kondoclのブログ -4ページ目

小熊英二「1968」読後感

 いろいろと、当時の具体的事情や世の中の背景がわかる本だ。また、膨大な情報を整頓して、学生運動を近代的なものと現代的なものとの間の断絶が急激に生じた時代の出来事、と要約するのも自然と納得できる。たいした力業の本である。
 ところで、個人的な思いを言えば、この断絶には空間的な広がりもあったと思う。あの時代は両者が同じ日本の中で併存していた特殊な空間を作っていた。そして、あの運動は明らかに田舎の青年の側の、あるいは近代的精神の側の悲鳴のようなものだった。僕は都会生まれの都会育ちだったから、マルクスの説に根ざした運動そのものに同調できず、それが古くさい近代主義にしか思えず、[運動]のみならずそもそもあらゆる政治を侮蔑していた。

 ゴダール、天沢退次郎、輿重郎、つげ義春、Provoke、佐藤垢石、競馬、新古今と只見の深山の自然。一見真逆の非政治的な文化志向は、都会育ちの青年としては、実はむしろありふれていたと思う。僕の周りには全共闘の活動家やセクトの人間は少しだけしかいなかった。しかし運動の外部にいても、学生運動を一種共振する心情で眺めてはいた。彼らと我々のいずれも、議会制民主主義を唾棄しており、いずれも戦後の時間をある擬態とみなしていたからだ。両者の間には通底する焦燥と苛立があったと思う。連合赤軍事件のあと、同士殺しの当事者が自分の中学の先輩である事を知ったとき、その事に突然気がついた。そのしばらく後には、バタイユの熱烈な信奉者だった中学以来の友達が、ばくちと酒と乱交のあげくアメリカに遁走し交通事故で死んだ。僕はみんな一緒だと思い、同時に自分の青春の終了を実感した。明らかに、「連合赤軍事件」は僕の青春の終わりの社会的イコンであった。

 「1968」を読んでいて残念に思うのは、そのような対抗同一的な心情が著述の対象から除外されている点である。言い換えれば、この本は地方の青年の心情にそってのみ1968を理解しようとしており、ゴダールやつげや凶区に熱中した都市生活者の心情はあまり反映されていない。しかし僕は、この対抗同一性のさらに深いところにしか、あの時代の意味を説明する答えはないと思っている。つまり両者をまたぐある共振の内容にこそあの時代の熱狂の意味が隠れており、それを知るためには当時の非政治的な運動、文化的な風潮の解析が必須である。そこには政治的熱狂に吸い込まれなかった都会の若者の、全く違った体裁の、しかし実は同根の焦燥が刻印されている筈だ。

 著者は当時の文化的潮流のキーワードになるような名前;吉本だとか寺山だとかが、実は既に若者とはいえず戦中少国民の年代に属する事をあげ、当時の若者の心情を直接に反映する物ではないとして著述の対象から外している。吉本や寺山の年齢についていえばその通りだが、彼らに熱中したのは、紛れもない1968年の少年、青年達であった。その事情は「運動」の世界でも似たようなものではなかったかと思う。梅本も廣松も谷川も戦中少国民の世代かその近辺である。問題は一世代上の人達が1968年に行った事—ブントでも構改でも吉本でも寺山でもつげでもーに1968年の若者が異様に共感したというときのその実質である。原正孝だとか帷子耀だとか中上健次だとか安倍慎一だとかの当時の若い表現者達の表現は、当時の政治青年達(廣松やら岩田やら梅本やらのエピゴーネン達)の生硬なアジびらの文章と主張に対応している筈である。いずれがかけてもあの時代の立体的理解にはたどり着けない筈である。

山の歌

 1968年、十六歳の夏、僕は弟に誘われて新潟福島県境の尾瀬口の山小屋で一週間ほどを過ごした。初めて日本の深山の空と水を知った旅で、そこで生活している人たちの懐かしい生活の流儀にも初めて触れた。単に鮮烈であるだけでなく、深い共振をおこす、全てが浄化されていくような体験であった。
 その旅からもどってすぐ後、偶然北原白秋と若山牧水を知った。いずれも、近藤東さんが詩の言葉とはこういうもんだといっていくつかの歌を酔って詠じたのを聞き、読もうと思いたったのである。はたして、「桐の花」を一読してたちまち白秋が天才だとわかった。本物の感覚があり、しかも無欠の技巧がその感覚に形態を与えている。あまりに完璧に「詩人の技」で、ただ仰ぎ見て酔うのみといった心地であった。一方で、牧水は少し違った。牧水を読むと、恋と旅の情緒に溺れて言葉が形式の器を溢れてしまい、技巧はあとから追うが間に合わないといった感じがした。形を与えるという配慮を常に情感がすこし上まわっているのである。しかし「海の声」を読みおえればそれはそのようにできた微妙なバランスであると思われた。すこし傾いだ危うげなバランス自体は一貫して崩れない。牧水もまた天才だと思ったが、少し酔いどれているような天才であった。牧水は読者に隙のようなものを感じさせ、その分無防備に酔えた。僕だけでなく、その頃はまだ牧水の身ぶりの大きさが、青年の青臭いロマンティズムに響いたようだ。夜毎集まる三光町のバー「眉」の壁には、インターナショナルの歌詞やアジ文と一緒に、誰が書いたのか「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」が書きなぐってあった。その歌の作者が牧水であることを「海の声」を読んで初めて知った。
 僕は牧水に引き金を引かれて、尾瀬口の思い出を歌にしようと思い立った。酒場の片隅で、ノートに一月前の尾瀬口旅行の歌を書きだした。

駅舎の灯きえて夏夜は深まれり貨車の軋音遠く響けリ
夏虫の声突然になりやみて貨物列車は到着したり
旅のはて枝折峠の朝霧が吾弟のさしし方を隠せり
夏雲はとおし燧のむこうよりたえずきたれり憧れのごと
きれぎれの道どこまでも青空でその果ていつも燧がみえる
一瞬の夏おもいでの青空はいつも燧と弟があり
おおいなる掌空に眠りたり吾が忘れきし種子を抱きて

 酒場の先輩のひとりがこれらの歌を一読して、お前の歌は妙に懐古的でへたな谷内六郎みたいだと喝破した。確かに、まだ恋愛の泥沼も革命の夢も知らず、憧憬の行き先は過去にしかなかった。当たっているだけにそう指摘されれば半ばは納得せざるをえず、「経験した尾瀬口はこれよりももっと深かった」と思った。夾雑物のない純然たる尾瀬口の自然を、世界の美しい雛形として表現したいと思った。
 僕は子供の頃から、家の書棚の八代集や宗達光悦をとおして、日本の自然のメタファーには馴れ親しんでいたが、それらが置き去りにしていた宝物のように姿を現した。自然は実感以外の何ものによっても近付けないが、しかしその実感は古来連綿として形作られて来た象徴的な意識の形式に掣肘されている。たった一週間の、尾瀬口の自然の光景はつかの間のものだが、歴史の畜積の中で洗練されてきた象徴的イメージにそれを敷衍結晶させれば、僕の見た山の光景には文化の原形が宿るだろう。僕は批評を受けてすぐに、尾瀬口の印象を核にして、全く架空の、抽象化された日本の風景をよんでみた。

去年(こぞ)の秋冬の哀切を過ぎたれば山緑むしろ悲傷に満てり
名前なきまるき緑山重なりてただ静かなり琳派のごとし
山桃もぼけも桜も散りはてて村の日中の光閑けし
山重なりて本体俯瞰しえず陽はゆっくりと沈みゆけり
秋の夢月明かるくて山の端を越えるそま見ゆ暗きへ去りぬ
ぶな平越えてきし薬売りは月光ずぶぬれになり荷をおろす
入水せし僧人夫女郎らは山深ければ木霊となりぬ
ただ去りてゆく波なれば波のまえみな拝跪せり断念として

 その頃すでに、10月21日の大騒ぎやら、帷子輝やらコルトレーンやら、ゴダールやらつげ義春やらが頭上を通り過ぎる、めくるめく日々が始まっていた。その日常に翻弄されながら、僕はぽつぽつと、気がつくとといった調子で山の歌を作った。旅行の直後の印象をふまえて書いたものも少しあるが、大半は机上の空想で書いた。山の歌はある種の慰謝であった。もはや書くまいと思った直接のきっかけは、連合赤軍事件である。それはあまりに深く問いかけてきて、社会を捨象し自然のみを抽象化した世界に埋没していることが無意味、あるいは犯罪的に思え、慰謝はその時から心の中で禁じられた。僕の山の歌は、あの時代の大騒ぎの、木の間がくれのような思い出としてある。

夏の思い出

 それはまだ僕が少年だった頃の奥只見の溪の記憶である。遠い宝石箱のような無数の山の記憶の片隅で、静まりかえってすべてを俯瞰するような光景の記憶である。


 鷹の巣から山を越えて入った恋之岐は深山幽谷であった。陽は既に中天にあり山上はまだ見えぬ。行くてははるかに遠い。僕はたった一人重いリュックをしょって山を越え、延々沢をのぼってきたからすっかり疲れた。小さな滝となって落ちる枝沢が作る淵の傍らに腰を降ろし休憩していると、突然、眼下の淵底に一匹の痩せこけた大岩魚がいることに気がついた。


 岩魚は、淵底の白い滑の岩盤の上に、黒々とした体を上流に向け、尾をくゆらせて静止していた。岩魚の頭上の透明なみずくれは陽射しに充ちて、40センチほどもある魚体は白い斑点や油びれまではっきりと分かった。「岩魚だ!魚籠に入れたことがないような大きな岩魚だ!」気づくとたちまち胸がどきどきしはじめた。タバコを口にくわえたまま、目だけは岩魚を凝視して、リュックから静かに竿をとりだした。ハリスをはりに結び、ガン玉を掌に取り出し、釣り糸に噛ませる。道糸の長さを竿に合わせる。それら一連の動作がわれながらもどかしい。多分山中でただひとり、僕の眼は三角になっていたに違いない。ところが淵の底で刻印のごとく静まっていた岩魚は、釣り支度が終わる寸前に、突然悠然と尾を揺らして岩の下の暗がりへ去ってしまった。消え去るのも突然であった。はたして、じたばたしている僕に気が付いたのか、気が付かなかったのか。


 呆然として岩魚のいなくなった淵の、虚ろな陽射しに満ちた空間をみつめていると、思わぬ感情がわいてきた。二度とあの岩魚とは会えないだろう、という感情だ。一期一会。かく万物はすれ違いのままにお互い去ってゆく。山上はまだ遥かに遠く、見渡しても氾濫する緑のなか溪は山ひだの向こうから流れ来り、足下をまたたくまに流れ去るばかりだ。そのとき僕は、まさに山中のまん中に一人ぽつねんといること、山中の無限に気がついた。

 
 たしかその夜も満点の星空で、谷沿いの小台地でビバークし、翌日平が岳山頂手前の笹薮で呻吟したのだが、既に記憶はおぼろだ。翌々日一気に平が岳山頂から大くら尾根を下った。全経過夕立ち以外晴天の山旅で、その間あの岩魚以外、何者にも会わない旅だった。それから年を経て、岩魚が去ったあとのあの青い水塊を思い出すと心が澄んでいく。なんと空虚な青。そのような形で、溪の記憶は残った。もはや岩魚の姿もおぼろになり、その淵の青だけが取り残されたように鮮明に残る。そしてふと、あれは本当に岩魚だったのだろうか。幻のようなものではなかったのかと、思うのである。