夏の思い出 | kondoclのブログ

夏の思い出

 それはまだ僕が少年だった頃の奥只見の溪の記憶である。遠い宝石箱のような無数の山の記憶の片隅で、静まりかえってすべてを俯瞰するような光景の記憶である。


 鷹の巣から山を越えて入った恋之岐は深山幽谷であった。陽は既に中天にあり山上はまだ見えぬ。行くてははるかに遠い。僕はたった一人重いリュックをしょって山を越え、延々沢をのぼってきたからすっかり疲れた。小さな滝となって落ちる枝沢が作る淵の傍らに腰を降ろし休憩していると、突然、眼下の淵底に一匹の痩せこけた大岩魚がいることに気がついた。


 岩魚は、淵底の白い滑の岩盤の上に、黒々とした体を上流に向け、尾をくゆらせて静止していた。岩魚の頭上の透明なみずくれは陽射しに充ちて、40センチほどもある魚体は白い斑点や油びれまではっきりと分かった。「岩魚だ!魚籠に入れたことがないような大きな岩魚だ!」気づくとたちまち胸がどきどきしはじめた。タバコを口にくわえたまま、目だけは岩魚を凝視して、リュックから静かに竿をとりだした。ハリスをはりに結び、ガン玉を掌に取り出し、釣り糸に噛ませる。道糸の長さを竿に合わせる。それら一連の動作がわれながらもどかしい。多分山中でただひとり、僕の眼は三角になっていたに違いない。ところが淵の底で刻印のごとく静まっていた岩魚は、釣り支度が終わる寸前に、突然悠然と尾を揺らして岩の下の暗がりへ去ってしまった。消え去るのも突然であった。はたして、じたばたしている僕に気が付いたのか、気が付かなかったのか。


 呆然として岩魚のいなくなった淵の、虚ろな陽射しに満ちた空間をみつめていると、思わぬ感情がわいてきた。二度とあの岩魚とは会えないだろう、という感情だ。一期一会。かく万物はすれ違いのままにお互い去ってゆく。山上はまだ遥かに遠く、見渡しても氾濫する緑のなか溪は山ひだの向こうから流れ来り、足下をまたたくまに流れ去るばかりだ。そのとき僕は、まさに山中のまん中に一人ぽつねんといること、山中の無限に気がついた。

 
 たしかその夜も満点の星空で、谷沿いの小台地でビバークし、翌日平が岳山頂手前の笹薮で呻吟したのだが、既に記憶はおぼろだ。翌々日一気に平が岳山頂から大くら尾根を下った。全経過夕立ち以外晴天の山旅で、その間あの岩魚以外、何者にも会わない旅だった。それから年を経て、岩魚が去ったあとのあの青い水塊を思い出すと心が澄んでいく。なんと空虚な青。そのような形で、溪の記憶は残った。もはや岩魚の姿もおぼろになり、その淵の青だけが取り残されたように鮮明に残る。そしてふと、あれは本当に岩魚だったのだろうか。幻のようなものではなかったのかと、思うのである。