山の歌 | kondoclのブログ

山の歌

 1968年、十六歳の夏、僕は弟に誘われて新潟福島県境の尾瀬口の山小屋で一週間ほどを過ごした。初めて日本の深山の空と水を知った旅で、そこで生活している人たちの懐かしい生活の流儀にも初めて触れた。単に鮮烈であるだけでなく、深い共振をおこす、全てが浄化されていくような体験であった。
 その旅からもどってすぐ後、偶然北原白秋と若山牧水を知った。いずれも、近藤東さんが詩の言葉とはこういうもんだといっていくつかの歌を酔って詠じたのを聞き、読もうと思いたったのである。はたして、「桐の花」を一読してたちまち白秋が天才だとわかった。本物の感覚があり、しかも無欠の技巧がその感覚に形態を与えている。あまりに完璧に「詩人の技」で、ただ仰ぎ見て酔うのみといった心地であった。一方で、牧水は少し違った。牧水を読むと、恋と旅の情緒に溺れて言葉が形式の器を溢れてしまい、技巧はあとから追うが間に合わないといった感じがした。形を与えるという配慮を常に情感がすこし上まわっているのである。しかし「海の声」を読みおえればそれはそのようにできた微妙なバランスであると思われた。すこし傾いだ危うげなバランス自体は一貫して崩れない。牧水もまた天才だと思ったが、少し酔いどれているような天才であった。牧水は読者に隙のようなものを感じさせ、その分無防備に酔えた。僕だけでなく、その頃はまだ牧水の身ぶりの大きさが、青年の青臭いロマンティズムに響いたようだ。夜毎集まる三光町のバー「眉」の壁には、インターナショナルの歌詞やアジ文と一緒に、誰が書いたのか「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」が書きなぐってあった。その歌の作者が牧水であることを「海の声」を読んで初めて知った。
 僕は牧水に引き金を引かれて、尾瀬口の思い出を歌にしようと思い立った。酒場の片隅で、ノートに一月前の尾瀬口旅行の歌を書きだした。

駅舎の灯きえて夏夜は深まれり貨車の軋音遠く響けリ
夏虫の声突然になりやみて貨物列車は到着したり
旅のはて枝折峠の朝霧が吾弟のさしし方を隠せり
夏雲はとおし燧のむこうよりたえずきたれり憧れのごと
きれぎれの道どこまでも青空でその果ていつも燧がみえる
一瞬の夏おもいでの青空はいつも燧と弟があり
おおいなる掌空に眠りたり吾が忘れきし種子を抱きて

 酒場の先輩のひとりがこれらの歌を一読して、お前の歌は妙に懐古的でへたな谷内六郎みたいだと喝破した。確かに、まだ恋愛の泥沼も革命の夢も知らず、憧憬の行き先は過去にしかなかった。当たっているだけにそう指摘されれば半ばは納得せざるをえず、「経験した尾瀬口はこれよりももっと深かった」と思った。夾雑物のない純然たる尾瀬口の自然を、世界の美しい雛形として表現したいと思った。
 僕は子供の頃から、家の書棚の八代集や宗達光悦をとおして、日本の自然のメタファーには馴れ親しんでいたが、それらが置き去りにしていた宝物のように姿を現した。自然は実感以外の何ものによっても近付けないが、しかしその実感は古来連綿として形作られて来た象徴的な意識の形式に掣肘されている。たった一週間の、尾瀬口の自然の光景はつかの間のものだが、歴史の畜積の中で洗練されてきた象徴的イメージにそれを敷衍結晶させれば、僕の見た山の光景には文化の原形が宿るだろう。僕は批評を受けてすぐに、尾瀬口の印象を核にして、全く架空の、抽象化された日本の風景をよんでみた。

去年(こぞ)の秋冬の哀切を過ぎたれば山緑むしろ悲傷に満てり
名前なきまるき緑山重なりてただ静かなり琳派のごとし
山桃もぼけも桜も散りはてて村の日中の光閑けし
山重なりて本体俯瞰しえず陽はゆっくりと沈みゆけり
秋の夢月明かるくて山の端を越えるそま見ゆ暗きへ去りぬ
ぶな平越えてきし薬売りは月光ずぶぬれになり荷をおろす
入水せし僧人夫女郎らは山深ければ木霊となりぬ
ただ去りてゆく波なれば波のまえみな拝跪せり断念として

 その頃すでに、10月21日の大騒ぎやら、帷子輝やらコルトレーンやら、ゴダールやらつげ義春やらが頭上を通り過ぎる、めくるめく日々が始まっていた。その日常に翻弄されながら、僕はぽつぽつと、気がつくとといった調子で山の歌を作った。旅行の直後の印象をふまえて書いたものも少しあるが、大半は机上の空想で書いた。山の歌はある種の慰謝であった。もはや書くまいと思った直接のきっかけは、連合赤軍事件である。それはあまりに深く問いかけてきて、社会を捨象し自然のみを抽象化した世界に埋没していることが無意味、あるいは犯罪的に思え、慰謝はその時から心の中で禁じられた。僕の山の歌は、あの時代の大騒ぎの、木の間がくれのような思い出としてある。