗事の理解であることは、泥沼のような思春期を何年か経って、嫌というほど知ることとなった。
春の野
昨年、久しぶりに奥只見の尾瀬口に旅をした。四日間の旅はずっと晴天であった。宿の窓から青空を眺めていると、そばの小沢の傍にあった小さな野のことを急に思い出した。その野は、若いころに繰り返し訪れた場所で、記憶ではいつも青空を伴っていた。
しかし久しぶりに尋ねてみると溪沿いの杣はすでに消えかかり、野も笹竹の生い茂るただの山間の一画となっていた。あの恩寵のような野はすでに失われていたのだと知り、僕は行手の谷間を眺めるだけだった。
以下は、1973年にその野と初めて出会った時の、旅行の文章である。当時、革命を信じた若者たちが沢山いたが、それとは真逆の自己放棄的イロニーを抱えた都会の若者もいた。僕は典型的な後者であった。今の人たちには分かりにくいと思うが、この文章にはそのことが幾分か反映している。遠く離れたアメリカで、若い日の感傷的な文章を読み返すと、自分の若い日ももはや幻のようなものになったと感じる。(2000、NY Utica)
五月の山の澄みわたる青空。谿沿いの小径を散歩していて、突然その小さな野に出会った。
鬱蒼としたミズナラの樹林の下、巨大な苔むした倒木が道を塞ぎ、行くての笹竹の薮が谿へと傾いていくところだ。
僕は一休みしようと倒木の上に座って、初めて左手に森に囲まれた小さな丸い野があることに気づいた。煙草を吸いながら、突然の陽射しにキラキラ輝く野を、目を細めて眺めた。小学校の校庭ほどの野は、周囲の森に囲まれて小さな恩寵のように沈黙している。渓音さえここには届かない−。頭上の真昼の空はただ青く、ときおり小鳥が翔けるのみだ。野は光に満ちるのみで、誰もいない舞台のように思われた。
野の光景を、茫洋として眺めていると、見渡す限りの緑の中に一本のきれぎれの踏み跡があることに気がついた。そしてその果て、丁度暗い山毛欅の森へと路が消えていくところに崩れかけた杣小屋が見えた。斜めになった屋根はぺんぺん草で覆われ、板壁は半ばはがれている。野と森の境界に半ば埋もれかけたこの小屋を見つけて、僕はぽつねんと想像した。あそこから出てくるのは千年昔の老人か、あるいは密命を帯びた来るべき兵士か。
するとかつて同様に遠い彼方への幻想にとりつかれ、しかし僕とは逆に未来に身を投げて山中に失踪した君の問いかけが、青空の果てから微かに聞こえてくる。
―千年昔の老人の世界に隠れようとしたお前と、過去の一切から決別しようとした俺がここで会う。二人とも「現在」から追われてこの野原でばったりであったら、俺たちはどのような挨拶をしよう―。
僕には答えが分からない。
だから、お前がかって作った歌の端切れを思い浮かべて口ずさむ。
―悲しいときは野に行こう。そしてゆっくり寝そべって、心のままに空をみよう。鏡のような空をみよう。空に飽きたら、ああ眠りにつこう。
この野にはもう誰もいない。五月の空はただ青く、春の野はかく密やかに、置き去りにされた瞳のように静まりかえる。空は未来の比喩たりえず、それゆえ君があの昏い森から帰ってくる姿も幻にすぎぬ。コートをはおった君の姿が空の青さに溶けかかっている。
僕の下手な歌声は野の丸い空にたちまち消え去る。悲しいときは野にいこう。そしてゆっくり寝そべって、心のままに空をみよう。鏡のような空をみよう。
「全共闘」、僕の先輩
「全共闘」、僕の先輩
僕は昭和27年生まれで、世代的には全共闘世代の少し後ということになる。しかし、当時は大学発の全共闘運動が高校にも波及しており、僕の高校でもバリケート封鎖を企てるような者がいた。社研の部室に行けばアジビラが散乱しており、ヘルメットが転がっていた。僕は大学での全共闘運動やバリケード内部の祝祭的時間は経験しなかったが、高校生なりにその「過激」な雰囲気を少しは知っていたのである。
新宿の遊び仲間が主に3〜4歳年上で、彼らの一部はあのロックアウト空間というアジールの住人だったことも、僕の全共闘に対する心理的距離の近さの一因だった。僕は彼らに、良いことも悪いこともたくさん教わった。たとえば、行きつけの新宿の酒場「眉」にたむろする年上の仲間に、中央大学のブントに属するTさんという人がいた。Tさんは神田カルチェラタンの現場に参加した全中闘のメンバーだったが、その一方で競馬競輪はするしハイミナールもかじるという、一種いい加減にみえる人物だった。しかもどういうわけか、天沢退二郎や鈴木志郎康の詩の熱心な読者という文学青年でもあった(それら全部をまとめて、よく言えばいかにもブント的な人物だった)。党派主導のエリート主義を全く感じさせないTさんに僕は親近感を感じ、諸事全般特に博打と女性について色々と教えてもらった。Tさんは酒場で難しい話はしない人だったが、一度だけシラフの時に「岩田弘を読め」と言ったことがあった。マルクス主義にも経済学にもなんの知識も興味もないと正直に言うと、ではこれを読んで勉強しろと、その場で20ほどの名前を列挙した紙をよこした。マルクスと並んで、プルードンや荒畑寒村、中野重治の名前もあったのを覚えている。Tさんなりの、初心者向けの一覧だった。結局僕は、すでに読んでいた中野重治は別にして、それらの文献はひとつも読まずにおいてしまったが、今になってみると、Tさんとしてはごろつき少年のレベルまで降りてきてオルグするつもりだったのかもしれない。当時は第二次ブントが解体する前後の頃で、まだブントにも「大衆」というものに対する肯定的姿勢が残っていた。Tさんは大学を卒業しなかったはずで、しばらくエロ映画の助手のようなことをやっていたが、その後はヤクザゴシップ雑誌の記者になった。のちの赤軍派の軍隊的作風を思うと、まだブントも牧歌的時代だった。
5歳ほど年上のみゃおさんという人物も忘れ難い。彼は東大の理系に進んだエリートで、噂によれば東大全共闘の成立期に所美都子たちの仲間だったようだ。病的な大酒家で、毎日のように昼過ぎに「眉」にサントリーの角瓶を持ってくると、深夜まで延々と飲み続けた。実に迷惑な客だった。みゃおさんは酔っ払っても、「運動」の話だけはあまりしなかったが、泥酔状態で「俺はセクトなど認めない」だとか、「セクトが運動をダメにした」と喚くことはたまにあった。酒場の仲間の話では、実は高校生時代には反戦高協の設立時のメンバーだったらしいから、何か深刻な学生運動の挫折経験を経て、全共闘から離れたと思われた。僕が知り合う数年前には、全共闘だけでなく大学までドロップアウトしていたらしかった。挫折した男、傷ついてしまった男、というのがみゃおさんから受ける最終的な印象であった。このみゃおさんは、僕に若山牧水、石川啄木、寺山修司、岸上大作などの歌人を教えてくれた。僕は彼を通して現代短歌の世界を知ったのだが、彼は二年ほどでぷっつり「眉」に顔を出さなくなり、我々の前からいなくなってしまった。ある時彼は酔っ払って牧水の「白鳥は悲しからずや空の青海のあおにもそまずただよふ」を「眉」の壁に大書落書きしたが、彼がいなくなった後に壁に描かれた牧水の歌を見ると、それは妙に静まり返っていて、僕はセンチメンタルな気分になった。噂によれば新潟の山奥の山小屋の主人になり自然に埋没するような生活をしていたらしいが、ある日ふらりと小屋を出たきり二度と戻ってこなかったという話だ。
ところで、それら半崩れの「全共闘」の先輩たちとの接触にもかかわらず、僕自身は一度として全共闘運動に参加したいと思ったことはなく、またその主義思想に共感したこともなかった。そのわけは、Tさんやみゃおさんだけでなく、彼らのほとんどが全共闘青年というよりは挫折した元全共闘青年だったからだ。現場の「全共闘」のビビッドさや明るい展望を語るものは、僕の周りにはいなかった。彼らは皆何か失敗したと感じ、酒や博打に退行し、投げやりになっていた。
しかしそれ以上に、当時の僕自身が、全共闘はもはや古臭い近代主義で、明治以降連綿と続く観念的理想を夢見るロマン主義的心情の、繰り返しの末端にしか過ぎないとなぜか決めつけていた。また、空間的に言ってもそれは都市生活者の運動ではなく(都市生活者はもう革命を夢みないと思っていた)、地方のもの、または地方から出てきた者の運動だと思っていた。当時は、巨視的に見て近代が過ぎ去りつつある時間的過渡期だったが、それに対応して空間的にも都会と田舎(それは滅びつつある近代を象徴する場所だった)はまだ分裂していた。全共闘運動が体現しているのは、歴史的には明らかに近代的な浪漫的心情であり、空間的には田舎の青年の心情であるとみなしていた。そして、全共闘運動のお祭り騒ぎは、時間的にも空間的にも、自壊してゆくものの最後の狂乱のように見えた。
僕の座右にあるのはマルクスでもトロツキーでも毛沢東でもなく、ランボー、戦前のモダニズム詩、佐藤垢石、落語、久生十蘭、そして「日本浪漫派」と新古今であった。意識的自己放棄と反近代的虚無が当時の僕の主題だった。当時の僕の周りの新宿の不良少年たちは都市出身者が多かったが、自分を含めてそのような冷めた視線がある意味共通のものだったと思う。だから僕たちは全共闘のアジテーションを、恥ずかしくて軽薄だと嘲笑していた。中学以来の友人のNが、バー「眉」のテレビニュースを見ながら「なんて健康なんだ!」と冷笑半分に酔いタグれて爆発的な大笑いをしたのは神田カルチェラタンの若者たちに対してであった。(そのためその場にいたTさんと殴り合いの喧嘩となった)。戦争でも恐慌でもなく、戦後のぼんやりとした日差しに包まれた無限の日常の只中で、「未来に対するロマンティックな計画はない。我々は受動的に消費されていくしかない」というイロニックな感覚が、僕たち都会っ子に共通のものだったと思う。
安田講堂陥落以後、全共闘運動は潮が引くように下降線をたどった。この現象は、一種寂寥を感じさせることだったが、退潮は全共闘が生み出した鬼子とも言えるあの連合赤軍事件でとどめを刺された。(連赤を全共闘運動と結びつけてイメージすることには、全共闘の体験者からも一定の反発がある。あの究極的に陰惨で原罪的出来事は、全共闘運動の持っていた解放性、向日性とは真逆だという意見。彼らに対して単純に怒りを示し、無関係な出来事として切り捨てる意見。―それらについての感想は別に語ろうと思うが、ここではあの退潮期に僕がどのような気分で過ごしたかということだけを書き止めておきたいと思う)。
結論を言ってしまえば、僕は、意外にも、この時期になって自分が拠り所のようにしていた座右の文物(反近代的な文物)もまた少しずつ輝きを失ってゆくように感じ始めた。それとともに、それと平行して、初めて僕は否定してきたはずの「全共闘」運動に対する一種の親近感を自覚するようにもなった。それらの感情はいずれも自分をたじろがせることだった。つまり全共闘運動の退潮は、僕にとって相対的に自らの思念の足場をぐらつかせる経験だったのである。
この経験によって、共感したことがないと思っていた彼らと僕の足下には、共通の「戦後」という近代のなれの果てに溜まった泥のようなものがあることに気づかされた。そして、その「泥のようなもの」こそ「我々」に共通する、時代のトニカらしかった。全共闘運動の時代からの退場と共に、自分の拠り所にしていた反近代的虚無とイロニーが、実は彼ら新左翼に代表される近代的進歩主義に対する対抗概念〜観念的ポーズでしかなかったことが僕の内部で露見していった。この時期になり、空間的には都会人である僕も、時間的には彼らと同様に「近代」を卒業などはしてはいなかったということに気付かされたのである。
そして僕はこの時期、一種不機嫌な気分の下で、今や自分の同類である彼らの中からこの自滅あるいは敗北の経過に最後まで付き合う者が出てくるかどうかだけを、固唾を呑むような気分で傍観していた。そしてその終わり、1972年の2月に、テレビの画面で浅間山荘事件を見た。さらにその後やはりテレビのニュースで彼らの同志殺しを知った。逆説的だが、このとき僕は初めて、「全共闘」の先輩たちに対する心底の哀切と共振を実感的に感じた。