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模索舎とウニタ;自費出版プレスと時代の自己表現についての雑感

 最近、新宿の模索舎にはじめて行った。昔から名前だけは知っていたが、想像どおり「70年前後」の匂いのする、今時貴重な本屋であった。全く無名の詩人や政治結社、思想団体のパンフレットのコーナーのかたすみに、ホッチキスでとめた「腹々時計」の復刻パンフレットがなにげなく置いてあるのをみて、ますますその感を深くし、おもわずウニタのことを思い出した。ウニタの店頭にはプライベートプレスの小冊子やパンフレットが山積みになっていたが、この小冊子がそれらにまぎれて、当たり前のように置いてあったのを思い出したのである。

 現在の模索舎には、自費出版のコーナーだけでなく、辺境、ジェンダー、リブ、原発、部落などと分類された項目に加えて、漫画や映画などのサブカルチャーのコーナーもある。ウニタは分類など無縁の、実に愛嬌のない店だったしこれほどには書棚の世界に広がりはなく、左翼系の政治パンフばかりがあふれかえっていた。だから、模索舎の本棚を眺めていると、あの時代に発生した「核」がはじけて広がった、その広さを感じさせられる。ただし、プライベートプレスの質だけは、かってのウニタが遥かに凄かったと思う。意外だが、あの左翼ごりごりのウニタに山積みにされた自費パンフレットの山から、火急、長帽子、反碧南文化、凶区、プロボーク、漫画主義などの雑誌に出会ったように記憶する。模索舎の自費出版のパンフレットを拾い読みして、これらを読んで密かに今興奮している若者がどれだけいるのだろうか、と思う。

 昼下がりの模索舎は閑散としていた。僕が店にいた間、他の客は一人もおらず、本棚の影でレジのお姉さんもひっそりと静まり返っていた。かってのウニタは何時いっても若者でごった返していて、僕も中大のブント系のセクトに属する先輩と、よく「ウニタの前」で待ち合わせた。行くと先輩が見知らぬ青年とその場で議論沸騰喧嘩沙汰といったこともあった。ウニタは突然なくなりその跡は確か駐車場になった。その頃から、町なかで興奮して議論する青年もしだいに見かけなくなった。それから幾十年。模索舎にいて、時代そのものが、すっかり自己表現をしなくなったことを痛感するのである。

牧野虚太郎

 最近、折戸彫夫の詩集「化粧室と潜航艇」を入手した。昭和4年発行。名古屋のモダニズム詩誌ウルトラの叢書として出版された。戦前モダニズム詩の比較的初期の、フランス装の洒落た本である。天野隆一の表紙にも典型的なモガの絵がはめ込まれている。どの作品にも疑似西欧都会的雰囲気が横溢しているが、それ以上のものはいっさいない。徹底して表層的、衣裳的である。

  白い物語(ストーリー)
A メフィストフェレス
B 天体の女
C カフェー
D シガーの煙と檣柱とホワイト.タイヤー
E (エッフェル塔と白花束)
F タイピストの指とターキス石の電話番號
G ロールスロイスの白い窓
H シルクハットの下りた自動車(フィアクル)
I 奥さんのいない部屋


 あまりに衣裳的なので、僕は思わず後の牧野虚太郎や千田光の作品との落差を思った。いずれも戦争直前に死んだ、折戸から10年あまり後の、後輩モダニストだ。
 戦前モダニズムの世界が、折戸的意匠性から10年余後にたどり着いた場所とは、例えば次のようなものである。

  復讐(牧野虚太郎)
ランプをあつめれば
あなたの喪章につづいて
哀しい鏡と
靜かにおかれた影がある
ことさらの審判に
私のナイフはさびて
つづれをまとふた影がある
誰もゐないと
言葉だけが美しい


 牧野の詩は、折戸的モダニズムが底なしの虚無の汀にたどり着いたことを示す痛ましい一例だ。折戸にはまったくない放心と絶望が、ここではほとんど無色透明な高みにまで蒸溜されている。その落差は著しくて、両者が一連なりの系譜にいるとは一見思えない。
 しかし実は、(乱暴な言い方だが)彼らモダニストは共通して、新人会出の転向左翼でも日本浪漫派でもなく、つまりは「挫折したインテリ」などでなかったという共通点がある。彼らにはいかなる観念的動機—マルクスとの格闘も後鳥羽院への耽溺もなかった。せいぜいジョイスやブルトン風の文芸理論を借り物的に持ち出しても、土台は都会の先端風俗に敏感な、フワフワとした、余裕のある環境の少年達にすぎなかったといえる。しかしそのような少年たちこそが、いかなる観念にも置き換えられない深い深淵を、ついには凝視する事を強いられたのである。戦争前夜の新宿のうす闇の場末のバーで、衣裳的であること自体がおそらくは牧野の虚無の切実な自己表出であり、マルクスでも後鳥羽院でもなくあの時代の暗いくらい夜と無数の仲間達の死こそが、彼らに与えられた家父長的壁であった。そしてそこには、いかなる脳髄経由の煩悶とも縁のない、本物の悲鳴が宿っていた。
 だから、牧野(や千田)の詩の虚無の感情は、日本の近代文学史を見渡しても類例のない、しかもとても深いものだと思う。戦時の無数の青春の死、マスの死を眼前にした牧野たちの虚無は本質的に世界の側から強いられたもので、つまり、いかなる個人的思弁や感覚といった事情も一顧だにしない、時代の行くての死の巨大さの、鏡のようなものであった。

月光の溪(1972)

 ミョウカンの遡行で終日がすぎ、身体は真綿のようだ。溪から10メーター程度登ったミズナラ林の斜面にテントを張り、寝袋を広げ、夕飯の岩魚の腹を裂き、万端終えてようやく飯を炊いた。飯盒と岩魚の具合を見ながら、たき火を囲んで二人でウイスキーを呑みはじめる頃には、夜の寒さがしんしんと谷底におりて来た。 


 気が付くと、先程まですぐ目の前に見えた渓ももはや闇に埋もれて一切見えない。闇の中で、溪音だけがかえって強く響く。月が尾根の上の遥かな高みで、うす雲のむこうに滲んでいる。ぼんやりと丸い月の周囲に、うす雲のむらむらがゆっくりと動いてゆく。その下、漆黒の尾根の輪郭がぼんやりと浮かび上がっている。


 それから、言葉もなく火を眺めていると、正義が突然
「おい、見ろよ、溪があんなに光っている」
といって眼下の溪音の方を指差した。丁度小さな滝となって沢の流れが淵に落ち込むあたりで、その飛沫が輝いているのである。それは闇の中で光る帯のようにみえた。溪はその一画でのみ、氷が砕け散ったような光の狂騒となって流れていた。驚いて思わず空を見ると、雲を払って痛々しいまでに縁をくっきりとさせた月が中天にあった。月光は燦然と渓流を照らしはじめていた。

 
 だが光の狂騒はその一角だけで、前後とも深い闇だ。闇から来た渓の流れは、その一瞬だけ夥しい光を浴びて狂奔し、そしてたちまち闇の中へ去るのである。輝きは砕け散った氷のかけらのように繊細伶俐であったが、それに見とれているうちにむしろその前後の闇の無際限な広がりが迫ってきた。我々はしばらく茫然とこの光景を眺めたが、それは雲が月を避けたほんの僅かな時間の出来事だった。やがて雲が再び月を覆うと、輝きの一画は消え去り、二度と戻らなかった。